第14話「消された痕跡」
「痕跡が消されている……厄介だな」
芝山幸雄は新宿ダンジョン庁舎の食堂で、カレーのスプーンを止めた。十二時十四分。昼の喧騒の中で、芝山の声だけが低い。
わたしは午前中のダンジョン調査の結果を報告していた。早乙女の残響追跡の所見。人型対人型の戦闘痕。途中で上書き消去された痕跡。
芝山は一つ一つ頷きながら聞いていたが、最後の、痕跡が消されている、という報告でスプーンが止まった。
彼の目が一瞬安堵した。
安堵。
わたしはその一瞬を見逃さなかった。芝山は痕跡が消されていることを歓迎している。あるいは、予想していた。
「芝山さん」
「ん?」
「消されていたこと自体は、想定内でしたか」
芝山のスプーンがカレーの中に戻った。福神漬けが皿の端に寄せられている。
食堂のカレーは三百八十円。確かにまあまあの味だ。わたしのトレーにも同じカレーが載っている。
「……まあね。庁の監察チームも、同じ結論に達してたんだ。だから表からは突けない、って話になってた」
芝山のジャケットの襟元から、微かに煙草の残り香が漂う。セブンスターか、メビウスか。
昨日蓮田が言った通りだ。ジャケットに匂いを染み込ませたまま会議に出てくる男。
「ただ、宇津木さん。あんたのスキルで、別の角度から入れるなら、話は変わってくる」
「別の角度」
「書類の虚偽を証明できれば、保険金の免責を理由に嶋崎側を揺さぶれる。揺さぶれば、嶋崎が真実を語る可能性がある。それが庁にとっても一番ありがたい展開だ」
芝山の目が笑っている。フランクな笑みの裏に、計算がある。
公務員の計算だ。自分の手を汚さずに結果を得ようとする組織の論理。
蓮田の言葉を思い出す。『監察官ってのは、最後には組織の論理で動く。それだけ覚えとけ』。
「芝山さん、一つ確認させてください」
「どうぞ」
「もし、わたしたちの調査で、雷電クラン内部の組織的犯行が明らかになった場合。ダンジョン庁は、動いてくれますか」
芝山のスプーンが皿の縁を一度軽く叩いた。カチン、と金属音。
「動くよ。動ける状況を、あんたたちが作ってくれればね」
その答えは、イエスでありノーだった。条件付きの協力。保険を掛けた言い回し。
わたしはそれ以上は追及しなかった。今はまだ、この男を味方にしておくほうがいい。
*
十四時。新宿ダンジョン管理局付属病院。
嶋崎修の病室は、三階の個室だった。窓からは管理局の中庭が見える。
桜はもう散っていて、葉桜の緑が午後の日差しに光っていた。消毒液の匂いが廊下から病室の中まで滲んでいる。
嶋崎はベッドの上に体を起こしていた。三十四歳。短髪。首が太く、肩幅が広い。
左腕全体がギプスで固定されている。石膏の白さが蛍光灯の下で妙に目立った。
「査定官の方、ですか」
「はい。損害査定部の宇津木と申します。お見舞いも兼ねて、お話を伺いたく」
「ああ、どうぞ。座ってください」
嶋崎は穏やかだった。声に張りがある。A級探索者の体力は、骨折程度では落ちないのだろう。
ただ、目の下に薄い隈がある。痛みか、眠れていないのか。
「保険金の申請について、少しだけ確認させてください。申請書類は、嶋崎さんご自身が作成されましたか」
「いえ、クランの総務が全部やってくれました。俺はサインしただけです」
——黄色。
嶋崎の言葉の上に、主観の誤認を示す黄色が浮かぶ。「全部やってくれた」。嶋崎はそう信じている。だが実際には、全部ではないか、あるいは「やってくれた」の意味が嶋崎の認識と異なるか。
「書類の内容は、お読みになりましたか」
「目を通しました。怪我の経緯と、保険金額と」
「経緯に、間違いはありませんでしたか」
