第4話「遺族の嘘」
「それを一緒に調べにきました」
有坂しおんは、踊り場の手すりに左手で掴まった。
右の包帯が、蛍光灯の下で浮いて見える。手首のすぐ上、血の滲み跡が薄く透けていた。早乙女がそれを見て、軽く顎を引いた。
「ポーション使ったね」
「……はい」
「一本で足りた?」
「二本目は惜しかったので。止血だけして」
惜しかったという言葉を、有坂は小さく繰り返した。貯金がない探索者の癖だと、早乙女はあとで言った。装備の消耗品は、節約する癖が染みつく。書類のリストに、未使用の三本しか載らなかった理由の一端だった。
「伯母さん、最近連絡は」
早乙女が静かな声で尋ねた。
「……三ヶ月ありません。わたし、住所を変えたので。携帯の番号も」
「なぜ住所を」
「あの、家に居辛くて」
有坂が語尾を飲み込んだ。自己否定の癖があると、わたしは気づいた。話の出だしに「あの」をつけ、語尾を濁して、最後に小さく「すみません」を挟む。感情が先に立って、論理が遅れて追いかけてくる。
「シェルターはいつから」
「二ヶ月前からです。D級だと、保険の掛け金がやっぱり高くて。家賃と掛け金と、どちらか選ばなきゃで」
「契約は失効してないよ」
「え」
「掛け金、誰かが払ってる。あなたじゃないなら、誰?」
有坂の目が泳いだ。
「伯母が以前立て替えてくれたことは」
「何回」
「……六回だったと思います」
早乙女はそれ以上聞かなかった。受付の女性職員に向かって小さく頭を下げると、有坂の肩に手を置いた。力の入れ方が、警察官のそれだった。相手を逃がさず、かつ脅かさない。
「三豊ビルまで一緒に来てくれる?」
「……行きます」
「車寒いけどごめん。暖房効きが悪くて」
早乙女は自分の軽バンの助手席の毛布を後部に移し、有坂をそこに座らせた。
*
深夜一時十分、三豊ビル北館の通用口。
蓮田はまだ残っていた。電卓ではなく、今度は紙のノートにボールペンで何かを書き込んでいた。わたしの姿を見ると、ペンを置いて、椅子の背もたれに体重を預けた。
「連れてきたか」
「はい」
「顔見ないほうがいい。俺が見ちまうと上に報告する義務が発生する」
蓮田はそう言って、壁の方向を向いた。わざと有坂の顔を、視界に入れない体勢だった。
「有坂さん」
わたしは彼女を別の小会議室に案内した。蛍光灯を半分だけ点けた。冷蔵庫のような唸り音が、天井のダクトから低く響いている。紙コップの水を一杯、テーブルの上に置いた。
「一つだけ確認です。保険金の受取人は、伯母の有坂昌代さん名義で登録されていました。ご存知でしたか」
「知りません」
「契約書には、あなた自身のサインがあります。これです」
わたしは書類を見せた。彼女は受取人欄に書かれた自分の字を見て、しばらく口を開いた。
「——この欄、空白のまま渡した気がします」
「誰に」
「伯母です。去年の二月。確定申告の時期に、書類を手伝うって言われて、まとめてサインだけ」
わたしは書類に目を落とした。受取人の『有坂昌代』の文字の上に、黒。意図的な隠蔽。
空欄で預けた署名の上に、後から書き足された受取人名。保険金詐欺としては、古典的な手口だった。
「早乙女さん」
「うん」
「伯母夫婦の自宅はご存知ですか」
「調べた。世田谷区等々力九丁目四十七。一軒家、築二十五年、担保抵当あり」
「担保は」
「信金の事業融資。伯父が経営してた小さな印刷工場、三年前に廃業。抵当権はまだ抹消されてない」
担保割れと、わたしは呟いた。返済原資が失われ、土地家屋が借入額を下回った状態。保険金二千三百四十七万円は、この担保割れをちょうど埋められる金額だった。
「明日伺います」
「あたしも行く」
「できれば一人で」
早乙女の眉が動いた。
「なぜ」
「相手は伯母夫婦です。姪を死んだことにして、保険金を受け取る計画を立てた中年の夫婦。刑事の目で睨まれたら、口を閉ざします。査定官の目の方が喋らせやすい」
「あんた一人で危なくない?」
