4ノ3 身動キガ取レナイ
ゴールデンウィークの期間中はずっとあの木のある場所まで出かけた。4月29日、30日、5月1日、2日、3日、4日、5日、時間の違いこそあれ、神々しく輝く枯れた木の下を毎日訪れた。しかしぼくの努力は実を結ぶことはなく、かれが姿を見せることはなかった。
数日空けた。5月8日、今日を最後としようと考える。その先はわからないが、この繰り返しに価値がないのでは、と思い始めていた。
午前11時、ぼくはいつもの場所に着いた。そこは大きな木の根が盛り上がっている場所で、腰掛けるのにちょうどよい。しかも枯れた木がいくつかの木々に隠れながらもしっかりと観察できる位置にある。そしてしばらくその場で何もせず、ただ枯れた木を眺めていた。
今日もまた無駄に時間が流れる。でも何も考えないようにして時を待っていた。
その時は唐突に訪れた。涼しそうな白いシャツを着た男が枯れた木の根元に現れた。その男は木を下から上へと見上げ、その大きな幹に手を触れていた。ぼくはすぐにその男がぼくから力を奪った男であると気づいた。
かれは人の気配を感じ取ったのか、ふとぼくの方を振り向いた。でもかれはぼくに驚きもせずにむしろニヤリとした笑み見返しててきた。
「いつか君に会えると思っていたよ」
かれはぼくが何者であるかすでに気づいていた。そしてぼくより先に話しかけてきた。
ぼくは何も言えずにいた。
かれはぼくを無視するように、また枯れた木の方へと体を向けた。
ぼくはかれが木に触れようとするのが許せなかった。かれは人の力を奪ってゆく。
「やめろ!」と叫んだ。でもその声は叫び声とは言えないほど小さな弱々しい声で、かれにまでも届かなかった。
かれの手はしばらく枯れた木の幹を優しく愛撫していた。あちこちに伸びた枝の一本を掴むとそいつを強く握り締め、力いっぱいに枝を折り取った。
かれは折り取った枝を手にしたまま、ぼくの方を振り向いてゆっくりと近づいてきた。瞳は美しく輝いていた。着ている白いシャツも、黒いズボンも、神々しい光を放っているかのように見えた。かれの体はオーラに包まれているようだった。
ぼくは思わずその姿に見とれてしまった。体全体から発するエネルギーがかれを大きく見せていた。でも騙されてはいけない。それは人から奪った偽物のエネルギーなのだ。
「君は俺について、どこまで知っているんだ?」
かれはぼくの数メートル近くまで寄ってきて尋ねてきた。ぼくにはかれが始めて会う人のように感じられた。10年前に会った時より歳を重ねたせいかもしれないが、それ以上にかれはまるで別人のような力が溢れているように見えた。
ぼくはその圧倒的なパワーに押され、強くは言えずに「あなたについては、よくは知りません」と、たどたどしく答えた。
かれは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに自信に満ち溢れた表情に戻り、話し始めた。
「俺はねえ、ちょっとした名の売れた作家になってねえ、5年前からいくつかの小説を出している。でもここ半年はスランプだったんだ。何も書けずにいた。近頃やっと書けるように戻ってきたがね。なぜだと思う?」
枯れた木の事や、ぼく自身から奪い取っていた力の話を、ぼくの口から言わせようとしているのだろう。ぼくはその望みに応えてやる。
「ええ、あなたが奪い続けた力、ぼくはそれに気づきましたよ。あなたに出会わなければ、ぼくはこの10年間をもっとまとも生きてゆけたでしょうね。そしてあなたが再び力を奪い始めたことも」