嶋崎が少し首を傾げた。ギプスの左腕を右手で軽く支え直す。
「間違い、ですか。いや、特には。三十二層で魔獣にやられた、って書いてありましたよね。実際、そう……だった、と思います」
——黄色。濃い黄色。
嶋崎自身も、完全には確信していない。「だったと思います」。この男は、何かがおかしいと薄々感じているが、言語化できていない。
「嶋崎さん。事故の瞬間、何が見えましたか」
嶋崎の目が一瞬虚空を見た。記憶を辿っている。
「……正直、はっきりしないんです。三十二層の南通路を歩いていて、急に、壁から何かが出てきた。それだけ。気がついたら左腕が折れてて、搬送されてた」
「壁から何かが出てきた」
「岩の塊みたいなもの、だったと思います。ゴーレムの一種じゃないか、ってクランの奴らは言ってましたけど」
嶋崎は右手で頭を掻いた。短い髪が指の間で擦れる音。
「でも……変なんですよ。俺、A級なんです。B級のゴーレム程度なら、回避はできたはずなのに。体が動かなかった。あの瞬間だけ、反応が遅れた」
わたしは頷いた。早乙女の分析と一致する。
奇襲されて反応が遅れた。しかし、A級の反射速度を上回る奇襲を、B級の魔獣が仕掛けられるだろうか。
できない。つまり、相手は魔獣ではない。
*
病院を出たのは十五時過ぎだった。
管理局の中庭を抜け、表通りに出る。新宿の雑踏の音が病院の静寂から一気に耳に戻ってくる。
車のクラクション。信号の電子音。ドンキホーテの呼び込みBGM。
歩きながら、スマートフォンが振動した。早乙女からのメッセージ。
『辰巳から連絡あり。至急折返し欲しいと。 早乙女』
辰巳耕司。岩礁クランの元代表。わたしたちの最初の案件の相手。
保険金を自主返還し、表向きは決着したはずの男。
わたしは立ち止まり、早乙女に電話をかけた。二コールで出る。
「早乙女です」
「辰巳さんから何と」
「あたしの個人携帯に直で来た。『撤退と降板は別物、と言ったろう。雷電が動いてる。お前らの周りで』。それだけ」
辰巳の言葉が電話越しに早乙女の声で再生される。あの男の声を知っているからか、脳内で辰巳の低い声に変換された。
「それだけ、ですか」
「それだけ。切れた。折り返しても出ない」
「警告、ですね」
「忠告のつもりかもね。あるいは、保険」
早乙女の声に、わずかな緊張がある。辰巳が動いたということは、雷電の動きが岩礁にも見える範囲に出てきたということだ。
「……気をつけて帰れ。今日はもう動くな」
「了解です」
電話を切った。新宿の夕方の喧騒が耳に戻る。四月の風が首筋を通り過ぎた。
*
夜。自宅。二十一時四十分。
ワンルームの机の上に、今日のメモと嶋崎の書類のコピーを広げた。デスクライトの丸い光の中で、文字が白く浮き上がる。
目を閉じる。
あの残像がまだ視えた。三十二層の壁面に透けて見えた、青写真のような構造。
文字ではない。条件と分岐。入力と出力。——「もし南通路を通過したなら、壁面が崩落する」。そういう類の仕組み。
ダンジョンに仕様書がある。
この発想は馬鹿げている。ダンジョンは自然発生した魔素の集合体だと教科書には書いてある。
設計者はいない。意志はない。
——だが、あの構造は。あの線と点の配列は。
わたしは目を開けた。時計の秒針が静かに刻んでいる。かちり、かちり。
もし、このダンジョンに設計者がいるなら。仕様を知っている人間がいるなら。
——嶋崎を「仕様通りに」傷つけることができる。壁の崩落タイミングを知っていれば、そこに誘導するだけでいい。
このダンジョンには、設計者がいる。
その確信が頭の中で静かに固まった。秒針の音だけが暗い部屋に残った。




