第3話「生きている死人」
「死んだのはあの子じゃありません」
わたしがそう言った数秒後、蓮田はマグカップを三度、ゆっくり持ち上げて、また下ろした。結局、今日もコーヒーは飲まないままだった。
「根拠もう一度」
「装備リストの三行。伯母の筆跡、黄色。つまり、書いた本人が『本当だ』と信じて書いた、事実ではない記述です」
「伯母の妄想って線もあるぞ」
「ありえます。ですが——」
わたしは遺族確認書の黒い署名を指で押さえた。
「こちらは黒。意図的な隠蔽です。妄想ではない。知っていて隠している」
蓮田は鼻から短く息を吐いて、電卓のソーラー部分を掌で覆った。液晶が消え、また点いた。癖だなと思った。銀行員時代、計算を白紙に戻したいとき、彼はこういう仕草をしていたのかもしれない。
「よし」
「よしとは」
「早乙女、動け。宇津木、同行しろ。本社には通常の現場再検分で上げる」
「根回しですね」
「頭越しにやると上が騒ぐ」
蓮田が昭和の稟議書じみた語を続けざまに使った。わたしは頷いて、封筒を抱え直した。
*
新宿三丁目地下、第三層奥部。
二十一時四十分。立入証の再申請に時間を取られ、現着が遅れた。早乙女は受付でIDを通すとき、係員にやや硬い挨拶を返した。彼女の元の所属を、係員の方が覚えていたらしい。視線が名札より長くこちらの名刺を読んでいた。
「気になる?」
階段を下りながら早乙女が背中越しに言った。
「少し」
「辞めた理由はここじゃ話さない。仕事が終わったら、あんたの好きな缶コーヒーを奢る。それで勘弁して」
「ブラック以外は受け付けません」
「高くつくな」
階段の途中で、魔素濃度が一段上がった。彼女の首筋で細いペンダントが揺れた。銀色のコインのようなもの。魔素濃度計だ。コインの縁に青い光が滲んでいる。
「これ以上濃くなったら撤退」
「承知しました」
第三層奥部。岩盤の裂け目から、蒸気のような白い煙が薄く立ち昇っていた。硫黄のような匂いと、金属を舐めたような匂いが混ざっている。早乙女は片膝をつき、地面に掌を当てた。
「【残響追跡】」
短い声だった。
掌の下の岩が青白く透け始めた。透けたというより、岩の表面に薄い膜が重なって、その膜の中で何かが動き出した。光の粒が、足跡の形に並んでいく。膝の高さくらいの何かが左から右へ走る。ゴブリンだろうか。もうひとつ背の高い人影。細い影。
「三人分。魔物二、人一」
「何時間前ですか」
「十九時四十七分、前後五分。書類と一致」
早乙女の指先が空中をなぞった。光の粒が、その指先に引き寄せられるように集まってくる。人影が鮮明になっていく。背丈、肩の幅、腰に差した短剣の位置。
「女。身長百五十八。細め。右手で短剣、左手で——」
光の左手に、小さな筒状の物体が握られていた。
「ヒール・ポーション、使用済み一本」
書類の装備リストには、未使用の三本しか記載がなかった。黄の色がついた行だ。
「書類ですね」
「ええ」
早乙女の指がゴブリン側の光を辿った。ゴブリン・ハイは、通常単独行動しない。群れで動く。けれど、光の粒は二体分しかなかった。しかも二体目は奥の岩陰に隠れ、戦闘には加わっていない。女の影に気づいていないような動きだった。
「戦闘していない」
早乙女がそう言って立ち上がった。
「正確には彼女はポーションを一本だけ使って、一体目を斬って逃げた。致命傷じゃない。手首を切られた程度。二体目には追われていない」
「死亡の痕跡は」
「ゼロ」
わたしは封筒の中の事故報告書をもう一度開いた。『ゴブリン・ハイの急襲を受け、初動の回避に失敗、致命傷を負い絶命』——赤い文字の列。
有坂しおんは、生きている。
早乙女が岩陰の向こう、通路の突き当たりを指差した。
「ここから先、彼女の足跡が続いてる。奥の非常用昇降路まで」
「非常用昇降路というと」
「ダンジョン庁が設置した緊急避難路。出入口の記録は、本庁申請しないと開示されない」
「開示申請しますか」
「いや」
早乙女は首を横に振った。
「申請した瞬間、誰かが動く。あの子が生きてるなら——まず彼女が今どこにいるか、書類を通さずに特定する」
「心当たりは」
「ある」
