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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第一部『例外案件係の査定員』

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第24話「標的」

 有坂しおんが出社しなかった。

 五月十五日、木曜。八時三十分。始業の三十分前にはいつもデスクについている有坂が、九時を過ぎても姿を見せない。三日間の缶詰作業を終えた、翌朝だ。疲れて、寝坊したのかもしれない。そう思いたかった。


 わたしは有坂の社用携帯に電話をかけた。呼び出し音が八回鳴り、留守番電話に切り替わる。個人の携帯にも試す。『おかけになった電話番号は現在——』。電源が切れているか、電波の届かない場所にいる。


 嫌な感覚が、腹の底から這い上がってくる。三日間一緒に缶詰で働いた、二十二歳の嘱託社員。昨夜はソファで毛布を被って眠っていた有坂を、今朝五時に先に帰した。「着いたら連絡ください」と言ったのに、連絡はなかった。そのことに今まで気づかなかった自分を、わたしは殴りたい。


「早乙女さん」


「分かってる。行く」


 早乙女は鞄を掴んだ。迷いがない。二秒で席を立ち、ジャケットも羽織らず、ドアに向かう。


「有坂の社員寮は」


「中野区大和町。三豊の借り上げマンション、三〇三号室」


「鍵は」


「管理人に社員証を見せれば開くはずです」


 早乙女が出ていく。パーカーのフードが背中で揺れている。第三課に残されたわたし。報告書の四十八枚は、クリアファイルに入って蓮田のデスクに載っている。蓮田は七時前に出社して、報告書を持ち出した。今頃は本社ビルの会議室で取締役と向き合っているはずだ。


 九時二十分。蓮田から着信。


「蓮田さん。報告書は」


「それどころじゃない」


 蓮田の声が低い。背景に人の話し声が聞こえる。会議室ではなく、廊下か。


「取締役会は延期になった」


「延期」


「桐生鷹志が直接、社長に面会に来てる。今、社長室だ。秘書課が慌てて走り回ってる」


 桐生。S級探索者。雷電クラン副代表。年間保険料十四億円の顧客が、アポなしで社長室に入っている。


「蓮田さん。有坂が出社していません。電話にも出ません」


 二秒の沈黙。蓮田の呼吸が聞こえる。


「……同時か」


「そう見えます」


 同時攻撃。報告書の提出を止め、人質を取り、経営層を直接押さえる。三方向から同時に動いている。桐生鷹志は、わたしたちの動きを把握していた。USB入手のタイミングか、報告書作成中の三日間で情報が漏れたか。あるいは黒川経由で、例外案件係の解体スケジュールを知っていたか。


 どのルートで漏れたかは今は問題ではない。問題は、有坂がどこにいるかだ。


「俺は社長室の前で待つ。桐生が出てくるまで動かん。お前は有坂を探せ」


「分かりました」


 電話が切れる。わたしは早乙女に転送する。有坂の寮に向かっている早乙女に、蓮田の情報を共有する必要がある。


 十時十五分。早乙女から報告が入った。通話ボタンを押す指が、微かに汗ばんでいる。


「宇津木。有坂の部屋は空だ」


 早乙女の声は平静だが、息が上がっている。走ったのだろう。


「痕跡は」


「部屋は整頓されてる。ベッドは使われた形跡がある。枕に頭の跡。布団が乱れてる。つまり、一度帰宅して横になっている。問題は、その後だ」


「何かありましたか」


「机の上にメモがある。『三日間のバイト。2F 管理人に伝えてあります』。手書き。日付はない」


「管理人は何と」


「今、確認してきた。聞いてないと言ってる。バイトの件も、外泊の件も、何も。管理人は六十代の男で、嘘をついてるようには見えなかった」


 わたしの背中を、冷たいものが走る。空調の風ではない。


「そのメモ。筆跡は有坂さんのものですか」


 早乙女の声が、一拍遅れた。


「……違う。似せてるが、ハネが違う。有坂は『す』のハネを長く書く癖がある。このメモの『す』は短い」


 元刑事の目。三年間の捜査経験が、筆跡の微差を見抜く。有坂本人が書いたメモではない。誰かが有坂の筆跡を真似て書いた、偽装メモ。


「写真を送ってください。メモの全体と、『す』の字のアップ」


「送る」


 十秒後、スマートフォンにメモの画像が届く。白い便箋に黒のボールペン。一見すると、女性の丸い字に見える。だが早乙女の指摘通り、「す」の字のハネが短い。有坂が書いた三日間の報告書データ入力メモを引き出しから取り出し、見比べる。確かに違う。有坂の字は丸いが、ハネだけが鋭い。このメモの字は全体が丸く統一されすぎている。