「録音は持っていきます。それと、玄関先で済ませます。家に上がりません」
早乙女はゆっくり頷いた。納得ではなく、譲歩の頷きだった。
*
翌朝十時四十分。世田谷区等々力二丁目十七の四。
築二十五年の二階建て。外壁のサイディングが、北側だけ黒く変色していた。インターホンを押す。女性の声が返ってくる。名乗ると、三秒の沈黙があった。書類を脳裏でめくる時間、とわたしは測った。
ドアが開いた。
五十代の女性。化粧は薄い。白髪交じりの髪を後ろで結んでいる。有坂しおんと目元がよく似ていた。顔に血の気はなかった。
「有坂昌代さんでいらっしゃいますか」
「……はい」
「三豊ダンジョン保険、例外案件係の宇津木と申します。姪御さんの保険金請求の件で、二点ご確認をお願いしたく」
「主人も呼びましょうか」
「お願いします」
玄関先に五十五前後の男が出てきた。腹の出た目尻の垂れた男。朝のニュースをつけっぱなしにしている音が、奥の居間から薄く漏れてきた。
わたしは封筒を玄関の式台に置かせてもらった。足元に置いた書類の束が、玄関の冷気で少し湿る。
「まず装備リスト。こちらどなたが作成されましたか」
「わたしです」
昌代が即答した。——青。
次に、遺族確認書の署名。
「こちらの署名ご本人のもので間違いありませんか」
「はい」
——黒。黒。黒。
書類の上の文字が、わたしの視界の中で深く沈むように色づいた。
「保険金の受取人欄ですが、契約時に姪御さんご本人の同席はありましたか」
昌代の目が夫を一度見た。夫が口を開く前に、昌代が答えた。
「一緒に書きました。ちゃんと本人確認のうえで」
——黒。
わたしは眼鏡越しに昌代を見た。それから、深く息を吸った。
「有坂昌代さん」
「はい」
「姪御さんは生きています」
玄関の空気が一瞬途切れた。
昌代の膝が式台の縁で軽くぶつかる音を立てた。夫の目が泳いだ。ニュースのアナウンサーの声が、奥の部屋で途切れずに流れ続けている。
「——な、何を」
「昨夜、墨田区東向島のシェルターで確認しました。右手首に切創、あと鉄分不足で少し顔色は悪いですが、存命です。本人確認も済んでいます」
夫が一歩後ろに下がった。昌代は式台から離れず、両手を膝の前で強く握っていた。
「保険金は、今日付で返還請求の手続きを開始します。あわせて契約書の受取人欄の改変、遺族確認書の虚偽記載について刑事告発を行うかどうかは会社の判断になります」
「——あの子が」
昌代の声が、湿った。
「あの子が生きてるなら、なんで黙って」
「それは」
わたしは書類を封筒に戻した。角の反りは昨日より深くなっていた。
「お二人でこれから訊いてください。わたしは書類の真偽を調べに来ました。真偽は確定しました。動機の聴取はわたしの仕事ではありません」
夫が式台の縁にしゃがみ込んだ。膝がスリッパを踏んでいた。
昌代が口の中で何かを呟いた。——「医療費」という二文字がわずかに聞こえた。黒の中身が薄く透けた瞬間だった。
*
帰りの電車の中で、早乙女はつり革を握ったまま一度だけこちらを向いた。
「あんたあの伯母どう思う」
「どうとは」
「憎い?」
「いえ」
「……あたしは少し憎いよ」
早乙女は窓の外を見た。池上線の車窓に雑居ビルの壁が流れていた。彼女は指先でつり革の革の継ぎ目を三回叩いた。
「あの子、二ヶ月前からシェルターだったんだよ。——掛け金肩代わりしてくれてるって信じてた相手が、保険金の書類作ってた。それ分かって、あの子これからどう生きてくの」
わたしは答えなかった。
代わりに封筒の端を膝の上で揃え直した。
電車が等々力駅を出た。窓ガラスに自分の顔が薄く映っていた。眼鏡の奥の目が、昨日までのわたしよりもほんの少しだけ冷たく見えた。
早乙女がぽつりと言った。
「あたし今日はあんたのこと好きになれない」
「結構です」
わたしは小さく頷いた。
「わたしも、今日のわたしはあまり好きではありません」
電車が揺れた。封筒の角がわたしの掌の縁に当たって、小さく音を立てた。




