第27話「答弁書」
訴状が届いたのは、五月二十九日の朝だった。
三豊ビル北館の受付で、書留の封筒を受け取った総務の担当者が、わざわざ十二階まで持ってきた。封筒の厚み。A4で二十枚以上ある。
東京地方裁判所。事件番号、令和八年第三四七二号。原告、雷電リスク・マネジメント株式会社。被告、三豊ダンジョン保険株式会社。
請求の趣旨。被告は原告に対し金五億円及びこれに対する遅延損害金を支払え。
「不当な業務妨害による損害賠償請求。五億」
蓮田が訴状の表紙を読み上げ、マグカップに手を伸ばした。今度は中身がある。湯気が立っている。
「雷電の年間保険料が十四億だ。その三割以上を損害賠償で取り返そうとしてる」
「原告代理人」
わたしは二枚目をめくった。代理人欄に記載された名前。水守達也。銀座二丁目の法律事務所。登録番号と所属弁護士会。活字は小さいが、読み間違えようがない。
「来たな」
早乙女が椅子の背にもたれた。カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んでいる。靴の先で床を二度叩く。考えている時の癖だ。
「五億か。全契約の六パーセントを握ってる相手が、調査した側を訴えてきた」
「逆提訴だ。保険業界じゃ珍しくない」
蓮田がコーヒーを啜った。マグカップの底に残った最後の一口。飲み干す音が、やけに大きく響いた。
「で、うちの弁護士は」
*
佐伯真紀子。五十二歳。四谷三丁目の個人事務所。企業法務ではなく、個人の損害賠償訴訟を二十年以上続けてきた弁護士だった。
「有坂さんの紹介です。有坂さんのお母さんが生前、交通事故の示談で世話になった弁護士だそうで」
蓮田が眉を上げた。
「大手の法律事務所じゃないのか」
「大手は利益相反で受けられません。雷電グループは年間保険料十四億の顧客です。三豊と取引のある事務所は、ほぼ全て雷電とも取引がある」
パイの大きさが、そのまま利益相反の壁になる。保険業界で十四億を払う顧客と敵対できる弁護士は少ない。佐伯はその「少ない」側の人間だった。ダンジョン保険とは無縁の、街の法律家。
初回の打ち合わせは、五月三十日の夜。佐伯の事務所は四谷三丁目駅から徒歩二分、雑居ビルの三階だった。看板すら出ていない。ドアの横に名刺大のプレートがあるだけ。
「宇津木さんですね。どうぞ、狭いですが」
小柄な女性だった。白髪混じりのセミロング。丸い眼鏡。事務所は六畳ほどで、壁一面が書棚。法律書と判例集が天井近くまで積まれている。エアコンではなく扇風機が回っていた。首振りの音が、規則正しく部屋を横切る。
「訴状、読みました。水守達也さん。有名な方ですね」
「ご存知ですか」
「名前だけ。東大法学部首席。わたしは日大の夜間です。だから頭のいい人の考え方は、逆に読みやすい」
佐伯が笑った。皺が目尻に集まる。この人は嘘をつかない顔だ、と思った。根拠はない。ただの印象。だが七年間の融資審査で培った直感が、そう告げている。
*
訴状を広げた。佐伯のデスクの上に、A4の紙が並ぶ。水守の文章は整然としている。
一文に無駄がない。主張。根拠条文。証拠番号の紐づけ。破綻がない。
わたしは【真贋鑑定】を起動しなかった。Tier1でも、活字印刷物に対する色判定は精度が落ちる。
手書きの署名や肉声にこそ、このスキルは力を発揮する。だが、念のために数行だけ視た。
全文、青。
嘘はない。水守は一行も虚偽を書いていない。
「嘘がないんです」
佐伯が首を傾げた。
「訴状に嘘がない、というのは」
