第15話「仕様書」
「行かせろ。あいつにしか視えないものがある」
蓮田の声が受話器越しに黒川部長に向けられていた。翌朝八時。第三課のデスクで、わたしは鞄を下ろしたまま立ち尽くしていた。
蓮田が部長に直電をかけている。珍しい。根回しの男が正面突破を選んでいる。
「ダンジョン内の物的証拠確保です。嶋崎案件の免責判断に必要な現場再検証。費用は第三課の経費枠内。人員は宇津木、早乙女、有坂の三名。はい。はい。ありがとうございます」
受話器を置いた蓮田がこちらを見た。
「許可が出た。行け」
「蓮田さん、なぜ……」
「お前が昨夜のメールに書いた仮説。『ダンジョンに仕様がある』。馬鹿げてるが、お前のスキルが視たんなら、確認する価値がある」
蓮田はマグカップに湯を注ぎながら、背中越しに付け足した。
「それに、あの眼の奥の色が変わってきてる。気づいてるか? お前のスキル、成長してるんだよ」
成長。わたしは眼鏡を外し、レンズを蛍光灯にかざした。何も変わらない。ただのプラスチックレンズ。
度は右が〇・七、左が〇・五。視力の問題ではない。スキルは眼球を通して発動するが、眼球そのものの機能とは別だ。
「桐生に会った日から変わり始めてる」
蓮田の声が追いかけてくる。
「あの男の口頭言質に、四色以外の色を視たんだろう。あれがきっかけだと、俺は踏んでる」
——濁色。あの日視えた、見たことのない複合色。予告色。あの瞬間から、スキルが次の段階に手を伸ばし始めていた。
「気をつけろ。スキルの成長には、必ず反動がある」
「承知しています」
「承知してないから言ってるんだ。行け。十七時までに帰って来い」
*
九時五十分。新宿第七ダンジョン三十二層。二度目の到着。
昨日と同じ回廊。同じ苔の青白い光。同じ金属臭。
だが、今日の空気はわたしの肺に馴染む。昨日ほどの圧迫感がない。身体が覚えたのか。
早乙女が先頭。有坂が中間。わたしが最後尾。
「南通路、分岐点まで三十メートル」
早乙女が低く告げる。ショートソードは既に抜いている。苔の光が刀身に反射して、紫と青の混合色を壁に投げかけた。
分岐点に着いた。昨日と同じ場所。北と南。
「宇津木。壁に触って」
早乙女の指示は短い。
わたしは頷き、南通路の壁面に右手を伸ばした。指先が石に触れる。冷たい。
昨日と同じ温度。同じざらつき。
——だが、今日は違う。意識を集中する。眼鏡のレンズ越しの視界がゆっくりと変質していく。
色が退く。代わりに、輪郭が現れる。
壁の表面から、透明な文字列が浮かび上がった。
青写真のような色。淡い水色の線で書かれた文字と図形。
壁面だけではない。床にも。天井にも。通路全体に、びっしりと条件文が刻まれている。
「——視える」
声が自分のものだと、一瞬認識できなかった。
「何が見える」
「条件文です。——『南通路到達後五分以内に第三パネル通過の場合、左壁面第三パネルが崩落。衝撃値:A級相当。回避条件:北通路迂回、もしくは五分以上の滞留後に通過』」
文字列が視界の中で整列していく。プログラムのような構文。
条件分岐。入力と出力。トリガーと結果。
「……全部、書いてある。このダンジョンの罠の仕様が、全部」
早乙女がメモ帳を取り出した。ペンを構え、わたしの読み上げを待つ姿勢。
「続けて。全部読み上げて」
「第三パネルの崩落条件は先ほどの通りです。その先、南通路二十メートル地点。『侵入者の魔力反応がA級以上の場合、天井部第二ブロックから落石。ダメージ値:B級致死相当。回避条件:魔力遮蔽スキル発動、もしくは走り抜け三秒以内』」
わたしは壁面に手を当てたまま、目を動かしていった。文字列は途切れない。通路の奥まで、延々と続いている。
