第25話「仕様書、再び」
新宿第七ダンジョンの入口は、歌舞伎町二丁目のビルの地下にある。
雑居ビルの一階がコンビニ、二階がカラオケ。地下一階が、この街の地下三十二層に繋がる裂け目だ。探索者協会の受付カウンターが入口手前に設置されていて、入場にはC級以上の探索者証が必要になる。
十一時五分。わたしは入口前で早乙女と合流した。
「早いですね」
「タクシー飛ばした。中野からなら歌舞伎町は近い」
早乙女はカーゴパンツに黒のタクティカルブーツ。腰にベルトポーチ。中身は知らない。だが、元ダンジョン対策課の巡査部長だ。最低限の装備は常に持ち歩いている人間だろう。
「入れますか」
早乙女がC級探索者証を出す。わたしは三豊の社員証しか持っていない。探索者ではない。だが、ダンジョン保険の損害査定員には、業務上の入場許可がある。
「宇津木さんと、早乙女さんですね。登録確認します」
受付の若い男がPCを操作する。三十秒の待機。画面に表示された文字を確認し、入場ゲートのバーが持ち上がる。
「第七ダンジョンは現在、十五層から二十層で魔物の活性化警報が出ています。ご注意ください」
「了解」
早乙女が先に歩き出す。わたしが後に続く。地下への階段。コンクリートの壁が湿気を帯びている。温度が下がる。地上の五月の暖かさが、階段を五段降りるごとに薄れていく。
*
一層。
ダンジョンの空気が変わる。蛍光灯はなく、壁面に埋め込まれた青白い鉱石が通路を照らしている。魔素を含んだ空気が、肺に独特の重さを感じさせる。甘くはない。金属を舐めたときの、あの鈍い味に近い。
「Tier2、使えるか」
「使います。ここで」
わたしは眼鏡を外し、目を閉じた。意識を集中する。【真贋鑑定】Tier2。ダンジョン仕様書の視覚化。このダンジョンの設計図を、視る。
右こめかみに、針を刺されたような痛みが走った。始まった。
目を開ける。
世界が変わっている。通路の壁に、半透明の青い文字と数字が浮かんでいる。フロア番号。通路の幅。天井高。分岐点の座標。罠の配置。魔物の巡回ルート。全てが、設計図として可視化されている。
「見えますか」
「見えます。十九層まで……最短ルートが分かる。罠を全て回避できます」
早乙女がわたしの顔を見た。何かを確認するような目。
「目、赤いぞ。大丈夫か」
「大丈夫です。行きましょう」
大丈夫ではない。右目の奥が熱い。こめかみの痛みが、秒ごとに強くなる。だが、止めるわけにはいかない。仕様書が見えている間に、有坂のところに辿り着く。
わたしが前に立ち、早乙女が後ろを守る。逆だ。普通なら戦闘員が前衛で、非戦闘員が後衛。だが、わたしの目にしか道が見えない。
「右。次の分岐を右。二十メートル先に落とし穴。左壁際を歩けば、回避できます」
「了解」
早乙女の返答は短い。迷いがない。わたしの指示を信じて、動いている。
C級探索者としての判断力が、わたしのスキルの精度を測り、信頼に値すると判断した結果だ。
三層。五層。八層。階段を降りるたびに、空気が重くなる。
魔素の濃度が上がっている。舌の上の金属味が強くなる。十二層で、鉱石の光が青から紫に変わった。
「十五層。ここから活性化警報エリアです」
「魔物は」
「巡回ルートに、今はいない。次のローテーションまで四分。急ぎます」
走る。革靴の底がダンジョンの石床を蹴る音が響く。
早乙女のブーツは音を立てない。訓練された足運び。
十七層。十八層。右こめかみの痛みが、頭の半分に広がっている。
視界の左端が白くちらつく。仕様書の文字がぼやけ始める。だが、まだ読める。もう少し。
十九層。
「ここです」
