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何気ないまいにちをあなたに伝う  作者: こころも りょうち
ぼくとかれときみの関係
19/22

4ノ5 会イニ行キマス

 悩みは頭の中にあるけれど、悩もうと悩むまいといつもの職場にいる。ぼ(・)く(・)の職場は登校拒否中学生の住む古い民家の二階。いつもと同じ毎日、ぼくはずっとここにいるかのようだ。

 不満を言えばきりがない。お金はない。カノジョはいない。そんなの当たり前のいつもが続いている。でもぼくは平穏に毎日を生きてゆくことができる。誰に命を狙われているわけでもない。誰もぼくを殺しには来ない。

 石ころみたいな顔をした登校拒否中学生の女の子が教科書に向かって一生懸命悩んでいる。ぼくはいくつかのアドバイスをして、問題の答えに到るのを待っている。彼女が理解すればそれは喜びだ。

「ああああああ、そうかあああ」という、理解へ到る瞬間、ぼくも心から『よっしゃー』と思えるくらい喜ばしい。

 いつも問題があって、ひとつの答えがある。その繰り返しを一つ一つ読み解いてゆく。彼女にはやる気もあるから教えた甲斐もある。ぼくはこの生活を十分に充実させて送っている。

 窓の外は梅雨の雨がしとりしとりと降り続く。昭和な造りの木造建築家屋の二階からそんな雨を見るのも、どことなく情趣(じょうしゅ)があって悪くはない。蛍光灯を照らして、暗い昼空の中で勉強を続ける。いつもまでも繰り返し、繰り返し、同じ毎日は続いているかのようだ。

「だめだ、だめだ、これじゃあ、受かんないよ」と、登校拒否中学生は嘆いていた。

 少女には目標がある。一流の高校に受かること、それが彼女の目標だ。今はそのためのステップ。彼女は決して今を楽しんでいるわけじゃない。目標としている未来があり、そのために今、勉強している。今は実りある日に到るまでの一日にしか過ぎない。

 平穏な日々はぼくに大切なことを忘れさせてしまう。き(・)み(・)の不幸、きみの悲しみ、ぼくはぼくに出来る可能な限りのことをしなくちゃいけないのに今に甘んじる。ぼくは笑えない。

 少女の嘆きが『このままじゃいけないよ』って言っている。夢物語でも、超現実主義であってもならない。現実の中にある夢のような可能性を詮索する。それは、ぼくがきみを救い、そして人の精気(せいき)を奪う悪魔を退治するということ。ぼくに出来ること。小さな力で出来る限りのことをしないと先へは進めない。日々の生活の一歩先。

「よし、それは、こうやれば解けるさ」

 ぼくは少女に教える。そしていずれ辿り着けるはずの未来へと突き進んでゆく。いつまでも何もしないわけにはいかないだろう。

 ぼくはきみに会いに行く。


 ※


 何もしなくてもなんとなく毎日は過ぎてゆくもので、似たような毎日を繰り返せば今日も明日も同じような場所で同じような事を繰り返しているだけだ。

 それは悪いことではなく幸せなことなのかもしれない。世の中にはただ普通に暮らしたいだけなのにただ普通に暮らすこともできない人もいるのだから、それに比べたら何もないような当たり前で平和な日々が続くことは、ずっと幸せな生活なのだろう。

 でも人とは身勝手なもので、同じ毎日を繰り返すと退屈を感じ変化を求めたくなる。平穏な生活が出来る毎日があるとそれよりも良い生活がしたくなってくる。どこにも変化のない毎日が続くと人はどこかに変化を求め出す。

 ぼくは長い殻を突き破った。おさまりの付かないような苛立ちがぼくの中に増していて、きみに会いにここまでやってきた。人々のざわめきが聞こえ、駅の発車ベルが鳴り響き、お土産を売る店員の声が届いてきて、コツコツと地面を叩く足音が冷たく辺りを包んでいた。ここは東京。