「嶋崎さんは、南通路に入って五分以内に第三パネルを通過した。だから壁が崩落して、左腕を粉砕した」
有坂が背後で小さな声を上げた。
「それって……罠にかかったんじゃなくて……」
「かけられた。誰かが嶋崎さんを南通路に誘導し、五分以内に第三パネルを通過するよう仕向けた。仕様書の条件を知っていれば、結果は確定する。計画的犯行です」
早乙女のペンが走っている。メモ帳の紙が裏表で埋まっていく。
「宇津木さん、それ……チートですよ」
有坂の声。畏怖と驚きの混合。
「チートじゃありません」
わたしは壁から手を離さないまま、答えた。
「査定です」
*
直後だった。
視界が、白く飛んだ。
文字列が消えたのではない。文字列が多すぎるのだ。通路全体の仕様が一度に流れ込んできて、処理が追いつかない。
網膜の裏側で閃光が弾ける。右のこめかみに、錐で刺すような痛みが走った。
「——っ」
膝が折れた。壁に体を預ける。手が滑り、肩から壁面にぶつかった。
石の角が鎖骨に食い込む痛み。それすら遠い。頭の中が白い。耳鳴り。高周波の、ガラスを引っ掻くような音が両耳の奥から湧き上がる。
「宇津木!」
早乙女の声。遠い。水の底で聞いているみたいだ。
「軟膏! 有坂、こめかみと首の後ろ!」
「は、はいっ!」
冷たいものが額に触れた。回復軟膏の粘度。べたつく薬草の匂いが鼻を突く。
ミントと、薬草の苦い香り。首の後ろにも塗られる。ひやりとした感覚が脊髄を通って頭蓋の内側に届く。
痛みが——少しだけ、引いた。
視界が戻る。白から灰色に。灰色から、苔の青白い光に。
早乙女の顔が目の前にある。紫光はもう消えている。ショートソードを鞘に戻し、両手でわたしの肩を掴んでいた。
「目、見えるか」
「……見えます。すみません」
「謝んな。立てるか」
「……少し、待ってください」
有坂がリュックから水筒を出し、わたしの手に握らせた。金属の冷たさ。蓋を開ける指先が震えている。
水を一口含む。口の中の銅の味が水で薄まっていく。
頭痛はまだ残っている。右のこめかみの奥で、脈拍に合わせて痛みが明滅する。
だが、視界は戻った。文字列はもう視えない。通常の、灰色の石壁だ。
「……反動、ですね」
「反動?」
「スキルの。処理量を超えた。書類を読むのと、ダンジョンの壁を読むのでは、情報量が桁違いです」
早乙女は何も言わなかった。わたしの肩から手を離し、代わりにわたしの右腕を自分の肩に回した。
「帰るぞ。有坂、反対側」
「はいっ」
二人に支えられて、わたしは立ち上がった。足元がふらつく。
百六十七センチの早乙女がわたしの右側、有坂が左側。百七十のわたしを支えるには有坂にとって少し辛い体勢だったが、しっかりと脇を抱えてくれていた。彼女の手の温度がダウンジャケット越しに伝わる。
南通路を、来た道と逆に歩く。苔の光。水の滴る音。足元の水溜りが靴底で跳ねる。
「宇津木」
「……はい」
「書類を読むスキルが、ダンジョンそのものを読めるようになった。それ、すごいことだよ」
早乙女の声に、珍しい色がある。感嘆でも恐怖でもない。信頼、に近いもの。
「ただし、代価は高い」
「……ええ。自覚してます」
エレベーターの扉が開いた。鋼鉄の箱の中に三人で入る。扉が閉まる。
上昇。気圧が変わる。鼓膜が、きん、と鳴った。
わたしは早乙女の肩にもたれたまま、目を閉じた。
瞼の裏に、まだ淡い水色の残像が揺れていた。条件文の断片。仕様書の一行。
——このダンジョンには、設計者がいる。
そして、その設計者の書いた仕様を、わたしは読める。
代価は——次に使ったとき、身体が何を差し出すのか。それは、まだ分からない。




