4ノ6 モウ一回ヤッテミル
医者はぼくに掛かっていた催眠術を解いてくれた。ぼくの脳はガチガチで、掛かった術を解くにはかなり難度が高かったらしい。
何が起きたのか?どんな人に会ったのか?と、いかにももてそうなイケメン医師は何度も聞いてきたけど、ぼくは何も答える気にはならなかった。何も話したくはなかった。
体が動くようになっても数日ほど病院に入院させられた。体の方もガチガチで、しっかり歩くことはできなかった。手さえうまく曲げられない。指に至っては2日くらい感覚が戻らなかった。胃も弱まり腸も活動していない。栄養はもっぱら点滴からだから、すぐに帰ることはできなかった。
母親はずっと看病をしてくれた。父親も一度やってきた。もう仕事もしていない親だ。久々に会ったんで、結婚はどうだ、だの?町の暮らしはどうだ?だの、他愛のない話ばかりをしてきた。親だけれど、どことなく遠い親戚のように感じられた。肝心な何が起きたのかという問題には何一つ触れようとしなかった。
5日後には元に戻った。病院から連絡がいったらしく、警官がやって来た。事情聴取でもされるんじゃないかと恐れていたが、無くしたものがないかだの事件性を聴いてきたけど荷物に無くなったものがなく、外傷がないのを確認するとすぐに帰っていった。
そして退院した。帰る場所は実家の二階だった。久々に帰って来た自分の部屋は住んでいた当時と何も変わっていない。本棚のマンガ本、机の上のCDラック、数年ぶりだが本当に何一つ変わっていない。いったいこの1年が何だったのか?1年だけでなく、2年3年4年5年‥、数えればきりがないほどの、意味を持たない月日が流れ過ぎてしまったようだ。
このままここにいるわけにはいかないのは分かっていた。でもいきなり出て行くには親にも悪い気がした。
数日はここで過ごそう。お風呂掃除くらいはしてやろう。買い物もしてやろうか。
病院で心配をしてくれていた親の気持ちが伝わっていた。すぐに去るのは気の毒だ。
思えば自分は親不幸な息子だ。ろくに連絡もしないし、プレゼントもしたことがない。ぼくは親を避けるように生きてきた。中学校の時代にいじめられっこだったぼくが、大人は何もしてくれないんだなと悲観してから、親や先生という存在を遠ざけてきた。でも今はぼくも大人になった。何の役にも立たない大人と変わらない。いじめられている子供を助けてやることなんてできない。結局、ぼくもダメな大人になった。親が親なら子は子。それでも育ててきてくれた親だ。今は感謝しよう。
そういえばあれからいろいろな事がどうなったのだろう?という現実がぼくを襲う。気になって携帯電話を見る。ずっと充電が切れたままになっていた。東京に行くとき持っていたバックとその中身は全て無事だったのだ。
電話に充電器を繋いで電源が入ると、家庭教師先の登校拒否子から携帯に電話が何度も入っているのがわかった。ぼくは慌てて電話を入れた。
「もしもし?」
「あ、はい」
出たのは、母親だった。
「いま、替わりますね」
「もしもし、先生?」
「ああ、ごめん。予想通り、しばらく行けなくなってしまった」
「‥‥」
少女は黙っている。
「ごめん。数日したら戻るから」
沈黙は続く。
「いろいろあったんだ」
「違うよ。先生、わたし、わかったの。きっと自分でどうにかしなくちゃいけないんだよね」
今度はぼくが「‥‥」
「わたし、来週から学校へ行く。だから先生は自分のしたい事をして」
ぼくは何も言えなかった。うれしいような、かなしいような、複雑な感情だ。娘の成長を思う父親のように。
「そうか。わかった。何かあったら電話しておいで」と、ぼくは少女に告げた。それしか言えなかった。そして話を変えて、それからしばらく、勉強のあれやこれや、がんばるんだぞ!って感じの話をした。そして電話を切った。
また一人の部屋に戻される。そうだ、ぼくにはやらなくてはならないことがある、って事が思い出される。
今度は、きみに電話をしよう。それがぼくの進む道だ。
※
きみがかれとの関係を持ったのはあの日一日だけだった。行為の後、きみは眠ってしまったから目が覚めたときには裸の自分の姿や自分の行動を思い、ひどく恥ずかしくなった。きみは名前も知らない出会ったばかりの男性とそんな行為に移れるとは思ってもいなかったし、自分は付き合いもしない相手には簡単に体を預けないという強い心を持っていると信じていた。たとえ相手がジャニーズみたいなかっこいい男であっても、だ。でもきみは簡単にかれに抱かれたし、思った以上にかれの行為に喜んでしまった。