 夕方過ぎだったから駅は人で溢れ返っていた。本当は土日に来る予定だったけど、なぜだか土日は行く気にならず、一日中家でうだうだと過ごしてしまった。月曜はイライラしていただけで、火曜日の今日になってついに落ち着かずに、仕事終りにそのままやって来てしまった。

「俺はもう行くね。明日は休むかもしれない。ひょっとしたらしばらく来れないかもしれない」

 東京に来る前、ぼくは登校拒否中学生にそう告げた。少女は「どうして?」と、ぼくに尋ねた。尋ねたこと、答えたこと、いくつかあったろう。その子に納得してもらいたい、と思っていたから。

「それでいい?」と、ぼくは最後に少女にそう尋ねた。

「うん、わかった。じゃあ、仕方ないから一人でがんばるよ」と言って、登校拒否少女はぼくを送り出した。

 いろいろな出来事から長い時間が経っていた。もう取り返しの付かないところまで来ているかもしれない。あきらめるのが一番良かったのだろう。でも、それをあきらめて何のために生きるのか。今したいと思える事をしないで何もしない平和な毎日を過ごすのは、きっととても悲しいことにちがいない。ぼくにはただ生きるだけの毎日を送ることができなかった。時間は経ってしまったけど、したい事はしっかりしておこう。時間は経ったけど、今なら出来る。そしてここまでやってきたのだ。

 複雑な思いを胸に、きみの住むアパートのある駅までやってきた。場所はきみの母親に聞いていた。ハガキを送ると嘘をつき、きみの住む住所を聞き出した。そしてきみの住む場所までの行き方を調べた。駅から商店街を抜けてしばらく歩いた。

 少し迷ったが地図でメモしたきみの住むアパートの近くまでやってきた。ぼくはもうすぐきみに会える。きっとその、、、はずだった。

 でもぼくが会ったのは、緑の男だった。緑色の服と長い茶髪の姿が目立つ男は鋭い目をしてぼくの目の前に立っていた。忘れることもなくその男を覚えていた。

「どうしておまえが俺に会うのか、おまえは理解できるか?」

 緑の男はいつものように唐突に話しかけてきた。理解はできていなかった。ただとても嫌な感じだけを受け、非常にまずい状況になっていると、こめかみを冷や汗が伝った。これは良くない兆候にちがいない。ここへ来るには周到な準備が必要だったのかもしれない。たとえばこれがアドベンチャーゲームのようなものなら、確実にゲームオーバーになるパターンだ。でもこれはゲームじゃない。

 ぼくの目に映るのは、ぼくの現実だ。

「驚いていいのか悪いのか、わからないけれどきっとこうなることになっていたのかもね」

 ぼくは意外と冷静だった。

「おまえの行動には驚くよ」

 緑の男はそう言って、笑顔を作った。決して楽しい笑顔ではなかった。

「ぼくはあなたが何者かは知らない。ただ、ぼくはぼくなりにやりたいことをやらないといけないと思っただけ。あなたはぼくをそのとおりにさせてくれるだろうか?」

 緑の男に尋ねると、男は首を横にゆっくりと揺すった。彼の目はいつもより眼力の強い目だった。じっとその目を見ていると、その瞳から自分の目が逸らせられなくなっていた。

「不思議なものだろう?人の脳とはよくわからないものだろう?人の力とはよくわからないものだろう?俺はだいぶ研究したつもりだったがまだよくわからないことがたくさんある。たとえばおまえがここに来た理由、俺はまだそれが理解できていない。それは悪いことじゃない。むしろ楽しいことだ。また一つ調べてみたい事が増えた。おまえは俺を楽しませてくれるのか?」