「君が本当にこの10年をうまく生きられたか、そいつは疑問だね」かれはすぐ様に応答する。「君は奪われて良かったんじゃないのか?」
ぼくの内からは忘れていた怒りのようなものが湧き上がってくる。かれのオーラに押されていたぼくだけど、ぼくは奪われて良かったことなんて何一つないんだ。
「少なくても、ぼくの人生をあなたに左右されたくはなかった!」
ぼくの声はずっと興奮していた。弱々しい声を打ち砕いて、声を荒げていた。
かれは言う。「そうだな。人に左右される人生はまっぴらだな。でもな、人は人に左右されて生きてゆくもんなんだよ。人は人に左右されながら、安全の傘を得て、生きてゆく。きみにとっては俺の傘の下にいた方が安全だったろうよ」
激しくムカムカしてきた。なぜぼくがこの男の下に生きてゆかねばならないのだろう?なぜ誰かがこの男の下となり、生きたい人生を歩むこともできずに生きてゆかねばならないのだろう?そう感じるとぼくの中の怒りは頭の線をぶった切った。
「きみのような低知能な人間は俺の下にいれば良かったのさ」
その言葉に怒りは沸騰した。
そしてぼくはかれに向っていた。怒り溢れ、かれの首を絞めるか、腕を引きちぎるかしてやりたかった。そんな力があるかはわからないが怒りはそこまで沸き上がっていた。
「君は俺を殺すのかい?怒りに溢れ、そして殺して、君の人生の全てを失うつもりなんだね」
かれはそう言う。
ぼくは怖気づいた、というより、諭された感じになった。ぼくの足は止まった。
「そうだよ。君は何もできないだろう?君はその程度の人間なんだ」
我に返ったぼくの目の前に、かれの顔があった。そして輝く瞳で言う。
「俺は君を殺さない。そして君を平穏に生かし続けることができる」
全てを諭されているかのようだった。それが真実のように思えてきた。
『目を瞑るんだ。かれの目を見つめてはいけない。君は君なりに冷静であれるだろう?』ふと心の声がした。光の男の声だった。ずっと消えていたぼくの想像上の存在はぼくのピンチにやってきた。『惑わされてはいけない』
ぼくは目を閉じた。そして脳の奥にある深い気持ちに迫った。そこに意識を集中させ、そこにある言葉を探った。
「あなたが奪い続ける別の人の力を、このまま奪い続けることをぼくは許さない」
その声は自然とぼくの口から出てきた。
ふとした沈黙が訪れた。沈黙の中、かれの声がした。
「そうか。なら好きにするがいいさ」
そして肩をポンと叩かれた気がした。
かれはゆっくりと去っていこうとしていた。ぼくにはまだそうさせるわけにはいかなかった。
「待て!あなたは誰から力を吸い取ろうとしているんだ!?」
ぼくは目を開けて、かれの方を見た。かれはこっちを振り向いていた。
「そうだな。いつか君に会わせてあげよう。俺はこの近くにいる。いつでも君は会いに来れるだろう。そしていずれ、君は君の会おうとしている人に会えるだろう」
かれはそう告げると、また山の外へと歩み出した。光の先の出口へと去っていった。
ぼくはかれを追うこともできただろう。だけど追わなかった。興奮しすぎた感情はぼくに追う足を持たせてはくれなかった。すでにKO負け寸前のボクサーのように足は動かなかった。何かが恐くて仕方がなかった。立っているだけが精一杯になっていた。
※
ゴールデンウィーク明けで、ぼくのテンションの低さが際立つ。
いつもの古い建物の2階、登校拒否女子中学生に勉強を教える。しかし最近は少女のやる気も増し、少女への要求は減った。勉強しろと言わなくても勉強するし、教科書を読んでやらなくても自分で読む。ぼくは少女からの問いかけを待つだけだ。
しかし、このままでいいのだろうか?