きみはかれに言い訳がしたかった。そんな事は何の意味もないかもしれないけれど、こんな事をしたのは初めてだったし、この先もするつもりもないと自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
寝室にかれはおらず、どこかに行ってしまっていたので、きみはとにかく慌てて下着類を集めて、脱いだ服の全てを着た。そしてかれにどう言い訳をしようかと考えた。
でもその言い訳の必要はなかった。かれは寝室に入ってくるとにこりと笑った。きみは顔を赤くして、言葉を発しようとしたが、その前にかれの声が耳に入ってきた。
「わかっているよ。きみはそんな簡単な女性じゃないってことくらい」
言われた事にきみは安堵してうなずいた。それからかれが話を続けた。
「ただ、きみと目が合った瞬間、ふと吸い込まれていってしまった。ぼくときみとは互いに強く惹かれあった。一瞬でぼくらは運命的に引き寄せられ、一緒になった。それは一生にそう何度もある事じゃない。いや、普通は一度としてないことだ。ただ一度、ぼくときみの間にはあったのさ」
きざなセリフだったが、その時のきみにはその言葉が嘘偽りのない真実の言葉に聞こえた。だからきみはまた顔を赤くし、恥ずかしさは恋する乙女心に変わった。
そしてそれから数日間、きみはかれの住む山の中の家で過ごした。
誰もきみを探しには来なかったし、誰もきみがいなくなったことに気づかなかった。一ヶ月くらいならきみがどこで何をしていようと親でさえ気づかない。携帯の電池が切れていたが、きみに掛かってくる電話はどうせなかっただろう、ときみは思っている。実際にはきみを探す男が一人いた。でもきみはそんな人の存在なんてすっかり忘れてしまっているのだけれど。
きみはかれの本名だけを知った。かれは自分が「溝端」であると名乗らなかった。きみも聞かなかったし、なるべく聞かないようにした。気になることはきみの頭の中にたくさんあったけれど、何もしなくても安心できる環境が整っていて、かれの家にいるきみはその環境を壊したくなかったから何も聞かずに黙っていた。
ただ、かれがお金持ちで時間にも余裕のある人だということだけはわかった。かれは自分で買い物に出かけ、いろいろな食べ物や飲み物を買ってきた。それもコンビニ弁当とかじゃなくて、パーティーの時に頼むような食事を買ってきたり、どこかのお寿司屋さんの器に入った寿司だったりする。きみはいつも部屋で寝て、居間でテレビを見ているだけだった。一人でいた時と変わらないけれど、明らかにリッチでラクチンな生活だった。
でもそんな生活も長くは続かなかった。一週間くらい経った日にかれは言った。
「実はここにきみが居られなくなりそうなんだ」とかれは言った。
きみはショックだったけど、当然の事と受け止めた。
「理由は聞かないでほしい。きみとは長く一緒にいたかった。いやこれからもまた会える。ただここにいるわけにはいかない」
きみは、かれが結婚していて相手がここに来るんじゃないか、となんとなく考えた。心がぎゅっと切なくなったけれどそうだとしてもそれは仕方がないことだ、と考えた。それよりもむしろ、きっとひどく嫌な嫁でかれに嫌な思いをさせている女なんだろう、と勝手に妄想の嫁を悪に仕立て上げて怒りをこみ上げていた。
「ううん、いいよ」ときみは少し女の子っぽく言った。
別れは直ぐだった。
それからしばらく時間が経って緑の男がやってきた。緑色のセダンが緑の木々に囲まれた外のスペースに停車していた。きみはそいつに乗せられてかれに手を振って別れた。あっという間の出来事だった。
きみは帰路に向かった。でもその道は帰路ではなかった。
車が山道を出て、どこにでもありそうなのどかな郊外の風景を見せられながら走っていると突然狭い道に入り、どこかのアパートの前にある駐車場に、横付けに停まった。そしてきみはそこで下りように言われた。辺りは、最近田んぼを潰して家やアパートを造って振興している住宅地と思われる場所だった。
きみは言われるままに車を下りた。
「ここで暮らすんだ。すべての家財道具は揃っている。金も用意してある。近くに一通りの必要な物が買える商業施設がある。それで暮らせるだろう?」
きみはどうしていいか分からないが、どうにもできなかった。「あつし」は車から下りてきて、鍵を渡した。アパートの鍵のようだった。「あつし」は後部座席の荷物をアスファルトの上に下ろし、また運転席に乗り込むと、何も言わずに車を発進させ、去っていった。