 ぼくには男の声が聞こえていた。でもまるで何を言っているのか理解できなかった。そして緑の男のシルエットが近づいてきて、近づくにつれて意識は遠のいていった。

 目は瞑らされていた。それでも脳は今でも緑の男が首を横に揺すり、ぼくの方をじっと見つめているように感じていた。体は心地よく、だらんとしてきた。こんな事が過去にもあったような気がする。

 緑の男の肩に担がれているようだった。男はぼくを運んでいた。意識のないぼくをどこか遠いところに連れ去ろうとしていた。どうしようもなく、わずかな意識の中で運ばれていることを感じている。何もかもどうでもよく、気持ちよく感じられてゆく。

 きみが遠のいてゆく。ぼくは全てを奪われてゆく。ぼくはきみに、二度と会うことができないのだろうか?


 まったく何も置かれていない白い部屋の中で白い天井を見上げていた。そこには電器すら付いていなかった。手足は動かなかった。体は大の字になっていた。手も足も何に縛られているわけでもない。それでも体は動かない。今、ぼくの体はぼくの体であってもぼくの体ではなくなってしまったような、わけのわからない状態になってしまっている。

 窓があり、外から明かりが入ってくる。今はきっと朝、もしくは午前中だ。昨日起きた出来事を覚えている。きみに会うためにきみの家までやってきた。そして緑の男に道を塞(ふさ)がれた。男が目の前で首を振り、ぼくは意識を失った。だから今、緑の男に連れてこられた場所にいるのだろう。ここはきっとそういう場所だ。どこかに緑の男がいて、ぼくをどうにかしようとしているにちがいない。

 体は動かない。目が覚めているのなら、寝てしまった方がよっぽどましだ。目を瞑り、再び深い眠りがやってくるのを望んだ。いずれ何かが変わるのを望んだ。でも何も起きなかった。変化のない時間だけが続いた。体は動かない。体の疲れも、尿意を催すことさえもない。体は楽だ。ただ眠れずに脳の覚醒が続いているという状態は恐怖があった。

 ぼくはそれから丸一日その恐怖を味わうこととなった。


 ※


 きみには良い知らせが届いていた。「溝端」の新作が出版されることが決まったという知らせだった。久々に入り込んだネットの世界で、きみはそれを知った。やる気のない毎日は続いているけれど、会社に行かなくなり始めた頃よりは少し何かしようという気力が出てきていた。全般的には脳がスカスカしている感じで、ボケっとしていて、現実を感じるのが薄い状態だけれど、体はだいぶ楽になっている。2ヶ月以上の長い休息は、10年間働いてきたきみの体の疲れを癒していた。

 溝端コミュでは皆がはしゃいでいた。新作がどんな物語になるのか、話し合っている。ある人はいつものダメ主人公ものだと言い、ある人は全く違うキャラクターが登場するのではないかと言っていた。

 それは一つのお祭りのような状態になっていた。そんな中、きみは一人のアバターに目がいった。あつしである。同じハンドルネームであるだけかもしれない。きみはそう考え、どうしていいかわからずにアバターをじっと停止させていた。

 話しかけてきたのはあつしの方からだった。

「こんばんは。今度、きみを素敵なところに招待したいけど、いかがだろう?」

 そんなメッセージが直接送られてきた。きみは何も答える気にならず、その場から消え去った。

 きみは思い返していた。今みたいな生活を送るようになったのはあつしに会ってからだ。

『わたしの生きている無駄なエネルギーを誰かの力に変えてやりたい』と思った日、きみは今のような生活を始めるようになっていた。

『わたしは本当に誰かに力を与えてしまったんだね』

 きみは思い返した結果、その結論に至った。

『いったい誰のためにきみが生きているか、その相手を教えてやろう。きみはその人のために生きている。その真実を知れば、きみは十分満足できるはずさ』

 心の声とリンクしてそのメッセージはきみのSNSへ入っていた。

『誰?』と、きみは聞き返していた。

『じゃあ、今度、その人いる場所へ連れて行ってやるよ』とメッセージはすぐに返ってきた。きみは『お願いします』とすんなり返信していた。誘われるように何の躊躇(ちゅうちょ)もなくそこへ突き進む自分がいた。


