第22話「査定部長」
黒川査定部長が第三課に来たのは、月曜の十時だった。
五月十二日。蓮田がUSBの中身を確認してから、四十五分後のことだ。わたしがファイルの整理を始めた直後に、廊下をドレスシューズの硬い足音が近づいてきた。靴底が鳴らす規則的なリズム。査定部のフロアで革靴を鳴らして歩く人間は限られる。
ノックはなかった。
ドアが開き、黒のスーツに灰色のネクタイを締めた男が入ってくる。黒川恭一。損害査定部部長。五十七歳。痩せた顔に深い法令線。普段は部長室から出ない人間が、例外案件係の狭い部屋に自ら足を運んでいる。
その事実だけで、異常が分かる。
「蓮田、お前に話がある」
蓮田は出払っているはずだった。根回しに行くと言って席を立ったのが二十分前。だが蓮田は戻っていた。第三課の奥の席で、コーヒーを啜っている。本社に行く前に、もう一杯飲もうとしていたのだろう。
「宇津木くんも同席してくれ」
黒川がわたしの名前を呼ぶ。声は低く、乾いている。事務的だが、視線がわたしのデスク上のPC画面を一瞬走った。
蓮田がマグカップをデスクに置く。ことり、という音がやけに大きく響いた。
「何の用だ、黒川」
タメ口。蓮田と黒川は同期入社だ。二十五年前、同じ新人研修を受けた間柄。片方は部長になり、片方は課長のまま例外案件の掃き溜めに座り続けている。
黒川は第三課の中央に立ったまま、座ろうとしなかった。ジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出す。三豊の社内書式。赤い罫線が走っている。
「雷電関連案件の凍結命令が正式に出た。本社取締役会の決定だ」
空気が変わる。蓮田のコーヒーの湯気だけが、蛍光灯の下で静かに揺れている。
「例外案件係は、今月末をもって、損害査定部から外す。以後は管理部付けの休眠部署扱いとする」
休眠部署。体のいい解体だ。予算凍結、人員配置転換、案件の引き継ぎ。名前だけ残して実質的に消す手法。わたしはメガバンクで七年、この手の再編を嫌というほど見てきた。消される側にいたことも、消す側の稟議書を起草したこともある。
だから分かる。これは黒川個人の判断じゃない。もっと上から降りてきた圧力。雷電の年間保険料十四億円。全契約の六パーセント。その数字が、取締役の誰かの脳裏にちらついている。
「……稟議を見せてくれ」
蓮田の声に、初めて硬さがあった。椅子から立ち上がらない。座ったまま、下から黒川を見上げている。
「見せられない。上の判断だ」
「稟議なしに部署を潰す権限は、取締役会にもない。俺は就業規則の第四十七条を覚えてるぞ、黒川」
黒川の顎が、わずかに引かれた。表情は変わらないが、喉仏が一度上下する。蓮田が社内規則を持ち出すのは珍しい。普段は面倒くさがって規則の話をしない男だ。
「蓮田。これは忠告だ。俺も好きで来てるわけじゃない」
「忠告は聞いた。で、稟議は」
「見せられないと言っている」
蓮田が、立ち上がった。
椅子が軋む音。五十歳の痩せた体が、黒川の前に立つ。蓮田の方が背が高い。五センチ分だけ、見下ろす形になる。わたしは自分のデスクから、二人の横顔を見ている。空調の音が、やけに遠い。
「黒川。俺はこの会社に二十五年いる」
声が低い。ぼやきの色が消えている。
「稟議を見せられない決定は、決定じゃない。ただの圧力だ。俺が取締役会に直接掛け合う」
黒川の目が細くなった。それは怒りではなく、憐憫に近い色をしている。二十五年前に同じ食堂で定食を食べた同僚が、崖に向かって歩いていくのを見る目。
「やめておけ。お前のためだ」
「俺のために来たんならありがたいが、俺は別に助けを求めてない」
「蓮田」
黒川が一歩近づいた。声が小さくなる。わたしに聞こえないよう配慮しているのか、単に声を落としたのか。
