4ノ2 本ガ好キ
まだ春の来ない森に木洩れ日が降り注ぐ。光は冷たい空気を暖め、小鳥は地表に落ちた陽だまりの上をチュンチュン鳴いて跳ね回っていた。
3月上旬、そんな森の中の別荘に、全身緑色の服を身にまとった男がやってきた。丸太で出来た別荘の玄関に鍵は掛かっておらず、緑の男が戸を押すと、その戸はいとも簡単に内側へと開いていった。中は薄暗く、ひんやりとした冷たい空気が巡っていた。
「溝端」という名の作家である男は居間のソファに毛布で包まり眠っていた。緑の男は動かずに眠り続けるかれの眠る頭元までやってきて、しゃがみ込んだ。そして緑の男はかれの耳元に囁いた。
「おまえは失ったまま、長い人生を生きてゆくのか?」
かれの耳にそれは夢の中で話す誰かの声のように聞こえていた。かれはその誰かに対して「わからない」と答えた。
緑の男はかれの耳元から口を遠ざけ、立ち上がって少し離れた。そして今度は普通の喋り声でかれに語りかけた。
「この世にはまだまだ多くの人間がいる。得る者も、奪われる者も、得るのは容易い」
その声は夢じゃないと感じ、かれは目を開いた。ぼやけた視界の向こうに全身緑色の服を着た男が立っていた。体を起こし、ソファに座る態勢を取った。
「人はたくさんいるんだ。力を得るのは誰でも出来るし、誰からでも奪うことができる。俺はそんな人間を誰だって自由に選べる」
緑の男は、今度はそういう口調で語りかけた。
「なら、どうして、ここへ来た?」と質問する。
男は大きな口をにやりと開き、フフッと小さな声で笑う。その質問には答えようとはしない。
「俺は失ったわけじゃない。元に戻っただけだ。バランスを戻せばまた戻る」
かれは自分がもう緑の男の力を必要としていないと告げたつもりだった。それはその幾語かの単語で十分に伝わったものと考えていた。
「人と人とは、どんぐりの背比べ。人々はその差が大きいと感じているみたいだが、事実は人と人の差はほとんどない。ある分野の得意不得意に関しては大きな差があったとしても、人と人との上下関係は微々たるものでしかない。もし、一人の人間が二人分の力を持てたら、その人間は飛び抜けて人の上に立つ力を持ったこととなる。その力は、10人、20人、いや100人も200人をも扱える大きな力になるだろう。たった二人分の力がそれだけの人間を従わせる力になるんだ」
かれはその意味を重々理解している。
「確かに俺は、得た力で、人の上に立ち、様々な人間が俺に従ってきた。出版社も、編集者も、ファンも、俺の思うままに言う事を聞いてきた。中には俺の得た力を得たくなって、俺を虜にして扱おうとする女さえいた。でも俺の力に比べればそれはホントに愚かな弱い力だった。俺はそんな愚かな人間を相手にしながら毎日を過ごしていた。酷く面倒な事ばかりさ」
「それは、おまえが、その面倒事から身を引きたいと言いたいのか?」
かれは男の茶色い目をじっと見つめた。緑の男はにやりと微笑んだ。
「今、おまえが望めば、俺は新しいエネルギーの基を持ってきてやるよ」
かれは溜息をついた。
「また奪い合うのか?」
「そのエネルギーの基は、おまえを好きな女だ」
かれは編集者であった自分の元彼女を思いドキッとした。
「その女はおまえの知らない女だ。おまえというより、もともとはおまえの本を好んでいた。今はおまえの事も好いているだろう」
かれは笑った。
「ははは、俺のファンって訳か」
「おまえが本を書けば、その女も喜ぶだろうよ。ただの循環だ。ただ奪うだけじゃない。エネルギーはサイクルする」
かれはサイクルするエネルギーを考えた。よくわからないものがクルクル回る。それについてじっくり考える。
答えは出てこなかった。時間は長い間過ぎた。緑の男もかれが答えを出すのをじっと待っていた。とても長い時間が過ぎて、かれは緑の男に尋ねた。
「なぜ、俺にこだわる?」
「おまえがそこにいるからさ」と男は答えた。
選ばれた役者はその言葉と一度得た甘い汁に吸い寄せられた。
「わかった。乗ろう」
最悪の出来事は、弄ばれることでも、服従させれられることでもない。気力を失って、ただ醜く生かされるだけになるということだ。きみはその最悪の事態に遇っている。最悪の思惑の下でただ吸い取られてゆこうとしている。
※
きみは今日も眠る。冷たい雨降りの朝は寝心地が良い。会社へ行くのを辞めて3週間が過ぎた。日々はただ過ぎ去ってゆく。
