第20話「初動」
乃木坂誠。元警視庁ダンジョン対策課、巡査部長。
五月七日、水曜の朝、九時。わたしはPCの画面に映るその名前を、三度読み直した。三豊ビル北館十二階、第三課のデスク。早乙女と有坂はまだ来ていない。蓮田だけが奥の席で、煎れたてのコーヒーのマグカップを手に、湯気越しにこちらを見ている。焦げた豆の匂いが第三課に漂う。
「見つけたか」
「見つけました」
乃木坂誠。三年前の柿沼事件で、捜査チームに所属していた巡査部長。事件後に依願退職。退職月は早乙女と同じ十月。現在の勤務先は「雷電リスク・マネジメント株式会社 コンプライアンス部門」。薄井達郎の部下。
三年前、証拠改竄の疑いが早乙女に向けられた。だが改竄の実行者は早乙女ではない。同じ捜査チームにいた乃木坂が実行し、早乙女に疑いが向くよう証拠を配置した。そして事件終結後、乃木坂は雷電の外郭企業に収まった。
経歴を辿った手順はこうだ。
まず柿沼事件の判決文に記載された捜査関係者リストから、事件後五年以内に退職した警察官を抽出した。三名。うち一名は六十歳の定年退職。もう一名は埼玉県警への希望異動。残る一名、乃木坂誠は三十八歳での依願退職。理由は「一身上の都合」。
次に退職後の経歴を追った。SNSには痕跡がない。だが法務局の会社登記で、雷電リスク・マネジメント設立時の従業員リストに名前があった。設立は三年前の十二月。乃木坂の退職が十月。退職から二ヶ月で、雷電の外郭企業に収まっている。
証拠は状況証拠のみ。乃木坂が実行犯だという直接証拠はない。だが蓋然性は高い。退職のタイミング、転職先、薄井との上下関係。線が繋がっている。
九時二十分。早乙女が出社した。カーゴパンツにグレーのパーカー。缶コーヒーを片手に、自分の席に鞄を投げる。
「早乙女さん。話があります」
早乙女がこちらを見る。わたしの声のトーンで、何かを察したのだろう。缶を開けずに、そのままわたしのデスクの前に立った。
「何」
「三年前、証拠を改竄した人物が分かりました」
早乙女の瞬きが、一度だけ止まった。
「乃木坂誠。当時の捜査チーム、巡査部長。早乙女さんと同じ帳場にいた人間です」
早乙女は、長い三秒をかけてその名前を咀嚼した。視線がわたしの顔から離れ、天井の蛍光灯に向き、また戻ってくる。
「乃木坂……」
名前を口にする声は、怒りではなかった。驚きでもなかった。確認だ。記憶の棚から、三年前の顔を引き出している。
「覚えてる。背が低くて、声がでかくて、飲み会で必ず二次会に行く男だ。捜査は真面目だったよ。書類の書き方も丁寧で、上からの覚えもよかった。少なくとも、あたしはそう思ってた。仲間だと思ってた」
最後の一言だけ、声が低くなった。
「乃木坂さんは事件後に退職し、現在は雷電リスク・マネジメントのコンプライアンス部門に在籍しています。薄井達郎の直属の部下です」
早乙女の右手が、缶コーヒーを握り潰した。アルミが歪む音。甲高い、短い金属音。コーヒーがプルタブの穴から少しだけ溢れて、早乙女の指を濡らした。拭わない。
「知ってた」
低い声。
「半分は、知ってた」
わたしは何も言わなかった。
「乃木坂が怪しいとは思ってた。退職のタイミングが、あたしと同じだったから。でも確信がなかった。確信がないまま三年経った」
早乙女はようやく缶コーヒーの潰れた面を見下ろし、舌を鳴らした。指先のコーヒーを一舐めして、ティッシュで拭く。
「確信をくれたのは、あんたが初めてだ」
礼でも感謝でもない。事実の確認。早乙女灯里はそういう人間だ。感情を言葉で飾らない。代わりに、缶コーヒーの凹みが本心を語る。
