第19話「包囲」
「例外案件係って、あの大手クランに喧嘩売ってるらしいですよ」
聞こえるように言われた。五月六日、火曜の昼休み。三豊ビル北館地下一階の社員食堂。隣のテーブルの男二人が、カレーライスを突きながら声を抑えもしない。経理部の人間だ。名前は知らないが顔は覚えている。
「株価に影響するって話、総務の岩田が言ってた」
「マジか。雷電って年間保険料いくら払ってんの、うちに」
「十四億。全契約の六パーセント」
数字が正確なのが厄介だった。蓮田が黒川部長に報告した内容が、一週間と経たないうちに食堂の雑談にまで降りてきている。社内のどこかで、意図的に情報が流されている。噂は自然発生しない。誰かが種を蒔いている。
わたしはトレイの上のきつねうどんに箸を伸ばした。出汁の湯気が眼鏡のレンズを曇らせる。拭かなかった。曇ったままの方が、周囲の視線を感じずに済む。
つゆを一口啜る。鰹出汁の温度がぬるい。五月上旬、空調が暖房から冷房に切り替わる中途半端な季節。食堂の換気扇が低く唸り、揚げ物の油と百人分の昼食の湯気が天井で混ざり合っている。
向かいの席で、有坂がコンビニおにぎりの海苔を剥がす手を止めていた。唇が薄く開いて、隣のテーブルの会話を拾っている。顔色が白い。
「気にしないでください、有坂さん」
「……でも、あんなこと」
「噂は噂です。仕事の結果で返します」
有坂は小さく頷いて、おにぎりを頬張った。だが咀嚼の速度が明らかに遅い。紅鮭の具が見える切り口を、二回噛んで止めて、また噛み直す。わたしは自分のうどんを食べ終え、トレイを持って立ち上がった。
帰りがけ、隣のテーブルの横を通る。二人の男は会話を止めなかった。わたしの顔を見ていないのか、見ていて止めないのか。どちらにせよ、この噂が「自然発生」ではないという確信が強まっただけだ。
エレベーターで十二階に戻る。鋼鉄の箱が上昇する間、背中に他部署の社員の視線を感じた。視覚ではなく触覚として。後頭部に触れる目線の重さ。この会社に来て一ヶ月。初めて、自分の存在が社内で「目立っている」ことを実感する。探索者ではない査定官が、S級クランに噛みついている。それがどう見えるか。
第三課のドアを開けた。早乙女が椅子に足を組んで、ノートPCの画面を睨んでいる。わたしの顔を一瞥して、何も訊かなかった。
*
午後二時。蓮田が席を外した。
蓮田の行き先は言わなかったが、エレベーターの上ボタンを押したのをわたしは見ている。十四階。黒川査定部長の執務室がある階。
三十分後。蓮田が戻ってきた。タバコの匂いではなく、革靴の底を廊下で磨り減らした匂い。歩き方がいつもよりわずかに重い。椅子に座る前に、デスクの引き出しから胃薬のシートを取り出した。銀色のアルミを親指で押し、白い錠剤を掌に落とす。水なしで奥歯で噛む。砕ける音が、静かな第三課に小さく響いた。
「黒川が言ってきた」
蓮田の声は平坦だ。だがその平坦さが、逆に中身の重さを伝えている。
「雷電関連案件の一時凍結命令が正式に出る可能性がある、と」
早乙女が椅子ごとこちらを向いた。カーゴパンツのポケットに突っ込んでいた右手が、膝の上に出る。
「凍結。誰の判断だ」
「稟議が上がってる。黒川自身は自分の判断じゃないと言い張った。じゃあ稟議は誰が出したのか訊いたら、答えない」
蓮田はマグカップを手に取り、中身がないことに気づいて戻した。陶器がデスクに当たる、こつん、という音。
「目だけ逸らしやがった。あいつは嘘をつくとき、必ず目を逸らす。二十年の付き合いで分かる」
「凍結されたら、薄井への再接触も止まりますね」
