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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第一部『例外案件係の査定員』

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第16話「帳場」

「嶋崎修、A級、三十四歳。左前腕粉砕骨折。新宿第七ダンジョン三十二層南通路にて被害」


 わたしはペンの尻を机に一度叩き、報告書の末尾に視線を落とした。三豊ビル北館十二階、第三課。五月一日、午前九時四十分。蛍光灯の白い光が、書類の活字を平等に照らしている。


 結論欄に、黒のボールペンで書き加える。


『本件は、ダンジョン内罠の仕様を悪用した計画的傷害と判断する。保険金三千五百万円の支払いは適正。加害者の特定には至らず、所轄警察署への被害届提出を以て第一次調査を終結とする』


 署名。捺印。蓮田に提出。


 報告書を受け取った蓮田は、丸椅子の背もたれに体重を預けたまま三十秒で読み通した。眉間の皺が一本も増えない。赤ペンを取り出す気配もなかった。


「通しだ。よくまとめた」


「ありがとうございます」


「ただし」


 蓮田のマグカップから湯気が立つ。焦げたコーヒーの酸味が鼻を突く。昨日から煮詰め続けた液体の臭い。


「犯人が出てこない報告書は、上には刺さらん。書類として成立しても、稟議の戻りが早い。覚えておけ」


 分かっている。雷電クランは沈黙したまま。桐生鷹志からの連絡は一切ない。


 Tier 2で視た仕様書の存在を証明する物的証拠は、わたしの証言だけ。スキル発動の結果は、法的証拠能力を持たない。


 嶋崎さんの保険金三千五百万円は守った。それが今の成果のすべて。袋小路の奥に立っている自覚はある。


 有坂が給湯室から戻ってきて、わたしのデスクにほうじ茶のマグカップを置いた。茶葉の香ばしい匂いが立ち昇る。


「お疲れさまです、宇津木さん」


「ありがとうございます」


 有坂は自分の席に戻り、PCの前で嶋崎案件の経費精算入力を始めた。キーボードを叩く音が、静かな第三課に規則正しく響く。日常が戻りつつある。ダンジョンの苔の光は遠い。こめかみの奥の鈍痛も、三日前からようやく消えた。



 昼休み。十二時十五分。


 給湯室の自販機の前で、早乙女が缶コーヒーのプルタブを引いた。ブラックの苦い匂いが狭い空間に充満する。アルミの表面に結露が浮いていた。五月に入って急に気温が上がった。


 わたしは隣で紙コップの緑茶を啜っていた。窓の外では隣のビルの改修工事が続いており、ドリルの低い振動が壁越しに伝わってくる。


「宇津木」


 早乙女の声はいつも通り短い。だが缶を持つ指に力が入りすぎている。アルミが微かに凹む。


「頼みがある」


 頼み、という単語が早乙女灯里の口から出たのは、初めてのことだった。


「何でしょう」


「三年前のこと。調べてくれる?」


 排水管の水音が壁の裏で細く鳴った。工事のドリル音が、一瞬だけ途切れる。わたしは紙コップを流し台の縁に置いた。


「三年前の柿沼事件、ですね」


 早乙女がこちらを見る。驚きはない。(知っていたか)という確認の目。


「調べてたんだ」


「早乙女さんの経歴に空白がある以上、確認するのは査定官として当然です。元警視庁ダンジョン対策課の巡査部長が、なぜ民間の損害調査に転じたのか。三年前に何があったか」


