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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第一部『例外案件係の査定員』

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第21話「条件」

 氷室瑞樹からのメールに指定された場所は、等々力だった。

 世田谷区。東急大井町線の等々力駅から徒歩七分。住宅地に溶け込む一軒家改装型のカフェ。日曜の午前十一時、客はまばらだ。白い壁と木のカウンター。挽きたての豆の香りが、開け放たれた窓から五月の風に乗って漂う。


 わたしが着いたとき、氷室はすでに奥のテーブルに座っていた。窓際ではない。入口から死角になる位置を選んでいる。


 氷室瑞樹は、メニューを手に取らなかった。


「ブラックで」


 店員に短く告げて、銀縁眼鏡の位置を直す。切れ長の目がわたしを捉えている。三豊ダンジョン保険本社企画部主任。三十歳。前に会ったのは一ヶ月前、神楽坂のバーだった。あのとき彼女は言った。『あなたは昔から、降りるのが下手ね』。


 わたしもブラックを頼んだ。砂糖もミルクも要らない。今日の会話に、甘さは不要だ。


「来てくれたんですね」


「あなたが来ないとは思いませんでした」


 氷室の声に感情がない。事実を述べているだけ。テーブルの木目に視線を落とし、それから窓の外を一瞬確認する。尾行を気にしている所作だと、わたしは理解した。


 カップが二つ、木のテーブルに置かれる。陶器が木を叩く軽い音。湯気が、窓からの光を受けて白く揺らめく。


 氷室はカップに口をつけ、一口飲んだ。それからテーブルの上にカップを戻し、ハンドバッグに手を入れた。


「単刀直入に言います」


 取り出したのは、USBメモリ一本。黒い筐体に何の装飾もない。テーブルの中央に、静かに置かれる。陶器の隣で、プラスチックの黒が浮いて見えた。


「雷電リスク・マネジメントの過去五年分、再保険引受記録。本社企画部の共有サーバーにあったものです」


 わたしの指が、カップの取っ手を握ったまま止まる。

 再保険引受記録。保険会社が自社のリスクを分散するために別の保険会社と結ぶ契約の記録。保険会社の体力と判断基準が、数字として残る。それが五年分。雷電の外郭企業が、どの案件でどれだけの保険金を動かしたか。全て分かる。


「なぜ、わたしに」


 氷室がコーヒーを一口飲む。唇をカップの縁から離し、わたしを真っ直ぐ見た。


「あなたが正しいからじゃありません」


 間。店のスピーカーからジャズピアノが流れている。ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』。静かな旋律の間に、氷室の沈黙が落ちた。


「わたしが、もう読まないと決めたからです」


 読まない。持たない。関わらない。氷室瑞樹は、このデータを自分の手元に置き続けるリスクを切り捨てた。それだけのことだ。正義でも同情でもない。三十歳の企画部主任が、自分のキャリアと天秤にかけた結果の判断。コスト計算。


 窓から入る風が、テーブルの紙ナプキンを揺らした。五月十一日。日曜。街路樹のケヤキの葉擦れが、ピアノの音に混じる。


「条件があります」


「伺います」


「わたしの名前は出さない。出したら、あなたを潰します」


 声のトーンが変わらない。脅しではなく、契約条項の読み上げ。この女はそういう人間だ。


 感情の前に契約がある。契約の前に計算がある。わたしが知る限り、氷室瑞樹は一度も計算を間違えたことがない。


「それと、これは正規の内部通報ではありません。匿名提供です。わたしと三豊の間に、何の利害関係もないまま処理してください」


「匿名で構いません」


「構いませんじゃなく、絶対に」


 氷室の銀縁眼鏡の奥。窓からの光が反射して、目の色が読めない。レンズの向こうで何を見ているのか。わたしを。わたしの判断能力を。それとも、わたしがこの先犯すかもしれない失敗を。