「止まる。水守の書面への回答期限が六日後。凍結命令が正式に下りれば、回答する前に手足を縛られる。回答しないこと自体が法務リスクになるから、結局は向こうの要求を呑む形になる」
設計された包囲だ、とわたしは思った。水守の書面、年度末査定の前倒し、凍結命令。三方向から同時に圧力をかけている。偶然にしては精度が高すぎる。タイミングが完璧すぎる。
わたしのスマートフォンが、デスクの上で振動した。通知音は消してある。バイブレーションだけが、デスクの天板を微かに震わせた。
メール。差出人の名前を見て、指が止まった。
氷室瑞樹。本社企画部主任。
あの夜のバーで向かい合って以来だ。あのとき氷室は条件付きの保護を提示し、わたしはそれを拒んだ。銀縁眼鏡の奥の切れ長の目が言った。『あなたは昔から、降りるのが下手ね』と。あの夜の氷室は、案件から降りろと言った。だが今回のメールは方向が違う。
件名はなし。本文は一行。
『一度会えますか。あなたに渡すものがあります』
わたしはスマートフォンの画面を伏せた。早乙女がこちらを見ている気配がある。だが今は見せない。氷室瑞樹が何者で、何を渡そうとしているのか。味方か、罠か。判断する材料がまだ足りない。分からないものを共有するのは、リスクでしかない。
*
十七時十分。退勤の支度をしているときだった。
デスクの固定電話が鳴った。外線。液晶に番号が表示される。登録外だが、市外局番は〇三。都内。
「第三課、宇津木です」
「芝山だ」
ダンジョン庁監察官、芝山幸雄。低く穏やかな声。だが今日はその声の底に、砂利を踏むような粗さが混じっている。
「嶋崎事件の通報の件、結果をお伝えしたい」
「お聞きします」
「揉み消された」
一拍の沈黙。窓の外で、風が鳴った。
「俺が上げた通報が、警察に届く前にダンジョン庁の内部で止められた。理由は『証拠不十分による差し戻し』。体裁だけは整えてあるが、実態は握り潰しだ」
わたしは受話器を握り直した。プラスチックの筐体が掌の汗で滑る。
「差し戻したのは」
「俺の上の、さらに上。名前は言えない。ただ、ダンジョン庁の中にも手が回ってるということだ」
芝山の声の背景に、風切り音が混じっている。屋外からかけているのだろう。庁舎の中では聞かれる、と判断したのか。この人すら、建物の中で自由に話せない。
「正規ルートでは、これ以上通らない。俺は俺で内部から動くが、時間がかかる」
「ありがとうございます、芝山さん」
「気をつけろ。向こうは合法的に潰しにきてる。法を守りながら人を殺す方法を知ってる連中だ」
電話が切れた。受話器を戻す。耳の奥に、芝山の声と風切り音の残響が混じっている。
指先が冷たかった。五月の空調の冷気が、手の甲の産毛を逆立てている。
早乙女が、鞄を肩にかけたまま立っていた。デスクの向こう側。受話器を戻すわたしの手元を見ている。会話の内容は、聞こえていたはずだ。
「四方全部塞がれたな」
早乙女の声に怒りはない。地図を広げて地形を読む、あの冷静さ。警察出身者の状況把握。
水守の書面。凍結命令。社内の噂。通報の握り潰し。
(いや。一箇所だけ、まだ開いている)
ポケットの中のスマートフォンが、体温で温まっている。氷室瑞樹のメール。一行だけの本文。
「帰るぞ」
早乙女がドアノブに手をかけた。わたしは頷いて、PCをシャットダウンした。モニターの光が消え、第三課の壁に貼った付箋だけが、蛍光灯の残光で黄色く浮かんでいる。
薄井達郎。水守達也。凍結命令。氷室瑞樹。
四枚の付箋。四つの名前。四方を塞がれた箱の中で、一箇所だけ、蓋が浮いている。
敵の内側から、何かが差し出されようとしている。罠かもしれない。だが四方を塞がれた人間に、選り好みをする余裕はない。