「事実の切り取り方が巧妙だということです。書いてあることは全て事実。だが書かれていない事実がある。三豊が雷電の保険金請求を調査したのは正当な業務であり、それを『業務妨害』と呼ぶのは法的な解釈の問題。事実そのものには争いがない」
「嘘のない訴状を、どう崩しますか」
蓮田の声が、電話越しに聞こえた。打ち合わせには同席していないが、わたしのスマートフォンがスピーカーモードで蓮田と繋がっている。
「書類を信じたいんだろ? なら、書類の向こう側を読め」
入社初日に言われた言葉とは、少し違う。あのときは「書類を信じたいからです」とわたしが言った。今は逆だ。書類の向こうにある、書かれなかった事実を証明しなければならない。
「氷室さんのUSBに、取引履歴があります。雷電側が保険金請求の前に行った装備の購入記録と、実際にダンジョンに持ち込んだ装備の差異。これを証拠として提出できれば、三豊の調査が正当であったことの根拠になります」
「使えます」
佐伯が頷いた。ペンを走らせる。便箋に、細かい字で論点を整理していく。ボールペンのインクが紙を擦る音。扇風機の首振り。外から、四谷三丁目の交差点の信号が変わる音が聞こえた。
「答弁書の提出期限は」
「二週間後です」
「書きましょう。今夜から」
佐伯は立ち上がり、書棚からファイルを一冊抜いた。背表紙に『ダンジョン関連判例集 R5-R8』とある。付箋が十数枚、飛び出していた。
わたしはジャケットを脱いだ。革靴の踵が、事務所の薄いカーペットに沈む。ネクタイを緩め、袖をまくる。佐伯がコーヒーを淹れた。インスタント。マグカップに茶色い粉と熱湯。砂糖はなし。
「水守さんの過去の訴訟記録、ここに七件分あります。パターンを読みましょう」
佐伯がファイルの束を差し出した。手書きのメモが挟まっている。この人は、紹介を受けてから今日までの間に準備を済ませていたのだ。街の法律家。だが準備は怠らない。
長い夜になる。
*
深夜一時。
答弁書の骨格ができた。争点は三つ。第一、三豊の調査行為は保険業法に基づく正当業務か。第二、雷電側に不正請求の事実があったか。第三、損害額五億円の算定根拠は妥当か。
第二の争点が全てだった。ここで氷室のUSBが生きる。
「法廷で【真贋鑑定】は使えない」
佐伯に向けた言葉ではなく、独り言だった。だが佐伯は聞いていた。
「スキルによる判定は、裁判所が証拠として採用するかどうかは裁判官の裁量ですね。前例は少ない」
「ええ。だが、法廷の外で集めた証拠に色をつけることはできる」
色。文字通りの、色。【真贋鑑定】Tier1が示す青と赤と黒と黄。それ自体は証拠にならない。だが、どの書類が嘘で、どの書類が本物かを選別する精度が上がる。わたしが「黒」と判定した書類を、佐伯が法的に有効な形で証拠化する。
役割分担が決まった。
四谷三丁目の事務所を出たのは、午前二時十七分。外は五月末の夜気。湿り気を含んだ風が、スーツの襟を抜けた。右こめかみの痛みは引いている。Tier1程度なら反動はほとんどない。
駅に向かって歩く。信号が赤に変わり、立ち止まる。誰もいない交差点で、わたしは訴状の文面を反芻した。水守達也の文章。隙のない構成。だが、隙がないことが、逆にこの男の弱点かもしれない。
完璧な書類は、完璧であるがゆえに、一箇所でも崩れると全体の信頼が揺らぐ。メガバンクの融資審査で学んだことだ。格付けの高い企業ほど、一つの粉飾が全てを瓦解させる。
信号が青に変わる。歩き出す。
法廷で【真贋鑑定】は使えない。だが、法廷の外で集めた証拠に色をつけることはできる。わたしの目は証拠を「選ぶ」ためにある。佐伯の筆が、それを「武器」に変える。
五月末の夜。四谷三丁目の人通りは消えていた。自分の靴音だけが、アスファルトに反響している。