きみは自分の状況を見つめ直した。考えてもどうにもならない。鍵にはアパートの名前の書かれた札がついていて、目の前にあるアパートと同じであることがわかった。Aと表記があり、それは平屋のアパートの4つあるドアの一番左にある表記と同じだった。
部屋の入口に行き、鍵穴に鍵を差し込んだ。鍵は回って部屋の中に入ることができた。真新しい部屋で、白く輝いて感じられた。2階が無いだけあって、天井は高く、入ってすぐのダイニングは8畳くらいの広さがあった。しかも家具も電化製品も揃っている。玄関を上がり、奥へ進むと部屋が2つあった。いわゆる2DKだ。ひとつはベッドが置いてある洋間の寝室だ。もう一方は畳の方の部屋で、ちゃぶ台の上に封筒がおいてあった。きみは気になって早速その中を覗いた。そこには100万以上はありそうな札束が入っていた。
どうなっているんだろう?と思ったが、どうにもならない。
ただきみはここでしばらく生きていそうなことだけは確かだと感じた。
幸せなのか、不幸せなのか、わからない。きみは何かに騙されている。
※
今、ぼくはきみの家にいる。全てが片付けられ、何もかもが無くなろうとしている。きみは死んでしまったかのように姿を消し、きみの残したもの全ては処理業者によって処分されようとしている。もっと早く気づいていたら、こうはならなかったのだろうか?もっと早くここに来ていれば、ぼくはきみに会うことができたのかもしれない。
病院から退院後、ぼくはしばらく実家で過ごした。何をするわけでもなく、ただ遅く起きては飯を食って、テレビの野球中継を見ながら夕食を取って、風呂に入って寝るだけの毎日だった。
きみには2度電話した。どちらも電源の入っていない状態だった。不審には思った。ぼくはいち早く行動するべきだったのだろう。だけど静になろうとして、あえてじっくりと行動としていた。焦らず行動することが必要な時だと考えた。むしろその反対だった。でも、どう頑張ってもぼくには間に合わなかったのかもしれない。
3度目の電話をきみにして電源の入っていない状態だった後、やっときみのアパートへ行くことを決意した。アパートには午前中に着いた。緑の男には会わなかったが、代わりにきみの部屋からは大きなベッドのマットを運び出す廃品処理業者が出てきた。
すでに処理業者はほとんどのものを運び終えていた。ぼくは何も言えずに、きみの部屋の光景を眺めていた。不審な存在であるぼくを、すれ違った処理業者の男がチラチラと見ていた。
「あの、この部屋の人は?」と、ぼくは尋ねてみた。
「いや、知らないけど、部屋の処理をお願いされてね。それだけだよ」
筋肉のある男はそう答えてくれた。それだけしか答えなかったというべきか。すれ違い、きみはいなくなった。ぼくは途方に暮れかけていた。何もかも間に合わなかった気がしていた。
階段の踊り場で、ぼくはずっときみの部屋から物が運び出される光景を眺めていた。するとやがて大家らしい人がやってきた。部屋の玄関の前で処理業者と最後の確認をしているようだった。
処理業者が去った後、部屋の中に大家は入っていった。何かの確認だろうか?ぼくはしばらく玄関の前で待った。やがて40代後半くらいの女の人がきみの部屋から出てきた。
「わ、びっくりした」と、待ち構えていたぼくにびっくりした。
「あの、この部屋の方は?」と、ぼくは尋ねてみた。
「え、何か?」
大家はぼくの存在を少し疑っているようだ。
「あ、ちょっと知り合いだったんですが、電話を掛けても出ないんで」
「そう、そうなの?知らないけど、引越ししたみたいですよ」と、女は答える。
「物を全部処分していたみたいですが」
「そう、そう。なんかいいから全部処分してくれって、電話があったらしいよ」
「彼女からですか?」
「なんか、男の人らしかったけど。あ、いえ、わたしもよく知らないんですけどね」
大家は余計な事を言ったと感じ、ごまかそうとした。
「引越し先は?」と、ぼくは思い切って尋ねてみた。
大家は首を振った。
「すみませんが、そういうのは答えられませんよ。プライバシーなんで。じゃあ、失礼しますね」と言って、女は去っていった。
まるでぼくがストーカーでもあるかのように女は疑いの目でこっちを見ながら、そそくさと去っていった。そう思われても仕方のない質問をしてしまった。それはそうだ。いや、実際ぼくのやっていることはストーカー行為と変わらない。そう思うと、何もかもやめたくなってきた。全てを忘れようか、と考える。
結局、振り出しに戻る。ぼくはまたあの町へ帰ることになった。
きみはどこへ行ってしまったのだろう?
からっぽのまま、ぼくはこの先、どう生きていけばいいのだろう?