 早乙女は缶コーヒーを一口飲み、喉仏が動いた。それから短く息を吐く。


「B級探索者、柿沼浩一。保険金詐欺の容疑で逮捕。帳場が立って、あたしは捜査チームに入った」


 帳場。捜査本部。警察用語がそのまま出る。


「裁判で無罪。証拠改竄の疑いが浮上して、あたしに向いた」


 言葉が途切れた。缶の結露が一筋、早乙女の人差し指を伝って爪の先まで落ちる。拭わない。


「依願退職。辞表が通ったのは十月十七日」


「自分で調べなかったんですか。三年間」


「途中まで調べた」


 早乙女の視線が、自販機のオレンジ色のランプに向いていた。何かを見ているのではなく、何も見ないために視線を固定している。


「途中で止まった。自分の名前が出る書類を自分で読むのは、きつい。現臨で遺体を見るより、きつかった」


 わたしは黙って頷いた。書類は嘘をつく。しかし書類を読む人間の手もまた震える。書類と向き合う職業を選んだわたしには、その痛みの輪郭が見える。


「引き受けます」


「条件は」


「ありません。同僚の依頼です」


 六秒。早乙女は何も言わなかった。缶コーヒーのアルミがもう一度、微かに軋む。握り潰す寸前の圧力。


「……ありがと」


 声がいつもより半音低い。


 三年間、自分では触れられなかったものを他人に委ねる。その決断がどれほどの重さを持つのか、わたしには正確には量れない。ただ、この人は今日まで一人で抱えていた。それだけが確かだ。


 早乙女は缶コーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に正確に投げ入れた。金属同士がぶつかる乾いた音。背を向けたまま、もう一言だけ。


「柿沼のことは——あいつは無実だった。あたしが捕まえた人間が、無実だった。それだけは最初から分かってた」


 廊下に出ていく早乙女の背中を見送る。カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んだ歩き方。肩の線が、ほんの少し下がっていた。



 午後二時。わたしは自席のPC画面と向き合っていた。


 社内データベース。裁判所の判例検索システム。警視庁の公開情報アーカイブ。三つのタブを横に並べて、柿沼浩一の名前を追う。


 柿沼浩一。B級探索者。三年前、新宿第四ダンジョンの探索報酬をめぐる保険金詐欺容疑で逮捕。起訴。東京地裁第十一刑事部にて審理。判決、無罪。


 判決文のPDFは五十三ページ。裁判官の名前。検察官の名前。弁護人は国選。証人リスト、七名。


 三人目の名前で、わたしの指がマウスホイールを止めた。


 薄井達郎。肩書き——岩礁クラン副代表。


 古い書類の酸化したインク臭が、PDFの向こうから漂ってくるような錯覚を覚える。三年前の紙。三年前の証言。三年前の法廷。


 別タブで検索する。岩礁クラン。三年前に解散。元メンバーの多くが雷電クランの傘下組織に移籍。薄井達郎の現在の肩書きは「雷電リスク・マネジメント株式会社 顧問」。


 桐生鷹志の外郭企業。嶋崎案件を調査する過程で何度も名前が出てきた法人。その顧問が、三年前の柿沼事件で証人として法廷に立っていた。


 わたしはデスクの引き出しから付箋を取り出し、名前を書いた。黄色い紙に黒字で「薄井達郎」。モニターの左上に貼る。蓮田が離席中であることを確認し、判決文を印刷した。十二階のプリンターが唸りを上げ、五十三枚の紙が排出される。温かい紙の束を受け取ると、トナーの化学的な匂いが指先に移った。


 十五時過ぎ。早乙女がデスクに戻った。外出帰りのカーゴパンツの裾に、雨の跡が点々と残っている。天気予報では午後から曇りだったはずだが、にわか雨があったらしい。


「結果、出た?」


「出ました」


 わたしはモニターを早乙女に向けた。証人リストのPDF。三人目の名前にカーソルを合わせている。


 早乙女の目が画面に固定された。三秒。五秒。表情は動かない。だが、右手に持ったビニール傘の先端が、リノリウムの床を二度、小さく叩いた。


「薄井さんの名前が、三年前の事件の証人欄に、ありますね」


 わたしの声が静かな第三課に落ちる。エアコンの送風音だけが、低く続いていた。


 早乙女は答えなかった。傘を傘立てに差す動作だけが、いつもより一拍、遅い。


 窓の外で、工事のドリルがまた唸り始めた。五月の薄曇りの光が、ブラインドの隙間から斜めに差して、早乙女の横顔を照らしている。


 三年前の帳場。証言台の薄井。柿沼の無罪。証拠改竄。早乙女の辞表。


 点と点が、まだ線にはならない。だが、すべての点に「雷電」の影が落ちている。


 わたしはペンの尻を机に一度叩いた。次の付箋を引き出す。そこに書くべき名前は、まだ見えない。

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