「分かりました。絶対に」


 氷室はカップを空にした。飲む速度が速い。長居する気がない。

 立ち上がり、伝票を取る動作が一切ない。わたしの分も含めて、テーブルに千円札を二枚置く。


「領収書は要りません。経費にしたら足がつく」


 背中を向けて歩き出す。白いブラウスと紺のスカート。日曜の私服にしては堅い格好だが、彼女は平日も休日も区別しない人間だった。銀行にいた頃からそうだ。


 カフェのドアベルが鳴る。真鍮の澄んだ音。氷室瑞樹は五月の日差しの中に消えた。


 テーブルに残されたUSBメモリ。黒い筐体。三センチほどの、ただのプラスチック。

 わたしはそれを手に取った。軽い。八グラムか、十グラムか。データの重さは、グラムでは測れない。


 コーヒーの残りを飲み干す。冷めた液体が、喉を滑り落ちる。苦い。


 スマートフォンの時刻表示は十一時二十四分。滞在時間、十五分足らず。氷室瑞樹は、十五分でわたしに爆弾を手渡して去った。


 席を立つ。千円札二枚の上に、空のカップを寄せた。レジで店員に「お連れ様が先に」と言われ、わたしは頷くだけで店を出た。等々力の住宅街を歩く。日曜の静けさの中、子供の声が遠くで聞こえる。胸ポケットの中のUSBが、体温で少しだけ温まっていた。



 翌日。五月十二日、月曜。九時十五分。


 わたしは三豊ビル北館十二階、第三課の蓮田のデスクにUSBメモリを置いた。蓮田は出社直後のコーヒーを啜っていた。マグカップの縁から立つ湯気越しに、黒い筐体を見下ろしている。


「何だ、これは」


「匿名提供です。雷電リスク・マネジメントの再保険引受記録、五年分」


 蓮田のマグカップが、デスクに置かれる。ことり、と陶器が鳴った。


「出所は言えません。条件です」


 蓮田の眉が片方だけ上がった。わたしの顔を三秒見て、何かを測っている。それから小さく鼻を鳴らした。


「……分かった。俺も出所は訊かん」


 蓮田が自分のPCにUSBを差す。セキュリティスキャンが走る間、蓮田は胸ポケットからタバコの箱を取り出し、火をつけずに匂いだけ嗅いだ。ニコチンの乾いた匂い。禁煙中の癖だ。


 スキャン完了。フォルダが開く。


 蓮田の顔色が変わった。


 白髪交じりの額に、皺が一本増えたように見える。五十歳の保険屋が二十五年で培った直感が、画面の数字の羅列から何かを嗅ぎ取っている。マウスのスクロールが速くなる。ファイル名が次々と流れていく。ダブルクリック。表計算ソフトが開く。数字の行列。日付と金額の列が、画面を埋め尽くす。


「宇津木」


「はい」


「これは、嶋崎の件だけじゃない」


 蓮田がマウスから手を離し、椅子の背もたれに体重を預けた。ぎし、と椅子が鳴る。


「過去五年で二十三件。同じパターンがある」


 二十三件。わたしは、その数字を頭の中で反芻した。


「請求日がダンジョン庁の定期点検日と重なってる。点検中は監視カメラが止まる。七十二時間の空白。その隙間に事故報告が出されてる」


 蓮田がPCから目を離し、わたしを見上げた。いつものぼやきの色が消えた目。代わりに、怒りとも諦めともつかない光が浮かんでいる。二十五年この会社で査定をしてきた男の目だ。


「全部、ダンジョン内の『事故』に見せかけた保険金請求だ」


 壁の時計が、かちりと音を立てる。九時二十三分。月曜の朝。一週間のタイマーは、もう動き始めている。


「総額は」


 蓮田がタバコの箱を、デスクに放った。乾いた音。


「四億七千万」


 四億七千万円。嶋崎案件の三千五百万が霞む額。雷電クランの年間保険料十四億円の三分の一に相当する金額が、五年かけて、一件ずつ、静かに引き出されていた。


 蓮田がコーヒーを一口飲み、天井を仰いだ。蛍光灯の光が白髪を照らしている。


「やれやれ、だな」


 その呟きに、いつもの軽さがなかった。蓮田は椅子を軋ませて姿勢を正し、タバコの箱をポケットに戻す。


「宇津木。この二十三件を報告書にまとめろ。嶋崎案件と合わせて、パターンの一致を数字で証明する。それが俺たちの武器になる」


「期限は」


「凍結命令の猶予が水曜まで。三日だ」


 三日。七十二時間。二十三件分の保険金請求書と事故報告書を突き合わせ、パターンの一致を立証する。一人では無理だ。チームで動くしかない。


「早乙女さんと有坂さんを巻き込みます」


「ああ。俺は本社で根回しに回る。黒川には、まだ言うな」


 蓮田が立ち上がった。ジャケットの襟を正す。五十歳の背中が、蛍光灯の下を歩いていく。第三課のドアが閉まる音。


 壁の時計。九時二十八分。月曜の朝。残り三日。


 わたしはPCの電源を入れ、USBのファイルを一覧で開いた。二十三のフォルダ。二十三の事故。二十三の嘘。


 四億七千万。書類で、この金額を動かした人間がいる。

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