3ノ2 4ツノ約束
今年の冬はいつに増して寒さが厳しい。きみに訪れるのは毎朝の忙しい通勤と、会社で鳴り響く電話のベルの音だけ。不快な気持ちを押し殺し、心を無にしてオフィスレディーの声で顧客に応対する。
秋の頃には10月も11月も変わらない毎日だなと思っていたけれど、冬になってもまた、12月も1月も変わらないなと思う。2月になっても変わらないと予想する。その気持をため息に込めて吐き出したいけど、吐き出したら何もかもが終わってしまうかのようだから、吐き出さずにグッと飲み込んだ。
「おつかれさま」の声も酷く小さい。
誰かに引き留められるのが面倒だから声も小さくなる。用があるわけでもないのに慌てて小走りに駅まで走り、いつものオフィス街にある駅へと向かう。電車に乗るまでが会社モードだから、電車に乗れば少しは気が楽になる。朝の通勤ラッシュに比べれば帰りの電車はまだましだ。
何年も暮らし慣れた町の商店街を歩く。きみはいつもの本屋に立ち寄る。そして雑誌コーナーで「溝端」の名を探す。最近はファッションにも、映画にも、音楽にも興味がない。30代女はそんな物に目を向けない。とか少し大人ぶってみるけれど、「溝端」を探すのはきみにとっては趣味を超えた必須事項だ。それをやらないわけにはいかないのである。
「溝端」の名前はどこにもない。いつもの雑誌はもちろん。ほかの月刊誌にも載っていない。映画雑誌やファッション雑誌、男性ものの読み物を思い切って覗いてみるけれど「溝端」は当然いない。
同じ名前にはドキッとするが、きみの求める的ではない。夢の出来事だったように、かれの名は消えてしまった。それでも店の奥の文庫本コーナーにはしっかりとその名の作者の本があって、一番話題になった本は平積みになって棚の前に並ばれている。
『当り前だ。何も驚くことはないことだ』
きみは心を落ち着かせるように声に出さず呟いた。
きみを誘ったあつしからも音沙汰がない。家に帰ると今度はすぐにネットを繋ぎ「溝端コミュ」にお邪魔する。きみを含め、今日は7人。いつもよりも多い。
「溝端」が消えた話題はもうない。彼の本を初めて読んだ人とか俄かファンが多くいる。きみは会話に参加せず彼らの会話を眺めている。
コアなファンはそこにはいない。彼らは黙ってどこかで「溝端」の名前が本屋に再び並ぶ日を待っているのだろう。あつしも同じように待ち始めたのかもしれない。
きみも同じように、いや違う、きみだけは待てずにいる。きみだけはかれが何をしているか知りたがっている。作家のファンを越え、作品を書く「溝端」という人物の正体を知りたがっている。
きみの心は落ち着かない。平日も、休日も、きみは「溝端」の名前を探す。かれの最新情報を求めて。
※
きみにはいつもの毎日しかない。不快が8割、ホッと1割、後は無心。喜べることなんて何一つない。
今日も肩凝りが酷く、やる気が失われてゆく。高い金を払って買ったマッサージグッズも役には立たない。そんな不快な日々を送っていた。
金曜の夜、いつものネットワールドに踏み込む、あつしからのメッセージが届いていた。
それは長い文章だった。文章というより、何かの契約書のように見えた。少し読んでみるとそれは契約書というより指示書のようなものだった。
それはとても不思議な指示命令文だった。
1.お金の事は気にしてはならない。きみはすぐにお金の事を気にする。
それはきみの活動範囲を狭めてしまっている。だからきみはなるべくお金の事を意識せずに行動するべし。
2.周りを見回してはならない。きみは周囲の視線を気にして周りを見回す癖がある。余計な視線はきみがしようとしている行動を止めてしまう。だからきみは本当にしたいことができずにいる。周りは見ないようにしよう。
3.しなければならない事を忘れなさい。きみはいつもしなければならない事を忘れずに覚えている。それはいい事のようだが、それはきみの脳の自由を奪っている。だからきみは自由な発想を持てずに大切な瞬間を見逃してしまっている。忘れなさい。しなければならない事なんて何もないのです。
4.いつもと違う行動を取るようにしてください。きみはいつも同じところを行ったり来たりしている。それもまたきみの行動範囲を狭めている。だからきみはいつもと違う行動を毎日取るように心掛ける。
そんな4つの文章が示されていた。きみにはわからなかった。何をどうすればいいか浮かばない。それら4つの行動は今まできみが避けてきた行動だ。だから余計にどうしていいかわからない。
「では、お待ちしています」と、たくさんの空白の下に一行付け加えられていた。
