第28話「証人尋問」
六月九日。東京地方裁判所、第六〇三号法廷。
天井が高い。傍聴席は半分ほど埋まっている。スーツ姿の男が多い。保険業界の関係者か、それともダンジョン業界の人間か。区別がつかない。
わたしは証人席に座った。
木製の手すりの手触り。ニスが塗り直されていない部分が、指先にざらつく。正面に裁判官。右手に原告席。水守達也が座っている。
初めて見る顔だった。
四十代前半。細身。銀縁ではなく、黒縁の眼鏡。わたしと同じフレームの色。髪は短く刈り込まれ、スーツはネイビーの三つ揃い。カフスリンクスが光っている。表情は穏やかで、口元には薄い笑みすらある。
隣に桐生の姿はない。原告は法人名義だ。桐生個人が出廷する必要はなかった。
「証人に質問を許可します。原告代理人、どうぞ」
裁判官の声。水守が立ち上がった。動作に無駄がない。書類を一枚も持たずに、証人席の前に立つ。
「宇津木伊吹さん。三豊ダンジョン保険、損害査定部第三課所属ですね」
「はい」
「あなたは探索者ですか」
「いいえ」
「保有スキルは【真贋鑑定】。探索者協会登録番号NR-4721。間違いありませんか」
「間違いありません」
水守が一歩、横に動いた。傍聴席が視界に入る位置。計算された立ち位置。わたしではなく、傍聴席に向けて語る姿勢だった。
「【真贋鑑定】というスキルについて伺います。これは学術的に検証された能力ですか」
「探索者協会の登録スキルです。登録時に能力試験を受けています」
「能力試験の内容は」
「非公開です。協会の規定により」
「つまり、第三者による客観的検証は受けていない、ということですか」
佐伯が異議を申し立てるかと思った。だが、佐伯は動かない。打ち合わせ通り。ここは水守に喋らせる。
「探索者協会の登録基準は、第三者検証に準じるものです」
「準じる。しかし、同一ではない」
水守の声に抑揚はない。淡々と事実を積んでいく。嘘はない。だが、印象を操作している。傍聴席の記者がペンを走らせるのが見えた。
「では別の角度から。宇津木さん、あなたは二〇二六年五月十五日に新宿第七ダンジョンの十九層に入層しましたね」
「はい」
「目的は」
「当社嘱託社員の安否確認です」
「探索者ではないあなたが、十九層まで潜った。C級探索者の同行があったとはいえ、非探索者の深層入場は探索者協会規約で制限されています。この入層は適法でしたか」
佐伯が立った。
「異議あり。本訴訟の争点との関連性を欠きます」
「却下します。原告代理人、訴訟物に関連する質問に限定してください」
裁判官の指示。水守が一礼する。表情は変わらない。だが、彼の目的は達成されている。傍聴席に「宇津木は規約違反の可能性がある」という印象を植えた。法廷では採用されなくても、傍聴席の記者の頭には残る。
*
佐伯の反対尋問の番が来た。
「被告代理人、どうぞ」
佐伯が立つ。小柄な体が、法廷の広さの中で頼りなく見える。だが、その声は、六畳の事務所で聞いたときと同じ落ち着きを持っていた。
「宇津木さん。証拠甲第七号について説明してください」
証拠甲第七号。わたしがTier2で読み取った新宿第七ダンジョンの仕様書データと、ダンジョン庁公式記録の照合資料。一致率九十八・七パーセント。
「新宿第七ダンジョン三十二層の構造データを、わたしのスキル【真贋鑑定】Tier2で読み取りました。そのデータを、ダンジョン庁が保有する公式測定記録と照合したものが、この資料です」
「照合の結果は」
「一致率九十八・七パーセント。不一致の一・三パーセントは、ダンジョンの自然変動による時期差と考えられます。ダンジョン庁の芝山主任調査官が検証に協力し、この結論を書面で確認しています」