「退職金は出るように話をつけてある。年末まで在籍したことにして、特別加算もつく。上はそこまで譲歩してる」
退職金。加算。わたしは聞こえないふりをしてPC画面を見つめたが、蓮田の返答は聞き取れた。
「金の話はいい。稟議を見せろ」
黒川は三秒ほど蓮田を見つめ、それから視線を外した。紙をジャケットのポケットに戻す。踵を返し、ドアに向かう。ドレスシューズの踵が、リノリウムの床を叩く。
「二週間だ。二週間後に正式な辞令が出る。それまでに身の振り方を考えろ」
「考えてから来い、と言ってるのは俺の方だ」
蓮田の声が、黒川の背中に届く。黒川は振り返らなかった。ドアが閉まる。足音が廊下を遠ざかっていく。
第三課に残されたのは、蓮田とわたしの二人。蛍光灯の微かなハム音。空調の低い唸り。廊下の向こうで誰かが電話をする声が、くぐもって聞こえる。日常は続いている。この部屋の中で何が決まろうとしているか、隣の部署すら知らない。
蓮田はしばらく閉じたドアを見つめていた。それから、ゆっくりと椅子に戻る。タバコの箱を取り出し、一本抜いて唇に咥え、火をつけない。フィルターを噛む音。
「宇津木」
「はい」
「一週間は無理だった。三日だ」
三日。蓮田が本社で確保した時間ではない。黒川が告げた「二週間」は正式辞令までの猶予。だが取締役会に報告書を叩きつけるなら、黒川が社長に根回しを完了する前に動かなければ意味がない。蓮田はそれを計算している。
「三日で、あの二十三件の報告書を仕上げろ。パターンの一致、金額の整合、請求日とダンジョン庁点検日の相関。全部、数字で証明するんだ。俺たちの主観じゃなく、数字で。それを俺が取締役会に叩きつける。黒川が社長に根回しを完了する前にだ」
「分かりました。早乙女さんと有坂さんには」
「俺から言う。今日中に全員集めろ」
蓮田がフィルターから唇を離した。タバコを箱に戻す。火をつけなかった一本。禁煙の誓いは守っている。だがフィルターには、歯形がくっきりと残っていた。
沈黙。壁の時計が十時十二分を指す。
「蓮田さん」
「何だ」
「コーヒー、飲みますか」
蓮田がわたしを見た。数秒の間。白髪交じりの前髪の下で、目が少しだけ細まる。怒りでも疲労でもなく、それに近い何か。
「……ああ、もらう」
わたしは給湯室に向かった。インスタントではなく、ドリップで淹れる。蓮田が好む深煎りの豆。棚の奥に仕舞い込まれた手動ミル。ハンドルを回すと、ごりごりと豆が砕ける手応えが掌に伝わる。挽いた粉に湯を注ぐ。膨らむ泡から焦げた甘い香りが立ち上った。
三日。七十二時間。二十三件の報告書。もし間に合わなければ、この部署は消える。蓮田の二十五年も、早乙女の冤罪も、有坂の覚悟も、全部まとめて管理部の棚に眠ることになる。
マグカップを二つ持って第三課に戻る。蓮田は既にPCに向かっていた。画面には取締役会のスケジュール表が開いている。
わたしはマグカップを蓮田のデスクの端に置いた。蓮田が「ん」とだけ言って、カップを引き寄せる。
二十五年。この男は二十五年間、この会社で査定をしてきた。その二十五年分の信用を、三日後の取締役会に全て賭けようとしている。
わたしは自分のデスクに戻り、PCの画面に向き直った。USBのフォルダが開いたまま。二十三のサブフォルダ。それぞれにPDFと表計算ファイルが格納されている。
七十二時間。始めよう。
ふと、モニターの横の付箋が目に入った。薄井達郎。水守達也。凍結命令。氷室瑞樹。四枚。わたしはその四枚を剥がし、引き出しに仕舞った。代わりに新しく三枚を貼る。『桐』『黒』『雷』。名前ではなく、一文字で。追うべき相手が、変わった。
窓の外で、消防車のサイレンが遠く鳴っている。五月の東京。街は平常通りだ。例外案件係が消えようとしていることを、十二階の外の人間は誰も知らない。知る必要もない。
だが、わたしたちは知っている。そして、まだ動ける。