どうしていいかわからないが、ぼくにはもうどうにも出来そうにない。
不覚。
※
天気予報では今日も蒸し暑い一日だと言っている。編集者であるスタイルのいい女はかれの家のリビングで、冷たいパインジュースを飲みながらのんびりと過ごしている。東京では蒸し暑い毎日が続いていたから森の中の家での生活は心地よい。サングラスを掛けて、まるでどこかのセレブ気取りでゆったりとした別荘生活を過ごしているみたいだ。
最初に会った時は、変な男だ、と感じていた小説家のかれに対してもすっかり好感しか抱かなくなっている。今はかれの家にいるのが居心地よくて仕方がない。
女は東京での仕事を終えて、いつになればここに来れるのか、ここに来ることも編集者としての仕事のはずなのに来れるのを楽しみにしている。最近は自分の恋人に会うのも面倒で、きっとカレとはどこか合わないところがあるんだろうと、すでに過去の男にしてしまおうとしている。
作家のかれの方は今、書斎で新作を考えている。ここ最近のかれはきみという女が家にいたから小説を書くことに集中できずにいた。それでもきみをアパートへと移動させた後に発売された新作の小説は上々の売れ行きだから、次の小説を書き上げるまでにはまだ余裕がある。再び生活は安定状態に戻っていた。これが自分の毎日の生活だと満足している。山の中の静かな場所で再びゆっくりと小説を書き始めている。今、かれは充実の時に達している。
日が暮れかけて一段落したところで書斎を出た。リビングには編集者の女が今もテレビを見て座っていた。
「何だ、まだいたのか?」と、わざと冷たく言い放つ。
「あ、すみません」と女は謝って『また冷たいモードか。悲しいな』と心の内で呟く。
かれはその編集者の女の事が好きではない。いつも自分は好かれていると思い込み、相手に好意を抱かせようと思う態度を自然としてくるタイプの女。
『だいたい女というのはすぐにいい男に寄る習性があり、オトコがいるのにそんな事も忘れ、自分が好きな方向に平気で向かってくる。そして前のオトコの悪いところばかりをいろいろ考え、結局仕方がないことだったんだと自分に言い聞かせ、よりいい男の所へ近づいてゆく』
かれの知る女の像とはそういう形で表されている。だからかれは女を心から信用していない。
『しいて言うなら、前の編集者の女がましだったな』と考えている。でもかれは自分がもてる立場のオトコになっているから、嫌いなタイプの女であってもどうでもいい。今は自分のいいように女を扱えるからそれでいいのだ。
「まあいい。今日はちょっと酒が飲みたい気分だ。街の中にいいすし屋がある。今日は一緒に付き合えるか?」と、かれは編集者の女を誘う。
「え、いいんですか?」と、意外な回答に女は喜ぶ。
「いいのか?」と、かれは尋ねる。
「わたしでよければ」
そして二人は森の中の別荘を出て、夕暮れの森の中を、街の中へとBMWX5を走らせ、下りてゆく。かれの脳中では今夜は帰るつもりもない。高級ホテルに泊まって朝まで過ごす。そう決まっている。
自信に満ち溢れたかれを止めるものはいない。かれの力は日に日に増強し続けている。
※
ぼくは再び、その町へ戻っていた。初夏の陽気を思わせる暑い一日だった。1年前にタイムスリップしたように高架の駅を降り、駅前のロータリーにあるベンチに腰掛けて休んでいた。
夏の夕暮れ時の中にいた。帰宅を急ぐ大勢の人々がいて、彼らは誰もぼくの身の回りに起きている出来事を知らない。ぼくだけが世の中とずれた時間を送っているかのようだ。この3週間のうちにぼくのお金は無くなってしまった。家賃や諸費用で費やし、もともと貯金もろくにないギリギリの生活だったのですっかり無くなってしまった。実家から出る時に母親から電車賃としてもらった5万円がぼくの生きてゆくための唯一の費用だ。それでもそれだけではもう来月の家賃も払えない。
家庭教師の仕事を無断で放棄していたぼくに腹を立てた担当者は、ぼくには合わず、電話だけをくれた。
「いや、仕事はありますよ。でも、無断で勝手にいなくなられてしまったら困るんですよね。いくつか紹介しますけど、1ヶ月数回程度のじゃないと、何かあったらこちらも対応できませんからねえ」
ぼくはそのいくつかの仕事の誘いを断った。半月後には一応最後の給与が振り込まれる。だから1ヶ月はなんとかなるかもしれない。それまでに次の仕事を探さなくてはならない。そうでなければ実家に帰るしかない。それが現実的な話だった。
でもぼくは仕事を探すことも、実家に帰ることも考えず、どちらでもなくただ迷っていた。
『ぼくはこの先、どうしたらいいのだろうか?』
「先生?」
顔を上げると、知っている顔があった。登校拒否子、いや今はただの女子中学生だ。彼女はいつものジャージ姿ではなく、女の子らしい服を着ていた。髪も切ったらしい。ぼさぼさに伸びていたいつもの髪の毛は艶やかに梳かされてまとまっていた。
わずか数週間で女の子とはこうも変わるものなのだろうか?