 ぼくは何もない暗闇の部屋にいる。暗闇に目が慣れてきていて、部屋の外の街灯で周辺が見えるようになっていた。

 これから何が起ころうと言うんだろう?ぼくは来るところまで来てしまったような気がしていた。これから何かが始まろうとしている、そんな前兆を感じていた。

 静かで暗い中、恐怖を感じる反面で、何か起こるワクワクした期待感を抱いていた。


 ※


 何もなく、何もないまま、イライラは募るばかりだ。イライラするだけならいい。ぼくはこのまま体が動かないまま、何もない部屋の中で死んでしまうのかもれない。

 今日、昨日、一昨日、数日が過ぎていて、ぼくはもういつ死んでもおかしくない。ぼくが思うよりぼくは死に近づいている。ぼくが死んで、全てが終わる。

 いや、このまま死ぬわけにはいかない。やっと心は生きる喜びを感じ始めたのに、肉体がここで朽ち果てるわけにはいかない。

「うわあああああ!、うわあああああ!」

 ぼくは声を張り上げて叫んだ。残りある全ての力を尽くして叫んだ。今、出来ることはそれしかなかった。叫び続け、叫びに叫んだ。どれだけ叫んだか、どこまで叫んだか、声は叫び切ったのか、とにかく叫び尽くした。

 ぼくの体は動かないまま、衰退してゆく。声は枯れ、意識は朦朧(もうろう)としてくる。次に眠りが訪れれば、そこにやってくるのは、死かもしれない。

 眠りが近づいていた。眠ってしまいそうになっては、まだ眠ってはいけないと目を見開く。それを何度も続けたが、もはや限界は近づいている。そんな時、ドアを開ける音が響いた。幻聴かと思うくらいの微かな音は何度か聞えていたが、その瞬間の音は現実感のある確かな音だった。

 あいつがやってきたのだろうか?とぼくは始めに思った。でも知らない声がした。緑の男ではない。

「あの、すみません。」

 やはり知らない男の声だった。ぼくは朦朧としているが、目は見えている。ワイシャツを着た30代くらいの男が見下ろしている。

「あの、ここで寝られると困るんですよね」

 男はぼくの状況も何も関係なく、自分の利(り)を押し付けてきた。何も話す気になれなかった。ため息を付きたかったが、ため息さえ出てこなかった。喉は枯れているし、頭は痛いし、感覚のある部分はクタクタだ。もはや喋る気もない。殺すなら殺してくれ、と言いたい。

 それでも背広の男はぼくを起こそうとして、頭の後ろに手をやり起き上げようとする。もちろんぼくの体は動かない。

「あのお、起きてくださいよ。警察呼びますよ」

 男は困ったという声でそう投げかけてくる。この男の態度は極めて気分が悪いが、このままでは埒(らち)があかないので、ぼくは何とか声を絞り出す。

「体が動かない」

 ガラガラの声が発せられる。

 男はその声に諦めたのか、ぼくの頭を床に下ろし、「参ったなあ、もう」と言って、電話を掛け始める。

「あ、もしもし、すみません。XX不動産のXXというものですが、うちの物件に知らない人が寝てまして‥」

 その声で、今どういう状況にあるか初めて理解する。その不動産屋の男が救急車を呼んでいるのも理解した。その瞬間、ぼくの気持ちは安堵に到った。急な眠りが訪れた。

 もう二度と起きられないかもしれない。それでも眠りたかった。眠れないまま死んでしまうなら眠って死にたい。そう思うくらい酷く眠かった。そして眠りに就いた。もう二度と目を覚ますことのない最後の眠りかとさえ覚悟した。