わたしは黒縁眼鏡を外し、レンズの曇りを拭いた。布の繊維がレンズ面を擦る、きゅっという小さな音。三年分の疑惑が、一つの名前に収束した。だが収束しただけで、解決はしていない。
*
だが情報だけでは不十分だとわたしは分かっていた。
「この情報だけでは、名誉回復には足りません」
「分かってる。乃木坂の自白か、物証が必要だ」
「乃木坂がなぜ証拠を改竄したのか。誰の指示で動いたのか。その証拠を押さえないと、早乙女さんの冤罪を覆す材料にはならない」
早乙女は新しい缶コーヒーを自販機から買い直し、今度はプルタブを引いた。金属の破裂音。ブラックの苦い匂い。
「で、それは誰が持ってる」
「おそらく桐生鷹志です。乃木坂を雇っているのは桐生の外郭企業。証拠改竄を指示した人間がいるとすれば、その指揮系統の頂点にいるのは桐生しかいない」
「桐生が証拠を渡す理由がない」
「ありません。自分の弱みを差し出す人間はいない。だから別の道を探ります。乃木坂本人に接触するか、あるいは別の情報源から物証を引き出すか」
早乙女は缶コーヒーを一口飲み、窓の外に目を向けた。隣のビルの壁面に朝日が反射して、薄いオレンジ色の光が第三課の天井に揺れている。五月の朝の光はまだ角度が浅かった。
蓮田が、奥の席から声を上げた。
「お前ら。一つ言っておくことがある」
胃薬を噛み終えた蓮田が、椅子を回してこちらを向いた。引き出しを開ける金属音。中から一枚の社内文書を取り出す。
「凍結命令は、俺が一週間止めた」
早乙女とわたしが同時に蓮田を見た。蓮田は文書をデスクに置いたまま、こちらを見返す。五十歳の顔。皺と白髪とタバコの匂い。だが目だけは据わっている。
「黒川に直談判した。根回しじゃない、頭越しだ。俺のカードを一枚切った」
カード。蓮田が二十年のキャリアで貯めてきた人脈と貸し借りの一枚。具体的に何を出したのか、わたしには訊く権利がない。
「具体的に何を出したかは言わん。ただ、一週間は凍結命令が下りない。その間に動ける証拠を揃えろ」
「一週間」
「一週間だ。来週の水曜まで。それを過ぎたら、俺にも止める手段がなくなる」
一週間。七日。百六十八時間。水守の書面の回答期限が六日後。凍結命令の猶予が七日。二つの期限がほぼ重なっている。
「蓮田さん」
「何だ」
「一週間。足りますか?」
蓮田は顎を引いた。
「足りなくても、やる」
蓮田の声に、いつものぼやきの色が消えている。二十年の勤め人が、腹を括った声。
第三課の時計が、壁の上で秒針を刻んでいた。かち、かち、かち。規則正しく、容赦なく。来週の水曜まで。それが、このチームに残された時間だ。
わたしはペンの尻を机に一度叩いた。ノートを開く。一週間で何ができるかを書き出す。氷室瑞樹との接触。佐伯弁護士への相談。乃木坂誠の行動確認。水守の書面への回答。
四つのタスク。七日間。人員は四人。足りるかどうかではない。やるしかない。
有坂が出社してきた。ドアを開け、第三課の空気が変わっていることに一瞬で気づいた顔。鞄を下ろす手が止まっている。
「……何か、あったんですか」
「あった。座れ。説明する」
蓮田がマグカップを掲げた。コーヒーの湯気が蛍光灯の光の中で揺れている。早乙女が有坂の隣に椅子を引き寄せ、簡潔に状況を説明し始めた。有坂の目が見開かれていく。驚き、困惑、そして小さな決意。二十二歳の顔に、一ヶ月前にはなかった硬さが宿っている。
壁の時計の秒針が、かちかちと時を刻む。一週間。七日。その間に、三年分の闇に光を当てる。
足りるかどうかは分からない。だが足を止める選択肢は、もうない。
わたしはペンの尻を、もう一度、机に叩いた。