これは偶然の再会ではない。ぼくがその子に会う約束をした。
「やあ、どうだい。うまくやってる?」
「んん、まあその話は」
つまり立ち話もなんだってことだ。そしてぼくとその子は近くのファミレスに入って、ドリンクバーを頼んだ。それから話を始めた。
「まあ、正直、何も楽しくはない。毎日無視されているから、別にそれでも一人で机に向かって勉強してるだけだからいいんだけど」
「そうか。ごめんな。俺が急に行かなくなって」
「先生、それは前も言ったよ。自分でどうにかしないとって思って、わたしは自分でそうしたんだって」
そう言って、彼女は少し赤い顔をした。
「そうだよな。自分でどうにかしないと、どうにもならないものな」と、ぼくは少女の意見に賛同した。
「はああ、でも本当は憂鬱、毎日学校行くの楽しくないよ」
「そうだな。毎日ってそう楽しい事があるもんじゃないものな」
「世の中不公平だよね。毎日楽しいって顔してる子もいるのに、わたしは毎日つまらない」
その子の言うとおりかもしれない。ぼくも毎日負けっぱなし、この先も負け続ける毎日かもしれない。ぼくらは同じ穴のムジナで、いつまでも不公平の悪い方にいて、愚痴をこぼし続けるだけなのだ。
「でも、先生はやりたい事やるって決めたんでしょ?何するの?っては聞かないけど、あ、体、大丈夫?どうして倒れたの?」
彼女は一人で質問があっちへいったりこっちへいったりしているので、ぼくは答えにくかったが、「体は大丈夫だよ。もう平気さ」と答えた。
「そうか、それはそれは」
それから元登校拒否子は学校の話だの、テストの話だのをし始めた。いろいろと現実的な悩みは尽きることがなく、それでも行きたい学校へ行くための勉強をがんばっている。そんな未来に向かっている彼女の姿をぼくは応援した。
結局、ぼくと元登校拒否子は別の道を歩むこととなった。最初からわかりきっていたことだ。その時期が少し早くなっただけだ。
ぼくらは2時間以上、ドリンクバーだけでファミレスに居座り、その後その場を後にした。帰りは途中まで一緒の電車で、ぼくは少女の降りる一つ前の駅で降りた。
「じゃあね。先生」
電車の中で手を振る少女が去って、ぼくはまた一人きりの時間に戻された。少し寂しかった。それでもこのままこの生活を続けてはいけない気がした。
涼しい風が吹いていた。夏の熱気を冷やす心地よい風だった。
振り出しに戻ったようで、実はすでにゴールが近いような気がした。今はこの町の情報をたくさん知っている。そしてまた新しい道に歩む必要があると感じている。ここまで来ていてまだやるべきこと、出来ることがいくつか残されているような気がした。いろいろな道は行き止まりだったけど、残された可能性のある道はある。それをせずにあきらめて、ただ何気ない毎日を送ってしまってはいけないような気がしていた。今は一年前とは何かが違って感じられる。
『何気ない毎日の平和は、事の終わりに始まるよ』
光の男はぼくの背中の方でそう言っていた。ぼくはきみを救うことをあきらめていない。その結論の先にだけ、ぼくときみの平和な毎日の暮らしが待っている。
※
新しいきみの部屋には一通りの物が揃っていた。フライパンに、キッチンホイル、ゴミ袋、洗顔剤、歯ブラシ、化粧品、部屋のにおい消し、等等、きみが必要と思う以上の物がそこには用意されていた。
近くのスーパーに自転車で行って食料も一通り揃えたから、何もしなくても一週間は十分に過ごすことが出来る状態になった。
本棚には「溝端」の作品が一通り並んでいた。どうしてわたしが「溝端」好きと知っているんだろう?ときみは悩んだが、よく考えればあつしと出会ったのが溝端コミュであるのだから、あつしが揃えた物だと結論づければ納得のいく答えだった。
その本棚にはまだきみの知らない作品が一つだけあった。「溝端」が書いた新作だ。全てが新品のハードカバーで揃えてあったけど、きみはその中にある新刊にすぐ気づいた。手に取り開いてみたが不思議とその本を読む気にはなれなかった。最初に出てくる登場人物の女性のキャラクターがきみに嫌な印象を与えた。その主人公がきみの読み進めようとする気持ちを阻害させた。なぜなのかはわからないが、それは読めない気がした。
それだけではない。今まできみがあれほど楽しみにしていた「溝端」の全ての本を、きみは読む気になれなかった。これはほんとにおもしろかったんだよな、と思い手に取ってはみるものの、なぜか嫌な気分にさせられる。
どうしてなのか少し考えて思う。
『今までバカにしていた出来の悪い主人公。とんでもなく出来の悪い奴で、やな奴で、主人公を見下しながら読んでいたけど、今は自分の方がよっぽどダメね』