 でも、ぼくは目を覚ました。そこは病院だった。どれだけの時間が経ったかわからないが、何もない部屋で眠ってしまった記憶はあるし、病院にいることもすぐにわかった。看護師のおばさんが腕をマッサージしてくれていた。看護師のおばさんはぼくの目が開いたのに気づくと、「あら、目覚めました?すぐに先生呼んできますね」と言って部屋の外に出て行ってしまった。

 部屋に最初に入ってきたのは、自分の母親だった。しばらく会っていない間に、やけに年を取ったみたいだ。皺も増えたし、白髪も増えていた。それでも目の前に自分の母親がいるのを感じ、楽な気持ちになった。ここ何年かのうちで最も現実観のある時間だ。この安堵に休みたい。今は少し休みたいとぼくは願う。


 ※


 緑の花柄パンツに黄色い水玉シャツを着るとセンスが悪い。さらに浅黄色となった色あせたチューリップ帽がよりいっそう見た目の悪さを増している。あべこべな格好だが、きみはきみなりにおしゃれをしたつもりだ。生乾きの下着類と衣替えをせずに押入れにしまいっぱなしになっていた洋服を、大きな革のバッグに詰め込んで、そいつを担いで家を出た。

 空は晴れ渡り、春はすっかり終り、夏になっていた。実はまだ梅雨の合間だけど、天気予報も見る気にならずにいるきみだから、そんな事には気づいていない。アパートの玄関の外には背の高い男が立っていた。

「行こうか」と男は言った。

 茶髪の髪型に緑色のTシャツに、緑色のズボン、靴も緑色の男だ。きみはその男をあつしという名前で知っている。ここでは彼を緑の男と呼ぶ。きみは緑の男に付いてゆく。アパートの外には緑色のセダンが路駐してある。男はその車の運転席に乗り込み、きみは助手席に乗り込んだ。きみはどこかに連れて行かれようとしている。

 首都高に乗って、それを抜けて、東名を進んでゆく。どこまで行くのかきみは知らない。地理には詳しくないからどこだかはあまり気にしていない。ただなんとなく、そっちの方へ行くんだな、ときみは感じている。

 サービスエリアも寄らずに、2~3時間は走った。やがてどこかのインターチェンジを下り、一般道を走っていた。きみは目を瞑り、うつらうつらと眠っていたためここがどこだかよくわかっていない。

 緑のセダンはバイパスを走り、辺りは田園風景に変わる。30分、1時間、どれだけの時間が過ぎたことか。やがて車は山道を上り始めた。右へ左へくねくねとした道を上ることさらに20~30分、車は木々に囲まれた砂利道の私道へ入り、少し広い駐車のスペースに止まった。

 森の中だ。避暑地とでもいう感じの場所だ。目の前には別荘というような木造の家がある。少し離れた木々の向こうには鉄筋コンクリートの建物が見える。

「どうぞ」

 緑の男はそう言って、エンジンを停めた。車から降りるように促している。きみはとても疲れた体を起こし、荷物を降ろして車の外に出た。空気のいい場所だった。遠くで、ホーホケキョと鳴く鳥の声がした。

 緑の男は車に乗ったまま降りては来なかった。きみは運転席の方に回り込み、座ったままの緑の男を見つめた。

「あのお」と窺う。

「俺はここまでさ。後はきみが行くんだ。目の前にある家に入ればいい。玄関は開いている。呼び鈴を押す必要はない。きみが来ることは知っている。中に入って、通路を抜けて、ソファーのあるリビングまで行く。誰もいなければソファーに座って待っていればいい。それまでだ」

 緑の男はそう説明した。そしてサイドレバーを解くと、車をバックし出した。突然動き出した車に驚き、きみは離れた。緑の男は鋭い目で少し微笑むとそのまま車を前進させて公道へ出て行ってしまった。

