第18話「水守達也」
「例外案件係の年度末査定が前倒しになる」
蓮田が椅子に座ったまま、その一言を落とした。五月五日、月曜、八時四十五分。出社して鞄を下ろす間もなく。蓮田の声に、いつものぼやきの色がない。マグカップすら手にしていなかった。この男がコーヒーより先に仕事の話を切り出すのは、わたしが知る限り初めてだ。
わたしは黒縁眼鏡のブリッジを指で押し上げた。三豊ビル北館十二階西端、第三課。蛍光灯の光が蓮田の白髪交じりの頭頂部を照らしている。
「査定の前倒し。つまり」
「実績が足りなければ廃課も視野に入れる、と。上からの通達だ。黒川部長名義で来てるが、発案者は別にいるだろうな」
蓮田のデスクの上に、社内便の茶封筒が開封済みのまま置かれていた。わたしの席からは中身が見えない。だが蓮田の顔が、答えを語っている。
「いつまでですか」
「来月末。四件の案件処理で、実績評価。嶋崎案件は犯人不特定で着地してるから、得点としては半端だ」
有坂が給湯室から戻ってきて、空気の変化に気づいたらしい。マグカップを自分のデスクに置く手が、一瞬止まった。
「……っです、何かあったんですか」
「うちが潰されかかってる。まあ、今に始まったことじゃないが」
蓮田はマグカップに口をつけ、冷めたコーヒーの苦さに顔を歪めた。早乙女は椅子の背にもたれたまま、天井を見ている。何も言わない。
*
十時二十分。法務部の内線が鳴った。
三豊ビル北館九階。法務部。わたしは呼び出されてエレベーターに乗り、三つ下のフロアに降りた。法務部のフロアは第三課とは別世界だった。カーペットが厚く、足音を吸い込む。空調の温度が一度低い。人の声が、どこからも聞こえない。
法務部の吉岡主任が、応接スペースのテーブルに書面を広げていた。上質紙。厚さ百グラムはある。角が立っていて、折り目が一本もない。封筒は「水守・山際法律事務所」の角印入り。
「宇津木さん。これ、あなた宛に来てます」
書面を手に取る。指先に紙の重みが伝わる。ざらつきではなく、滑らかさ。高級紙の手触り。
件名。『雷電リスク・マネジメント株式会社に対する御社査定部の不当な調査活動について(警告書)』。
宛先は三豊ダンジョン保険株式会社法務部。だが本文中に「貴社損害査定部第三課・宇津木伊吹査定官」の名前が五箇所。名指し。
差出人。水守達也。弁護士。
スキルを起動する。書面の文字列に意識を向ける。色が視える。
全文、青。
一行の例外もなく青。嘘がない。法的に一点の隙もない、完璧な警告書。事実の羅列、法令の引用、判例の提示。すべてが正確で、すべてが真実で、すべてが隙なく研がれている。
吉岡が眼鏡越しにこちらを見ていた。
「どうします。これ、放っておくと次は内容証明で来ますよ」
「……内容を精査させてください。明日中に回答案を出します」
「宇津木さん。率直に言いますが、この書面は相当な手練れが書いてます。うちの顧問弁護士に見せたんですが、『法的には瑕疵がない。正面から争うのは相当難しい』と。費用対効果を考えると要求に応じた方がいいんじゃないか、と」
わたしは書面を持ったまま、法務部を出た。
エレベーターの中で、もう一度読み返す。箱の中の密閉された空気が肌に重い。金属壁の冷たさが背中に触れている。九階から十二階まで、三十秒。その間に、書面の構造が頭の中で解体されていく。
第一段落。事実の摘示。宇津木が雷電リスク・マネジメント社に対し、正式な調査令状なく接触した日時と場所。五月二日、港区芝三丁目。正確だ。薄井を訪問した翌日に、この書面が作成されている。情報の伝達速度。薄井からの報告が即日で法務に上がり、翌朝には弁護士の手に渡っている。組織として動いている。