 わたしはメモの画像を拡大し、【真贋鑑定】Tier1を起動した。


 黒。


 意図的な隠蔽。このメモは、有坂の不在を偽装するために書かれたものだ。


「早乙女さん。鑑定結果は黒です。意図的な隠蔽」


「了解。つまり、誰かが有坂を連れ出した。自発的か強制かは不明。だが、本人の意思による外泊じゃない」


 わたしはPCに向かった。有坂の社用携帯のGPS追跡。三豊の社内システムには、社員携帯の位置情報を確認する機能がある。セキュリティ部門の承認が必要だが、今朝の有坂の無断欠勤届を出した時点で、非常時プロトコルが適用される。


 承認待ちの五分間が長い。デスクの上の缶コーヒーは、とっくに冷めている。飲む気にならない。


 承認が降りた。画面にマップが表示される。


 GPS最終反応。今朝六時四十七分。場所は、新宿区歌舞伎町二丁目。新宿第七ダンジョン入口付近。それ以降の信号はない。ダンジョン内部に入ると、電波が届かなくなる。


 有坂は、ダンジョンの中にいる。


 わたしの指が、デスクの端を叩いた。一度。二度。三度。


 桐生が社長を押さえている間に、有坂をダンジョンに連れ込んだ。ダンジョン内ではGPSが届かない。携帯の電波も届かない。完全な隔離。


 警察に届けても、ダンジョン内の捜索には、探索者協会の許可が要る。時間がかかる。その間に桐生は社長を説得し、報告書を握り潰し、例外案件係を消す。


 計算され尽くしている。桐生鷹志、三十五歳。S級探索者。


 百八十三センチの体躯に、柔らかい敬語を纏う男。あのとき第三課で「お引き受けできますか」と微笑んだ男が、今、四方向から同時に動いている。


 だが一つだけ、桐生が計算に入れていないものがある。


 わたしの【真贋鑑定】Tier2。ダンジョンの仕様書を視る能力。仕様書が視えれば、ダンジョンの構造が分かる。安全ルートが分かる。有坂の居場所まで、最短で辿り着ける。


 わたしはスマートフォンを握った。早乙女に電話をかける。


「早乙女さん。有坂さんはダンジョンの中です。新宿第七」


「……行くよ。合流場所は」


「新宿第七の入口。三十分で着けますか」


「二十分で行く」


 電話を切った。わたしはデスクの引き出しから社員証と予備の眼鏡を取り出す。それから給湯室のペットボトルの水を一本。鞄に放り込み、ジャケットを羽織る。Tier2を使うなら、水分が要る。頭痛と視覚障害。前回の反動を覚えている。


 蓮田に短くメッセージを送る。「有坂、新宿第七ダンジョン内。早乙女と救出に向かいます」


 返信は一言。「行け」


 わたしは第三課のドアを閉めた。廊下を歩く。エレベーターのボタンを押す。下行きの矢印が点灯する。


 新宿第七ダンジョン。B級以上の探索者が主に利用する中規模ダンジョン。地下三十二層。有坂は探索者ではない。戦闘スキルを持たない二十二歳の嘱託社員を、ダンジョンの中に連れ込んだ人間がいる。


 エレベーターが来た。箱の中に入る。一階のボタンを押す。扉が閉まり、体が沈む感覚。地下に向かうのは、これが二度目だ。


 わたしは眼鏡のフレームを指で押さえた。右こめかみが、微かに疼く。まだTier2を使っていないのに。予感が痛みを呼んでいる。


 有坂を返してもらう。それが、報告書より先だ。

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