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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第一部『例外案件係の査定員』

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第26話「露呈」

 蓮田が、北館十二階のエレベーターホールに立っていた。

 コーヒーではなく缶のブラック。自販機のボタンを押す気力しか残っていなかったのだろう。白髪交じりの頭が、蛍光灯の下で妙に白い。スーツの襟が片方だけ折れている。取締役会のフロアから走って戻った痕跡だった。


「遅かったな」


「すみません。地下十九層から歩いて戻るのは、さすがに時間が要りました」


 有坂がわたしの左腕を掴んだまま、蓮田の前で頭を下げた。声が出ない。唇だけが「すみません」の形を作っている。蓮田は缶を左手に持ち替え、右手で有坂の頭を一度だけ叩いた。軽く。ぽん、と。


「怪我がないなら、それでいい。座れ」


 第三課の部屋に戻る。窓の外はもう暮れかけていた。五月十五日、十八時過ぎ。橙と群青が混じる空が、ブラインドの向こうに細く見える。隣のビルの壁面に反射した夕陽が、デスクの上の付箋を照らしていた。『桐』『黒』『雷』。三枚が、橙色に染まる。


 蓮田が缶を机に置いた。アルミが木を叩く音。乾いていて、硬い。


「報告書、通った」


 わたしは椅子に座ろうとして、手を止めた。早乙女も足を止めている。有坂だけが、言葉の意味を掴むのに二秒かかった。


「取締役会で、二十三件の報告書が受理された。雷電関連案件の凍結は解除。黒川の休眠部署化通達も白紙に戻る。例外案件係は存続だ」


 五月二十六日付で予定されていた正式辞令。あと十一日。それが、消える。


「蓮田さんが出席されたんですか」


「俺じゃない」


 蓮田がペンの尻を机に叩いた。一度だけ。乾いた音が、部屋の隅まで届く。


「氷室だ」



 経緯は、こうだった。


 蓮田が取締役会に出る予定だった。A4四十八枚。パターンA、罠悪用十二件。パターンB、装備偽装八件。パターンC、死亡偽装三件。総額四億七千万円の不正請求。三ヶ月かけて積み上げた証拠の山を、役員の前に広げるはずだった。


 だが桐生が動いた。社長への直接面会を取り付け、蓮田の出席を物理的に妨害する。十四階の会議室前で、桐生の秘書に「社長がお呼びです」と引き止められたのが十五時十二分。蓮田が社長室に着くと、社長は電話中。応接のソファに座らされたまま二十分が経過していた。その間に議題は別の案件に移り、蓮田の発言枠は消えている。