だからそれらの本を読むことで自分が傷つく気がして嫌になったのだろう。
『今まで何がそんなに楽しかったんだろう?』と、自分で自分という人間がわからなくなるくらい、溝端作品を読むのが嫌になっていた。そこにある全ての本を捨てたいくらいだった。
だけどきみは何もしなかった。結局、数週間前までの東京暮らしとほとんど変わりのない毎日に戻っていた。『何もする気がしない』ときみは思う。さらに言えば、寂しい気持ちが心の内から沸いてくる。男に抱かれたきみはその温もりを思い出す。大きくしっかりした体をきみは思う。
『かれはまたわたしの場所へやってくるのかな?』
きみは望むけど、かれがきみの居所へとやってくる日は来なかった。
きみはずっと一人で過ごしていた。町が静かなだけに、余計なストレスが東京にいた頃ほど掛からない。それはきみを少しだけ気楽にさせてくれていたけれど、後はほとんど何も変わらない。少しだけ、かれを考えて、少しだけ、これからどうするか考えて、少しだけ、好きな芸能人を考えて、後は全てを忘れて眠っている。
「もう何も考えたくない」と、きみは寝言のようにつぶやいて眠ろうとする。
眠りの森の美女はいつになれば目覚められることだろう。あの木から、きみがきみであるための力を取り戻すまでは、きみはきみを失ったまま眠り続けるんだろう。
まだきみは眠っている。
※
アスファルトの山道の脇に大きな車を停めて、舗装されていない土の道を一人歩いてゆく。かれの心は苛立っていた。スタイルのいい編集者の女は一度抱いてからやたらとベタベタしてくるし、山奥の家を嗅ぎつけた別の出版社の奴らが新作を書いてくれないかとおねだりに来る。のんびりと小説を書いて暮らす生活を好んでいたかれにとっては面倒な出来事があまりに多く起きすぎた。自分の持った力からすれば全ての相手を言いくるめるのは簡単なのだが、それはそれでかれにとっては面倒以外の何事でもなかった。自分の空間が侵されていることに苛立つ。
訪れたのは、いつもの枯れた木のある場所だ。その場にやってきたのは久しぶりだった。山の中だけあって少しの期間訪れないと景色はすっかり変わってしまう。特に夏ごろは突然草木や虫の巣が現れて、本来の方向を見失わせる。それでも10年間通い続けた道をかれが忘れてしまうことはなく、草木をかき分け、いつもの場所にたどり着いた。
葉のない白木がお出迎えしてくれている。一面緑が青々と生い茂っている中、一つだけぽつりと枯れた白い木が現れる。枯れ木にしては幹がしっかりしていて、瑞々しく艶やかな肌を露にしている。枝は四方八方に伸び、とても枯れているようには見えない。
かれはその生き生きとした枯れ木に触れられる場所まで近づいた。『今日はどんなふうにしてやろうか?』と考える。そして四方八方に伸びる枝を一本一本物色する。かれの気分は高揚している。『今日はとことんやってやろうか、何しろ久々だからな』と欲望を燃え滾らせる。そしてかれは太い枝に手を伸ばした。触れようとしたところで、手がそれを封じた。
男の手がかれの手首のあたりを掴んでいた。
ぼくの掌が、かれの手首を掴んでいた。
かれは、驚いてはいなかった。むしろにこやかに笑みを浮かべていた。だからぼくは強くかれを睨んだ。
「そうはさせない。少なくとも、それはさせない。彼女をぼくが守る」
かれはにやりとした顔に歯を見せ、よりいっそうニヤニヤして見せた。
「できないよ。おまえみたいな、程度の低い人間には不可能だ」
そんなかれの言葉に負けじと睨み返し、掌に力を込め、かれの手首を握った。一瞬かれの腕を木から遠ざけることができた。ぼくは少し自信のある視線を送った。
かれは動じていなかった。むしろその瞳を見たぼくは胸騒ぎのような心揺らぐ印象を受けた。形勢は一瞬にして逆転した。ぼくの手から力が抜けてゆくのを感じた。かれはぼくに手首を掴まれているなどお構いなしに、枯れた木の枝を力いっぱい握り締めた。そしてそれを折れやすい下方向にしならせた。ぼくのかれの手首を握る手は一瞬にして解けそうになって、そうはなるかと慌ててかれの着るシャツの袖を掴んだ。でもそれが精一杯だった。かれはぼくの手を気にせず枝を上下に揺すった。ぼくの手はかれの揺するままに上下へ動かされる。
ぼくはたまらず、かれの背後に回り、かれを羽交い絞めにした。でもそれは無意味だった。かれはぼくをからっぽのリュックサック程度にしか感じておらず、ひたすら枯れた木の枝の方を意識して、それが折れるまで揺すり続ける。
「やめろ」