 取り残されたきみはどうしようもなく、言われたとおり、丸太の家に向かった。そして玄関から中に入った。緑の男が言うように玄関の先には通路があったので、きみは靴を脱いでそのまま奥へと進んだ。そして右に折れた場所にダイニングというか、リビングというか、広い部屋があって確かにソファーがあった。そこには誰もいなかった。だからきみは緑の男の言うとおり、そこにある2人用のソファーに腰を下ろした。

 大きな荷物を肩から下ろし、チューリップハットを取った。

 きみの心臓はバクバク言っていた。でももうどうしようもなく、目を瞑り、深呼吸をして、次の瞬間を待っていた。長い旅の終りだ。どこかの旅館に着いたかのように落ち着こうとしている。今はまだ何も起きない。


 寝室から出てきたかれは、ソファーに座るきみを見つめていた。若くはないし、美人ではない。ブスでもないが、これといって好める部分には欠ける。胸も大きくなさそうだし、服のセンスは悪い。どことなく子供を二人くらい生んだ主婦のようだ。と、かれはきみを見つめている。

 自信に満ち溢れたかれの目はきみを捕らえて離さない。きみはかれの目を見つめ返す。かれの円らな瞳にきみは吸い込まれてゆく。かれはきみを見つめながら、きみの座るソファーまで近づいて隣に座った。まだわずかに二人の間には距離がある。

「ようこそ」と、かれは言った。

「はじめまして」

 きみはそんな決まり文句の挨拶をして自分の名を名乗った。でもきみはまだかれが何者なのかを知らない。「溝端」であることはまだ知らない。そしてかれは自分を名乗ろうとはしなかった。何も言わず、きみの肩に触れた。きみはピクリと反応したが、逃げようとしなかった。まだ何をされてもいないからと焦らないようにしていた。

 次の瞬間、かれはきみを抱き寄せた。いきなりきみはかれの胸の中にうずもれていた。きみにとっては久しぶりの男の感触だった。いい匂いがした。そのまま抱かれているのに嫌な気はしなかった。むしろずっと求めている自分があった。

「いろいろときみのおかげだよ」と、かれは言った。

 それはただのお世辞のようなものだった。事実そうであっても、かれは心からそう思っていたわけじゃない。でもきみはその言葉で十分満たされた気になっていた。


 数日前だった。小説を書き上げ、出版が決まってからのかれは退屈をしていた。身なりのいい編集者の女はかれを好みつつあったが、かれはその女がどうしても好きにはなれなかった。抱くのも面倒くさいという気持ちからその女を遠ざけていた。女だけでなく、今ひとつ楽しみという楽しみが思いつかない毎日を送っていた。

 どこかへ出かけても一人じゃつまらない。長く付き合った前の編集者の女に会いたかったが今はまだ会えそうになかった。かれは退屈をしていた。そんな所へ、緑の男がやってきた。

「おまえに例の女を会わせてみたいと思ったが、どうだ?」と、男はかれに尋ねた。

「おもしろい。いいねえ」と、かれは答えた。

 そして、きみはかれの住む別荘へと連れてこられた。かれにとっては残念ながら、きみはつまらない女だった。

 かれは感じていた。『これが力を失った人間というものか』と。

 でもきみはかれにとって面倒じゃない存在だった。きみは抱かれても逃げなかった。かれもまたしばらく女を抱いていなかったので、きみ相手でもいいと体が反応していた。

「こっちへおいで」

 かれは立ち上がるときみを寝室へと誘った。

 きみはかれの誘いに恐る恐る従っていた。小鳥のさえずりがする静かな森の中の別荘にある一室で抱かれた。体の一つ一つに触れられるたびにきみはより自由になっていった。

 かれにとって、きみはただのおもちゃでしかない。暇つぶしのつまらないおもちゃだ。きみはかれの暇つぶしの道具となり、全てを与えてしまった。

 ぼくがその事実を知れば惨めでしかないだろう。何も知りたくはない。何も知らないまま、ずっとこのままでいた方が幸せなのかもしれない。

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