第二段落。法令の引用。保険業法第三百条。個人情報保護法第十八条。ダンジョン探索者権利保護法第七条。引用は正確で、解釈に飛躍がない。
第三段落。要求事項。「貴社査定官による当社関連企業への直接接触の即時中止」「本件に関する一切の調査資料の保全と開示」「七営業日以内の書面回答」。
七営業日。期限付き。回答がなければ次のステップに進む、と読める。
水守達也。東大法学部首席卒業。司法試験現役合格。大手渉外事務所を経て独立。専門はダンジョン保険法と探索者関連訴訟。過去五年間の勝訴率、九割二分。敗訴は三件のみ。
桐生鷹志の「盾」が動いた。物理的な暴力ではなく、法律という武器で。正確で、合法で、反論の余地がほとんどない。だが「ほとんど」はゼロではない。
*
第三課に戻ると、蓮田が一服から帰ってきたところだった。スーツの襟元にタバコの臭いがこびりついている。銘柄は知らない。だが酸味のある煙草の匂いが、蓮田が喫煙所で何分過ごしたかを物語っていた。
「法務から何だった」
「これです」
書面を蓮田のデスクに置いた。蓮田は一読して、眉間の皺を深くした。
「水守か。名前は知ってる。雷電側の顧問弁護士だ。あの男が出てきたか」
「ご存知でしたか」
「業界じゃ有名だ。『ダンジョン保険法の鬼』。あの男に正面から勝った保険会社は、過去五年で二社しかない」
早乙女が書面を横から覗き込んだ。法律用語の羅列に、小さく舌打ちする。
「法律で殴ってきたか。やり方が汚い」
「汚くはない。正攻法だ。だから厄介なんだ」
蓮田が書面をデスクに投げ返した。紙が滑って、デスクの端で止まる。
有坂が、おずおずと手を上げた。
「あの……弁護士に、知り合いがいます」
三人の視線が有坂に集まる。有坂は頬を赤くしながら、言葉を続けた。
「その、叔父夫婦が離婚するときにお世話になった国選弁護人の先生がいて……今は民事専門で独立されてるんですけど。ダンジョン関連の案件も扱ってるって、年賀状に書いてありました」
「名前は」
「佐伯……佐伯真紀子先生です。事務所は四谷にあります」
蓮田が顎を引いた。知らない名前ではないらしい。わたしはメモに名前を書き留めた。
有坂の伝手。細い糸だが、今はそれしかない。水守達也レベルの弁護士に対抗するには、こちらにも法的な助言者が必要だ。わたしは法律の素人ではないが、保険業法の条文解釈で訴訟のプロと渡り合えるほどの専門知識はない。
有坂がスマートフォンを取り出し、年賀状の写真を探し始めた。画面を覗き込む横顔は真剣で、口元がきゅっと引き結ばれている。自分にできることを見つけた人間の顔だった。
「宇津木」
蓮田の声。
「お前、法廷に立ったことは」
「ありません」
「だろうな。銀行の融資部じゃ法廷は縁がない。だが書面戦は、お前のフィールドだろう」
書面。契約書。覚書。稟議書。反論書。融資の担保割れで支店長と取引先に挟まれたあの七年間。数字と条項の間を縫って結論を出す仕事。
「法律で殴ってくる相手に、書類で勝てるのか」
蓮田の問い。早乙女と有坂の目がこちらを向いている。
「勝てますよ。書類は、わたしのフィールドですから」
口にした瞬間、自分でも驚いた。声に迷いがない。虚勢ではない。七年間の融資業務が、背骨の中で音を立てて直立した感覚。
蓮田が鼻で笑った。嘲りではない。確認だ。
「やれやれ。頼んだぞ」
窓の外で、五月の風がブラインドを揺らした。薄い金属板が触れ合う、かちかちという乾いた音。隣のビルの壁面が、午後の光を反射して白く輝いている。
水守達也の書面が、デスクの上で白く光っている。七営業日。回答期限まで、あと六日。上質紙の角が、蛍光灯の下で影を落としていた。