通路の先に広がる空間。仕様書に「安全地帯」と記載されたエリア。魔物の巡回ルートから外れた袋小路。天井が高い。紫の鉱石が密集して、他のフロアより明るい。
その光の中に、人影が見えた。
有坂しおん。ダンジョンの壁に背を預けて座っている。膝を抱えている。無傷。泣いていない。だが、顔が強張っている。傍に男が二人。タクティカルベストを着た長身の男と、短髪の男。二人ともベルトに短剣を差している。B級探索者の装備。
有坂がわたしたちに気づいた。目が見開かれる。
「宇津木さん……!」
二人の男が振り返る。体が緊張するのが見える。想定外の来客。
「お疲れ様です」
わたしは歩みを止めなかった。早乙女も止まらない。十九層の安全地帯の中を、真っ直ぐ歩いて近づく。
「何だ、お前ら。ここは俺たちの管轄だ」
短髪の男が声を上げた。手が短剣の柄に触れている。
「三豊ダンジョン保険、損害査定部の宇津木です。あなたたちの契約書を見せていただけますか」
「契約書? 何の話だ」
「あなたたちの雇用契約書です。わたしのスキルで視れば、あなたたちが桐生鷹志の指示で動いているかどうか、すぐに分かります」
ブラフだ。
口頭の指示や契約書の内容をTier2で読む能力はない。Tier1で紙の書類の真贋を判定することはできるが、人の記憶や口約束は視えない。Tier3があれば可能かもしれないが、わたしのスキルは現時点でTier2止まりだ。
だが彼らはそれを知らない。
「桐生さんの名前が出てきた時点で、あなたたちは相当まずい立場にいる。ダンジョン内での一般人の拉致は、探索者協会の規約第十二条違反です。B級の探索者証、剥奪されますよ」
長身の男の顔が変わった。短髪の男と視線を交わす。三秒間の沈黙。早乙女が一歩前に出た。右手がベルトポーチに触れている。何が入っているかは分からないが、相手には脅威に見えたはずだ。
「俺たちは預かっただけだ。危害は加えてない」
「それは分かります。ですから、今ここで帰っていただければ、わたしはあなたたちの名前を報告書に書きません。しかし十秒後にまだここにいたら、契約書を視ます」
七秒で、二人は動いた。短髪の男が先に背を向け、長身の男がそれに続く。十九層の通路を歩いて離れていく。足音が遠ざかり、消えた。
有坂が立ち上がった。膝が震えている。
「宇津木さん。早乙女さん」
「怪我は」
「……ないです。ないっです。怖かっただけで」
有坂の声が、初めて聞く種類の震え方をしている。泣いてはいない。だが、唇の色が白い。二十二歳の嘱託社員が、ダンジョンの十九層で一晩を過ごした。暗くはなかっただろう。鉱石の光がある。だが、一人ではなかった。二人の男に囲まれて、この紫の光の中で朝を待った。
「帰りましょう。上で蓮田さんが待っています」
有坂が頷いた。小さく、だが確かに。
わたしは右こめかみを押さえた。Tier2を解除する。仕様書の文字が消え、通路はただの石壁に戻る。視界の左端の白いちらつきが、残っている。頭の右半分が重い。帰りの十九層分、仕様書なしで歩かなければならない。
「帰りのルートは」
「覚えてる。来た道を戻れば、安全だ。あたしが前を歩く」
早乙女がわたしの前に立った。背中が頼もしい。C級探索者。元刑事。この女の背中を追って歩けば、地上まで辿り着ける。
有坂がわたしの左腕を掴んだ。小さな手。冷たい。
「すみません……掴まってて、いいですか」
「どうぞ」
三人で歩き出す。十九層から地上へ。紫の光が徐々に薄れ、青に変わっていく。
ブラフが通じたのは、一度だけだ。次は、通じない。桐生は、必ず手を替えてくる。だが今日は、有坂を連れて帰る。それだけでいい。
階段を上がる足音が三人分、ダンジョンの壁に反響していた。