水守が目を細めた。一瞬。すぐに表情を戻す。だが、わたしは見た。予想外の証拠が出たときの、あの微細な反応。
「この資料の出所は」
水守が口を開いた。裁判官が「原告代理人の質問は被告代理人の尋問終了後に」と制した。水守は着席する。
「つまり、【真贋鑑定】の精度は、国の公式機関であるダンジョン庁のデータと九十八・七パーセント一致している。そういうことですね」
「はい。スキルの信頼性を客観的に示す資料として提出しました」
佐伯が頷いた。傍聴席に向き直る。
「以上です」
*
水守の再尋問。
「興味深い資料です。ダンジョン構造の読み取り精度が高いことは認めましょう。しかし、宇津木さん。構造データの読み取りと、書類の真贋判定は、同一のスキルですか」
「同一スキルの異なる段階です。Tier1が書類の色判定、Tier2がダンジョン仕様書の視覚化」
「では伺います。Tier1の色判定——青が真実、赤が虚偽、黒が隠蔽、黄が主観的誤認。この分類は、誰がどのように定義しましたか」
「わたし自身の感覚的な分類です」
「感覚的。つまり、主観的である、と」
「探索者協会の能力試験で、判定精度は確認されています」
「試験の内容は非公開でしたね。裁判官、この点は先ほどの質問と同じ回答に至りますので、これ以上は繰り返しません」
水守が書類を一枚めくった。
「最後に一点。この照合資料は、確かにスキルの構造読み取り精度を示している。しかし、本訴訟における損害賠償の論点——すなわち、被告の調査行為が原告の業務を不当に妨害したか否か——とは直接の関係を持ちません。証拠としての関連性に疑義を呈します」
裁判官がメモを取っている。水守の指摘は正しい。法的に正しい。この証拠が直接損害賠償の判断に影響するかどうかは、裁判官の判断に委ねられる。
法廷では、負けた。
佐伯と目が合う。小さく首を横に振る。想定通り、という意味だろう。
打ち合わせで確認済みだ。この証拠が法廷で即座に効果を発揮する可能性は低い。だが、別の目的がある。
傍聴席の端。中央よりやや左。メモ帳を膝の上に開いた、女性がいた。
三十代前半。短い黒髪。プレスカードは見えないが、記者の座り方をしている。背筋が伸びていて、周囲を観察する目が訓練されたものだった。
彼女がペンを走らせている。証人尋問の間、ずっと書いていた。
法廷を出る。廊下の空気が冷たい。六月の裁判所は、冷房が効きすぎている。
首筋に冷気が触れ、薄いシャツの下で肌が粟立った。革靴の音が、リノリウムの床に響く。
佐伯が隣を歩いている。ヒールの低いパンプス。足音が小さい。
「予定通りです。水守さんは、法廷で勝ちに来た。わたしたちは法廷の外に種を蒔いた」
「あの記者は」
「分かりません。でも、書いていましたね。ずっと」
エレベーターホールで早乙女が待っていた。傍聴席には、いなかった。建物の外で待機していたはずだが、もう中に入っている。
「どうだった」
「法的には負けました。水守は巧い。スキルの信頼性を主観的と印象づけて、証拠の関連性に疑義をかけた」
「じゃあ何のために証言台に立った」
「傍聴席に記者がいました」
早乙女の目が細くなった。一瞬で理解が走る。元刑事。情報のリークと報道の関係は、嫌というほど知っている人間だ。
「なるほど。法廷は舞台で、客席が本番ってことか」
佐伯が小さく頷いた。
「水守さんの反応も収穫でした。甲第七号の資料が出たとき、一瞬だけ、目が動いた。あの人は、スキルの精度がここまで高いとは把握していなかった」
わたしは廊下の窓から外を見た。霞が関の空は、どんよりと曇っている。六月。梅雨の気配が、空気に混じり始めている。
法廷では負けた。だが、傍聴席にいた記者が、メモを取っていた。