あつしはきみを待っている。それだけが今、きみにわかることだった。
※
きみは朝から走る。どこへ、、、って会社へ。駅へ、電車へ。
朝はいつも走ってしまう。寒いと余計に走ってしまう。別に急いで会社に行きたいわけじゃない。でも歩けない。頭はそんなに何を考えているわけでもないのに。
夕暮れ過ぎたら、笑いたい。すっきり笑顔が待ち望ましい。でも楽しみなんて何もないから、笑顔になんてなれない。苦笑いに近い笑みを浮かべ、凍える寒さで顔が引き攣っていた。
用もなく携帯電話を眺めている。のぞき見るんじゃねえ、このくそおやじ。朝の電車は最低だ。
きみはあつしの命令どおり、いつもとちょっと違った行動を心掛けていた。いつも乗る電車の時間や車両をちょっとだけずらした。そしたらおやじに囲まれ脂っ臭さに気持ち悪くなるだけだった。最悪だ。
きっとこの冬を越せばいい事あるはずよ。きみはそう思い込む。いろいろな悪い出来事は天候や気候のせいにする。天候や気候のせいにするのが、しっぺ返しを食らわない八つ当たり方法だ。
朝の不快は一日中続く。苛立たしいことばかり。この三連休はゆっくり休みたい。その事ばかりが唯一の希望。その夢に向かって、今日の仕事を堪えてゆく。
一日が終わった。平和なはずだけどきみの心は映えない。今の生活の全てが無駄な時間、無駄な場所に思えていた。
気を落ち着かせよう。気を静めよう。そう考えて入り込んだコーヒーショップでも居心地は悪く、きみは10分と持たずに店を出る。
まず何を試したらいい?きみはあつしに訊きたい。いつもと違う行動をどう取ればいいかわからずにいる。
時間が過ぎてゆく。きみの望むあつしは現れない。答えに向かっているのか不安しか生まれない。
いったいなぜ、わたしはこんな事をしているの?そう聞きたくなるけどそれは誰もわからない。きみが答えを出すしかない質問だ。
※
毎日は慌ただしく、車が走り去る音のように過ぎ消えてゆく。きみは世間から一人取り残されたかのように部屋へ帰る。冬の部屋は寒い。疲れている日は余計に寒い。
サム、ザムシイ。
気が重くなる話ばかり。日本の政治くらい重苦しい。きみはもっと素敵な女の子だったはずなのに。
「そう、わたしはもうちょっと可愛らしい女の子だったはずなのよ」と、きみはベットの上で独り言を呟くけれど、体は…。眠ったままですなあ。
バレンタインは大雪に終わり、きみは誰にも渡すことのなかったチョコレートの群れに囲まれている。最初から渡す相手もいなかったんでしょ。そして自分で食べる。その事はわかっていて、ほんの少しだけ渡してあげようかなんて考えてもいたでしょ?
いつもと変わらない毎日は続く。北風に吹かれ、大雨にも負けず、きみはいつもの生活を繰り返す。
季節の変わり目で、近所にある豪邸を囲む庭に梅の花が咲き始めていた。それを見かけて、少しだけ春が近いなあって思って、きっとその頃になれば、って根拠のない未来への希望を抱いている。季節の変化は希望を与えるためにあるかのようだ。
きみの少しだけ違った行動を取る毎日は特に変り映えもなく過ぎてゆく。少しの幸せはおいしいケーキ屋を見つけたこと。こんなところにあったのかとケーキ屋に寄ってみたらそこのラズベリーケーキがとても美味しかった。また来ようと決めて、きみは次に何を食べようかと考えている。
小さな幸せ。
でも、あつしからの連絡はその後ない、と思ったら、実はあった。
「どうしてもきみは枠を越えてくれないね。きみは何を守ろうとしているの?その生活はそれ程大切なもの?きみが来てくれるのを待っていたけど、きみはまだここまで来れないようだね。とても残念だよ。それじゃあ」
「それじゃあ。って何がそれじゃあよ」と、きみはつぶやく。
『生活は大切?それは大切。だって収入がなければ家賃だって払えない。仮に払えても、食事ができない。好きな雑誌も買えないし、洋服だって買えない。今だって最低限の生活なのに、わたしの生活をどう変えろというの?今仕事を辞めたら、きっと実家に帰るしかなくなっちゃうじゃない』
当たり前に嫌だけど、嫌なたくさんなことを我慢するには、訳がある。
季節の変化がきっと希望をもたらせてくれる。きみはその事を信じて、この冬も越えてゆこうとしている。
あつしの声はきみに届かなかったようだ。どうやらきみにはいつもの生活しかないようだ。せわしい会社のデスクでいつもの生活を繰り返す。イライラする毎日から僅かな希望を抱いている。何度も萎えてしまったけれど、結局また抱いているんだね。
今はまだゆけない。