夜は苦手で、朝が好きだ。きみは朝に眠る。深く、長く、いつまでもいつまでも。昨日も朝から昼まで眠り続けて、暗くなってから目が覚めた。目が覚めてもきみは目を開けたまま、ベッドの上で2時間以上動きもせずにただ黙っていた。
3週間くらい前に初めてベッドの上で黙って2時間くらい居たとき、人ってこんなに何もせずに居られるんだという無意味な関心を抱いた。
しかし、その黙った状態も今では当り前になった。きみはお腹が3回鳴ったときに体を起こす。どんなにやる気がなくても食べようという食欲はあるらしい、ときみは毎日思う。
パジャマとして使っているジャージを着たまま、化粧はもちろん、髪も整えないままに24H営業のスーパーに出てゆく。そして半額弁当を購入し、帰ってきてそれをムシャムシャ食べる。
ゴミは玄関の側に溜まっている。ほんの少しだけやる気のあった日に、45ℓの袋にゴミをまとめ入れたが、それまでは部屋の中に食べ終えた弁当箱が散乱していた。ペットボトルは今も片付けられておらず、あちらこちらにオブジェのように立てかけられている。
食事を終えたきみは久々にシャワーを浴びた。3日ぶりか4日ぶりだった。でもただシャワーを浴びるだけ、浴槽に寝転んで、上から落ちてくる温水をかぶっていた。体も髪も洗わない。お腹が見えて、そこが前より贅肉でぷっくら膨れていることがわかった。でも今のきみには、だから何なの?と、それさえも興味がなくなっていた。
頭が働かない状態はきみの中でずっと続く。お風呂から出たきみは洗ってないタオルで体を拭くと、また同じジャージを着て、髪も乾かさずにいつものゴミのない絨毯の上のスペースに丸くなる。
そして手の届くところにあるスイッチでテレビを付ける。テレビを見ているわけじゃない。ただ移り変わる光を見ていたいだけだ。部屋の明かりは付いていない。暗闇の中、テレビのチカチカした光だけが狭い部屋を照らしていた。
怒りもなく、悲しみもない。明るさもなく、欲するものもない。養豚所のブタのように、ただ喰われる日を待っているかのようだ。でもきみが喰われる日が来ることはないのだが。
きみのアパートのすぐ側に、緑の男が住み始めた。すでに部屋には盗撮カメラと盗聴マイクが仕込まれていて、部屋は逐一監視されている。かれの栄養分であるきみに死なれては困るから緑の男はいつも見張っている。
生かさず、殺さず、きみは養分を吸い取られながら存在している。
ただ存在するだけだ。後の全てはかれが奪ってしまってから、きみは在るだけになってしまった。
また同じ朝が始まる。曇り空でも届く太陽の明かりはきみを眠らせ続けていた。
※
かれも若かりし頃は、まだ夢追う青年だった。毎日小説を書き、書きあがった作品を出版社に投稿した。しかし返ってくる応えはいつもなかった。
派遣労働を繰り返していたかれが、今の別荘がある町に越してきたのは11年前だった。かれはこの町を知っていた。亡くなった祖父が住んでいた町だったからだ。
今までの生活を変え、新しい生活の中で、新しい小説を書くことを望んでこの町にやってきた。
小さなアパートを借り、生活を始めた。仕事は相変わらず派遣労働だった。町には大手企業の工場がいくつかあったから、下請け会社も含めて派遣程度なら仕事に就くことができた。
かれは派遣労働をしながら、空いている時間さえあれば空想に耽っていた。
その空想は純愛ばかりだった。お決まりのようにいい男が出てきて、いい女が出てきて、二人の間を邪魔するものがいた。それは空想というより妄想のようなものだった。そしてその空想を小説にしていった。
でもある日、筆はピタリと止まってしまった。どれだけ書いても自分自身の小説に成長していかないと強く確信してしまったのだ。
その日かれは尊敬する有名作家の小説を久しぶりに読んでいた。それは非の打ち所のない素晴らしい小説だった。おもしろくて一気に読み終えた。それから自分の書いている小説に取りかかろうとしたとき、あまりに成長のない自分の小説を見て強烈な痛みを感じ取った。どうしようもない痛烈な心の痛みだった。
その痛みから逃れようともがき苦しみ、かれは荒れ狂って、尊敬していた作家の小説を破り捨てた。それから本棚に並んでいたありとあらゆる好きな小説を破り捨てた。心からの尊敬は心からの嫉妬に変わっていた。