「先生、ここは?」少女は英語の文法について聞いてくる。あれ、何だったろう?と戸惑う。
かれという男に会って以来、ぼくの脳はあの神々しい木の世界から離れられていない。静かな世界で光り輝くものが身悶えている。かれは大声で笑い、オーラを放つ。ぼくは圧倒され、金縛りにあったように身動きが取れない。今もそんな世界に留まっているかのようだ。
「どうしたの?先生?どこか調子悪い?」
少女はぼくを気にかける。
「ん、いや、大丈夫だよ。前より問題が難しくなったんでね。少し考えさせられるんだよね」
そう言うと少女も笑顔になった。そして参考書を見直し、問題を解いた。少女はまた問題を一つ一つ解いてゆく。
ぼくは黙っている。するとかれの笑い声が聞こえてくる。あの輝きの前に何ができるだろうか?どうしてもぼくの力は劣る。再びかれに会ったとしても同じように手玉に取られてしまうだろう。かれはエネルギーを吸い取っている相手に会わせてやると言っていたが、本当だろうか?どうやろうとしてもいいようにやられてしまう気がする。
かれに会う事に否定的な考えばかりが浮かび全てのやる気を失われてゆく。永遠に敵うことのない相手と感じ、諦めが植え付けさせられてしまったみたいだ。
「やっぱし先生、元気ないですねえ。どうかなされましたか?」なんて、少女は珍しくとても丁寧な表現でぼくに尋ねる。
「いや、何でもないよ」と誤魔化して笑顔を見せる。
「失恋でもしたんですか?」
やれやれ。女の子というのは、そういう発想しかないのだろうか?と思う。
「そんなんじゃないよ」
そう否定しても、戦いに負けたような気持ちは消えない。
それでもこの無意味な負けイメージを振り払わなくてはならない。負けを認めていても仕方がないのは確かだ。少女は受かりそうにもない高校に受かるために一生懸命勉強している。ぼくも見習わないといけない。
「しかし、だいぶ覚えたな。本当にこんなに出来るようになるとは、きみもたいしたものだね」と、ぼくは少女に言う。
「ふむ、そうですか?」少女はぼくの顔を見る。「やっぱり変な先生。まあいいか」
そしてまた問題文に目を向ける。
ぼくは心のままに生きよう。惑わされても仕方ない。ぼくはまだ、始まったばかりだ。
※
今では本家となったかれの別荘に新しい編集者の女がやってきた。綺麗な身なりで、細身の体と柔らかい顔の作りは、誰からも好かれそうな女性に見える。
その身なりいい女がかれの家を訪れるのは本日が初めてだ。何度か電話やメールでやり取りはしたのだが、会うのは初めてなので女は緊張していた。玄関のチャイムを押して数分後、かれは現れた。先に電話で連絡を入れていたから女が来るのは承知していたはずだ。静かな態度でかれは姿を現した。
「あ、初めまして、編集者の…」
「まあいいさ。中に入りな」
かれは女の長々としそうな礼儀正しい挨拶が面倒だったので、すぐに中に入るように促した。
かれは女をソファーに座らせ、対面のソファーに座った。身なりのいい女はかれの対面で程よい笑顔を浮かべている。それは誰から見ても否定しようのない素敵な容姿だった。
「俺はあんたのような人は好かないね」かれは話の始めに女を罵り始めた。「あんたのような自分が好かれると思っている女は嫌いなんだよね。綺麗な笑みを浮かべているのが一層気に入らない」
身なりのいい女は笑顔を消し真顔になった。そして今、自分が言われている事について考えてみた。
目の前にいる小説家の男は突然自分を罵り始めた。彼女は自分の態度に悪い点がないのはわかっていた。だからといって男の機嫌が悪いだけだと考えるには、やけにゆとりのある表情をしてみえた。どんな表情をするのか試されているのかもしれないが、男の態度はあまりにも失礼極まりない。
だから女は答えを絞った。目の前にいるのはただの異常な性格を持った人間だ、という答えに。そして女は落胆した。せっかく初めて人気作家の担当編集者になれたのに、よりによってこんな変な人間だったとは。
かれは綺麗な顔立ちの女の表情を一通り窺ってから話を続けた。
「君にはまず、人を見る目がない。まともな人間か異常な人間かの二択でしか人を判断できない。そして自分ばかりが常識人で、正しくて可愛らしいと思っている。だから異常な態度を取る相手、それから見た目が悪い相手、頭の悪い相手を見ると、すぐに拒否反応を示すようになる。そして、出会った相手が悪かった、と相手のせいにする。君は今、カレシがいるだろうが、そのカレシにもそうやって拒否反応を起こすようになるだろう。それでもいずれは結婚もするだろう。お金のある男と結婚して、やがてお金だけを愛するようになる。そして君はそれが世の中の当然であると考え、男なんてみんなろくでもないに決まっている、と開き直るだろう。でもそれは君の考えであって、世の中の当然ではない。問題はいつも君の中にある。その事をよく覚えておくんだね」
女はかれに対して、当然のごとく拒否反応を示したが、編集者の立場として冷静を装った。
「難しくて、よくわかりません。それにわたし、今はカレがおりませんよ」と言ってみせた。それは嘘だったが、とても面倒だったのでそう言ってみた。この面倒事は後でカレに愚痴をこぼして慰めてもらおう、と考えていた。
「まあいい。好きにするがいいさ」
「それで、ですね」と、女は言って、そそくさと仕事と話をして、終らせて帰ろうと考えた。
だがしかし、その女の子が正しい。かれは異常な男だ。
人のエネルギーを奪う異常な男。