ぼくは声を振り絞ってそう言ったが、かれには何も聞こえていない。枝はみしみし言い出し、少しずつ折れ目から力を失い出していく。
「やめろ」
ぼくは何度もそう言って、必死でくい下がった。
「やめろ」
でも枝はどんどん力を無くしてゆく。ぼくの体は力が入らず、かれを枯れた木から遠ざけることができない。存在しているのかいないのかも、わからないくらいの小さな存在のようになっている。
かれにはその程度、ぼくはこんなに必死なのに、こんなにきみを救おうと必死なのに、全ての力を出して、全ての想いを込めて、全てを掛けているのに、何の役にも立たない。何の役にも立たない。きみは折れた。引きちぎられた跡が痛々しく見えた。折り切られた枝をかれはあさっての方向へと投げ捨てた。
そしてかれはぼくの身体を背負い投げのようにして投げ飛ばした。
やわらかい土の上に倒れ込む。はあはあ、息は切れている。とても声を出せる状態ではない。立ち上がる気力もない。それでもぼくは立ち上がろうとして両手を前に付き、ひざまずく体勢を取る。立とうとするが立てなかった。かれの片足の裏がぼくの頭の上を押さえつけていたからだ。
「君がいくら努力しても無駄なのさ。わかったか?おまえは何の役にも立たないんだよ」
冷たい声が頭上で響く。
頭を押さえつける重みは消え、顔を上げると、かれはすでに葉の生い茂る木々の向こうへと去っていっていた。
振り向く必要さえ、かれにはなかった。
「彼女をどこにやった!?」
途切れ途切れの息をしている男が最後にそう言うのが、かれの耳に届いた。
『いい加減、邪魔くさい奴だ。今度会ったら、殺してやろうか』と、かれは心の中で思った。でも声は出さなかった。もうそれ以上、何かを言う相手ではない。その程度の相手だ。
山から出て、BMWX5に乗り込み、車をUターンさせて家に戻った。家の前のスペースには知らない車が停まっていた。かれはその車の隣に自分の車を付け、玄関に向かった。女が立っていた。長い髪の女、前の編集者だった女だった。
「やあ、久しぶりだね。どうしたんだ」と、かれは長い髪の女に尋ねた。
「ごめんなさい。嫌だったら帰りますね」と女は言った。
『この女もまた面倒くさい』とかれは思った。だけど出てきた言葉は「いやなわけ、ないだろう。さあ、中へ入ろうか」だった。
かれは長い髪の女を受け入れた。全ては順調だ。面倒事が増えてきている。かれの人を引き付ける力は完全に戻っていた。いや、以前にも増して強くなっているのかもしれない。
ぼくはまるで敵わない。
ただ泣いて、泣き喚いて、悔やんで、押し潰されそうな感情を発散することしかできずにいる。
それでもぼくはきみを救いたい。
※
わたしは止まっていたけれど、どこかに歩いていきたいな、と心臓は疼いている。
きみは新しいアパートの一室に置き去りにされた。川の淀みに吸い込まれた落ち葉のように、ただアパートの中をうろうろするだけ。家の外に出ることもできない。
先週は荷物が届いた。きみが東京の自室に置き去りにした手帳だの何だの大切なものがダンボールに詰め込まれて入っていた。でも入っていたのは事務的に大切なものばかりで、きみが思い出として大切にしていた写真だのなんだのは何一つ届かなかった。パソコンの中にはいろいろなデータが入っていたのだけれど、パソコンは届かなかった。寝室の窓際にある机の上には真新しいデスクトップがあるから必要ないといえば必要ない。でも古いパソコンに詰め込まれていたものはいろいろな思い出、それらのデータはもう戻らないのだ。
いろいろな事務手続きは勝手にされていた。だからダンボールの中には前の家の電気料金やガス、水道、電話等等、いろいろなものが全て解約となっていることを告げるものが含まれていた。
思い出は頭の中の記憶と、持ち出してきた充電されていない携帯電話の中にあるもの、くらいだ。
きみは動き回ることも、考えることも嫌になって止め、ベッドの上に横になった。真新しい部屋の匂いと、住み続けた2週間程度で付いた自分の匂いだけが香る。長く住み続けた東京の家よりはホコリ臭くないし、ゴミも出しているから悪臭はない。前よりはずっとましな暮らしだ。
鳥かごの中の鳥のように狭苦しい空間できみは生きている。家の扉を開ければどこにでも出れるのだけれど、きみはためらい続けている。毎日朝と夜が逆転していて、夜はきみに涙を流させる。うるさい鳥のように夜になるときみは泣き出す。そして朝方には疲れて眠ってしまう。きみはどこにも行けない。行き方を知らないし、どこに行けばいいのか、どこかに行ったところで何が変わるのか、全くいい答えを持っていない。小さな鳥かごのようなアパートの中で泣いていた方が幸せだ、とさえ思う。ご主人様が来るのを待って、ただ毎日を過ごしていればそれで安心だ。