『俺にはできない。そして僅かにも近づけない』その思いは強烈に増し、かれの心を濁した。そして自分は作家となる要素を何一つ持たないのだと強く確信した。それは絶望に等しかった。
『俺は一生このまま叶わない夢を追い続けなければいけないのか?』もしその思いが理解に変わり、別の人生へと歩み直すことができれば、それはきっとかれにとって小説家を目指したことを良き思い出として、次の人生へと歩み出すことができただろう。しかしかれはそういう結論に達しなかった。
『もし得ることができるのなら、どんな手を使ってでも得たい。どうせ死ぬのなら、どんな悪行を使ってでも、力が欲しい』
心の中には生きるか死ぬか、その極論の選択しか残っていなかった。
町の中を彷徨っていたかれは、緑の服装をした背の高い男に出会った。男はかれに「欲しいのか?」と尋ねた。クスリかなんかだと考えた。どうせ死ぬのならそれに染まるのも構わない、と考えて頷いた。
でも緑色の服を着た男はかれに何も渡さなかった。
「もしおまえが欲しいのなら、取引をしよう」と、男は言った。
それは決してしてはいけない取引だった。
そしてかれは緑の男と契約した。かれは決して得られることのないだろうと思っていた力を得ることができた。
その力はぼくから奪い取ったものだ。あれから時は10年と8ヶ月が過ぎた。
またかれは同じ事を繰り返した。決してしてはいけない契約をまたした。自分に絶望したかれは、死を選ぶか悪魔になるかどちらかしか選べなかった。そして再び悪魔になる方を選択した。
※
昨日のかれと、今日のかれの何が違うというのだろう?再び輝き出した枯れ木の枝を折れば、かれは自らが強く逞しい存在になってゆくのに気づかされてゆく。
溢れ出すエネルギーは全身に自信を漲らせてゆく。
秋の終りから失い出した全ての負の出来事は、まるで他人の記憶のようにかれの脳から消え去っていた。活き活きしてきた心の活動はかれを書斎へと向かわせた。脳は数ヶ月間の物語のイメージを溜め込んでいたかのように新しい発想を生み出してくれた。腕はサクサク動き、机の上の紙切れに文章が綴られてゆく。
次は冒険ものだ。
新しい物語の主人公は女。何も出来ないダメ女は嘘を付き、その嘘から嘘が連なり、どんどんとんでもない大詐欺師のようになってゆく。男を騙し、手玉に取り、あちらこちらで金を稼いで大豪遊をする。
この物語のこの主人公の女は全く人間らしい優しさを見せない。いくらでも嘘を付くし、体は売るし、金持ちから金持ちへと乗り換える。ろくでもない女なのになぜか女は得をしてばかりで痛い目に遭わない。周りはいい男ばかりで女のために尽くす。普通なら一生を決めてもいいような出逢いも適当なところで男を振ってしまう。
こんなハチャメチャな冒険ストーリーをかれはスラスラと書いていった。
3日書いて、2日寝る。かれにはそんなペースの毎日が続いていた。
物語を書いて、眠って夢を見て、夢のどこかと物語が繋がって、また物語を書き、また眠る。疲れを感じて目の覚めない日は、あの枯れた木に行って枝を折った。するとまたエネルギーはかれの内から一気に溢れ出した。
そんな日々が繰り返され、1ヶ月で新作を完璧に書き上げた。かれはその小説を茶縁眼鏡の男宛てにメールで送った。するとその日のうちに返信が届いた。
『今回の作品は大変おもしろいものとなっておりますが、』と始まって、いつものようにいくつかのダメ出しも付いてきた。
いつもよりは遥かに少ないダメ出しだったが茶縁眼鏡の男のプライドなのか、少しでも表現がおかしな部分は修正を求め、内容もいくつかにおいて疑問を投げかけてきた。
翌日、かれはかれの知る茶縁眼鏡の上司にメールを送ってみた。ついでに今の編集担当者がとても不満で仕方がなかったとメッセージに付け加えておいた。
またその日のうちに返信はやってきた。
『あいつはすぐにクビにする。すぐにでも代わりの編集者を送る』と返ってきた。
そして物語の面白みを絶賛する文面がたくさん付け加えられ、すぐにでも書き下ろしとして出版したいとの内容で締めくくられていた。
茶縁眼鏡の男の慌てた顔を想像して、かれは大笑いした。この半年近くの空白が嘘だったかのように気持ちは乗っていた。
部屋の中で一人、叫ぶように笑い続けた。