「社長室を出たのが十五時三十五分。会議室に戻ったら、もう散会の挨拶をしていた」


 蓮田が缶を握りつぶしかけて、やめた。


「正直に言えば、終わったと思った。二十五年分のカードを切って、それでも届かなかったかと」


「そこで氷室が」


「ああ。氷室が割り込んだ。内部通報窓口を使った。社外取締役三名に、報告書の概要を直接送付。匿名だ。だが中身は俺の四十八枚と同じ内容だった」


「USBの中身を」


「あいつ、自分でもう一部コピーを持っていたらしい。匿名条件は守った上で、社外取締役に電子メールで届けた。桐生が社長を押さえている間に、別のルートで通した」


 わたしは椅子の背にもたれた。右こめかみが、まだ鈍く痛む。Tier2の反動。視界の左端に、白いちらつきが時折走る。だが今は、それを気にしている場合ではなかった。


「氷室さんの単独判断ですか」


「あいつは賢い。桐生がどう動くか読んでいた。俺が潰されることまで計算に入れて、保険をかけていたんだろう」


 蓮田が自分の言葉に苦笑する。保険会社の人間が、保険という比喩を使う。本人も気づいている。


「社外取締役が動いたのは何時です」


「十六時。俺が社長室から戻ったときには、もう電話がかかってきていた。社外取の鶴見さんから直接、『報告書の詳細を聞きたい』と。そこからは早かった」


 鶴見。三豊ダンジョン保険の社外取締役。元金融庁の検査官で、不正調査のプロ。その名前が出た時点で、桐生の社長ルートは無効化されたに等しい。


「企画部主任の匿名通報。社内で特定されるのは時間の問題だ。出世は終わるだろうな」


 早乙女が壁に背を預けて腕を組んでいる。


「氷室は覚悟してやったのか」


「分からん。だが、結果として動いた。それだけだ」


 蓮田が缶コーヒーを一口飲んだ。顔を歪める。ぬるくなったブラックは不味い。舌打ちの代わりに、小さく息を吐く。


「やれやれ。二十五年この会社にいて、初めて取締役会で味方が動くのを見たよ」



 有坂を先に帰した。


 一階のロビーでタクシーを呼び、乗車を見届ける。窓越しに有坂が手を振った。指先がまだ震えている。だが目は、十九層の紫色の光の中にいたときより、ずっと生きていた。赤いテールランプが明治通りに吸い込まれ、見えなくなる。夜の新宿の喧騒が、ガラス越しに薄く響いている。


 第三課に戻ると、わたしのデスクの電話が鳴っていた。

 内線ではない。外線。表示番号に見覚えはなかった。


 蓮田と目が合った。蓮田が顎で「出ろ」と促す。


 受話器を取る。プラスチックの冷たさが、掌に触れる。


「お疲れ様です、宇津木さん」


 柔らかい声だった。低く、穏やかで、どこか楽しげですらある。桐生鷹志。


「お電話ありがとうございます。何かご用件でしょうか」


「いえ、ご挨拶を。今回は、わたしの負けです。潔く認めますよ」


 声に苛立ちはない。本当に負けを楽しんでいるような口調だった。S級探索者。三十五歳。百八十三センチの体躯が、電話の向こうで椅子に深く腰掛けている映像が浮かぶ。


「ただ」


 トーンが、一段落ちた。


 半音。それだけの変化。だが受話器を握る指先が冷えた。


 空調の風ではない。電話線の向こうから滲んでくる圧。三十二層のダンジョンを踏破する男の、声の密度が変わる瞬間。


「次は、書類の外で勝負しましょう」


 沈黙が三秒。通話が切れた。ツー、ツー、と電子音だけが鼓膜の奥に残る。


 わたしは受話器を置いた。掌に汗が滲んでいる。冷たい汗。


「何て言った」


 蓮田の声が低い。


「書類の外で勝負する、と」


「……法廷か」


 早乙女が腕組みを解く。壁から背を離す動作が、元刑事のそれだった。


「桐生の顧問弁護士。水守達也。東大法学部首席、司法試験一発、勝訴率九十二パーセント。ダンジョン対策課時代に名前だけ聞いたことがある」


「どんな弁護士です」


「法的に完璧な攻撃しかしない。証拠を揃えてから動く。だから負けない」


 わたしはデスクに視線を落とした。付箋の三枚が夕陽に染まっている。水守達也。その名前が、既に次の戦場の輪郭を描き始めていた。


「書類の外、ですか」


 ペンの尻を机に当てる。小さな音が、夕暮れの第三課に落ちた。


 蛍光灯が一本、ちらつく。天井の端。いつもの、あの一本。


「なら、書類の外にも、帳簿はありますよ」


 蓮田が鼻を鳴らした。缶コーヒーの最後の一口を飲み干す。


「お前。頭だけは、いいな」


 褒め言葉なのか皮肉なのか。二十五年の蓮田には、たぶん両方だ。


 早乙女は何も言わなかった。ブラインドの隙間から、最後の橙色が消えていく。


 わたしはデスクの付箋を見た。『桐』『黒』『雷』。三枚。その隣に、空白がある。水守達也。まだ顔も知らない。だが名前がある以上、いずれ追う。今はまだ書かない。この男の輪郭が掴めるまで。


 三豊ビル北館十二階、西端。五月十五日が終わろうとしている。廊下の向こうから、他の部署の退勤の気配が聞こえる。ドアの開閉音、エレベーターのチャイム。第三課だけが、まだ明かりを点けたままだ。


 桐生が弁護士を出してくる。水守達也。あの男が、次の戦場を選ぶ。

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