でもきみの家を訪れる人は一人もいない。新聞の勧誘とかそんなのが訪れるくらい。きみが会いたい、きみのための人は誰もやってこない。
夜中になって、目が覚めた。また泣きたかったけど、泣き飽きてしまって、泣くことも面倒くさかった。だからと言って眠るには寝すぎていて、頭が痛く重かった。
実家の家族を思い出してみた。携帯電話は止まったままだから、きっと家族は心配しているに違いない。いつも1ヶ月は連絡取らないけれど、電波の通じない状態が1ヶ月も続けば、異常を察知しているかもしれない。それはここ数週間たびたび思い返していたことだけど、そろそろ切羽詰った状態になりつつあると、きみは心の中で強く思う。
体を起こす。お腹が空いているわけではないけれど、エネルギーがなく体の動きが鈍いことを感じる。何かを食べようと冷蔵庫へ向かうものの、そこには何もない。からっぽだ。きみは思い立って、コンビニへ向かう。人を動かすもの、それはせいぜい生理的現象、きみはまず何よりも食を満たしたい、と感じる。
時間はわからないけれど人通りのない静けさから、今が遅い時間であることだけは目に映る。自転車に乗って近くのコンビニへ向かう。
パンとかジュースとかを適当に買い集め、お金を払って、外に出る。買ったところで、きみはすでに満足していた。食べ物はある。またしばらく生きていける。無人島じゃないのだから当たり前だけれど、ふとそんな安心した心地に包まれる。するときみの目には、コンビニの駐車場の自転車を置いた横にある公衆電話が入ってきた。さっきまで全くあることにさえ気づかなかったものに気づけるようになる。『そういうものもあったか』買い物袋を自転車のかごに入れ、公衆電話に向かう。
受話器を取って、100円玉を入れて、ボタンを押す。その電話番号だけは覚えている。8回コールがなって、そろそろ切るかと思ったときに、電話の相手は出た。
「もしもし」
「もしもし、わたし」
きみはきみの母親にそう告げる。母親はきみの名を確認し、「どうしたの?」と尋ねる。
その『どうしたの?』は、『こんな夜中に、どうしたの?』なのか『何か用なの、どうしたの?』なのか『最近電話も掛からないし、何かあったの?どうしたの?』なのか、『本当に心配していたの。どうしたの?大丈夫?』なのか、判断のつかない言葉だった。
「今ね、、、、」
きみは今いる場所と、今の暮らしについて語った。それはこの数週間できみが知ったことだった。でももちろん、あつしの事やかれの話はしなかった。引越しをして新しい生活をしていると言った。仕事もしていると嘘をついた。具体的な事は何一つ語らず、ただ心配することは何もないんだと告げた。
「落ち着いたら一度帰るから」と言って、きみは締めくくった。
母親はあれやこれやと気に掛けて話しかけてくるけど、「ううん、それは大丈夫だから」とばかり答えた。話しているうちにだんだん、小うるさい母親だな、と思ってきた。その苛立ちは少しだけ懐かしい気がして、きみの心を元気にさせた。
「じゃあね」
電話を切った。きみの母親はきっと心配していた。それもわかったし、この電話で少しは母親を安心させることができたはずだ、という安心を持つこともできた。思ったより大きくなっていた不安が除去された。
でも家に帰ると、何も解決していないことに気づく。また川の淀みに戻る。また鳥かごの鳥になっている。買ってきたジャムパンを食べながら、考えても働かない脳を考えさせて、これからどうしたものか、と思い悩む。
『そういえば』ときみは思い出す。きみは、同窓会と言って電話を掛けてきた学生時代の男の子の事を思い出していた。一つの不安が消えて、忘れていた事が思い出された。人の意識は移ろいで行く。何も変わらないようで少しずつ状況は変わろうとしている。
きみにはまだ力があって、きみをわずかずつ前へと歩ませてくれている。
ぼくには確かな力があってぼくは出来る可能性を探っている。
かれには人の2倍の力があってかれはどこまでも突き進んで行くけれど、かれは大切なことを忘れているだろう。
小さな力の人間でも、その人はわずかずつ前へと歩んでいこうとしているんだよ。
かれはその力をあなどっているのだろう。
きみはゆっくりと進んでいる。わずかな出口に向かって。
だからぼくはきみの声に気づき、きみを救い上げるだろう。
かれに理解できないぼくときみとの間の中できみとぼくは少しずつ近づいている。