彼女はコインのペンダントを胸元の内側に押し込んだ。青い光が服の下で一度だけ瞬いた。
*
地上に戻り、車に乗り込んだのは二十三時十分。
早乙女の車は白い軽のバンだった。後部座席に、ダンジョン装備の入った金属ケースが二つ、隙間なく積まれている。助手席には、畳まれた毛布と使いかけの非常食の空袋。車中泊の痕跡だった。
「どこへ」
「墨田区東向島」
カーナビに住所を打ち込む手が、迷いなく動いた。一度も来たことのない場所ではない、という手つきだった。
「東向島の何が」
「民間のシェルター。正式名称は『東向島生活支援センター』。貧困層の一時宿泊所。表向きはNPO運営。裏では身元を隠したい探索者の駆け込み寺」
「有坂しおんがそこに?」
「D級で身寄りの薄い女。伯母から保険金請求が上がってる。自分が死んだことになってるのを知らないなら、隠れる必要はない。でも身寄りの薄い探索者が突然仕事を抜けるとき、行き先は限られてる」
「経験則ですか」
「警察時代の」
信号が赤になった。早乙女は指でハンドルを三回叩いた。二十三時十七分、青。アクセルが踏まれる。
「……ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたはなぜ辞めたんですか」
彼女の横顔は前方を向いたままだった。街灯の黄色が頬を斜めに撫でた。
「約束したろ。仕事の後」
「失礼しました」
「——でもひとつだけ言える」
「はい」
「書類を信じすぎた」
わたしの動機に、そっくりの輪郭だった。違う角度から差し込まれた同じ形の……いや、その比喩は安直すぎる。わたしは眼鏡の位置を直した。視線を前方に戻す。
*
東向島生活支援センター。
築四十年は経っていそうな三階建ての雑居ビルの二階に、看板が出ていた。『一時宿泊、三泊まで無料』。電飾の『泊』の字が片側だけ切れていた。
二十三時五十八分。夜間受付のブザーを押す。
応対に出たのは五十代の女性だった。化粧の薄い疲れた目の職員。早乙女は名乗らなかった。代わりに保険査定官の立入証を見せた。
「保険の確認で。若い女性、D級、身長百五十八くらい、ここ三日以内に来ていませんか」
職員はわずかに身体を退いた。立入証の文字を二度読み返してから、視線を上げた。
「……個人情報は」
「漏らしません。名前も出せません。確認だけです」
職員はしばらく迷ってから、受付の奥へ引っ込んだ。暖房の埃っぽい風が玄関のマットのほうへ流れてくる。カップ麺の出汁の匂いがどこかの部屋から漏れていた。
五分。七分。十分。
ようやく、階段の上から足音が下りてきた。軽いが、少しだけ引きずるような足音。わたしは封筒を抱え直した。
踊り場の角から、顔が覗いた。
背は低い。百五十八。薄茶色の髪を後ろで一つに結んで、右の手首に包帯を巻いている。目の下のクマが深い。書類の写真と、同じ顔だった。
「どちら様ですか」
声は掠れていた。
「有坂しおんさん」
「……はい」
「三豊ダンジョン保険、損害査定部の宇津木と申します。こちらは早乙女」
わたしは名刺を差し出した。受け取る手は右の包帯のために左だった。指先が名刺の縁を二度めくった。
「保険ですか。わたし、契約してたのは失効して——」
「いえ」
わたしは彼女の言葉を遮った。静かな声のつもりだった。
「失効していません。現在、契約は有効です。——そして、あなたは昨日死亡したことになっています」
有坂しおんの手から、名刺が落ちた。
踊り場の蛍光灯がジーという低い音を立てている。彼女の唇が動いた。音にならなかった言葉を、もう一度試すように動かした。
「……え」
それが、この夜の彼女が出せた精一杯の音だった。
わたしは封筒から遺族確認書を抜き出して、署名欄を彼女に向けた。黒い字の『有坂昌代』。
「叔母……いえ、伯母上の筆跡ですね」
有坂の目が署名の上で止まった。
その瞳の奥に、ゆっくりと冷たいものが広がっていくのが視えた。魔素の光ではない。書類の色でもない。彼女自身の内側から滲む薄い青。
「——伯母がどうして」
震える声だった。
わたしは黒縁眼鏡の奥で目を細めてから、答えた。
「それを一緒に調べにきました」




