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第二章 龍之介の受難

 夕飯を食べ、家族団らんしているだろう時間に、街灯が光の王となる夜の道で龍之介の頭は真っ白になっていた。ヒタヒタと歩を進めると、前方から車のライトが迫ってくるのが見える。龍之介は生垣に身を潜めると、このまま生垣で一生を終えるのではないかとさえ思えてきた。

 そんな考えを否定するように龍之介は頭を一振りすると、道路に沿った親水公園に戻り、人口の川辺で足を浸した。そのまま水の中に入っていくと、先住の小さな魚たちが龍之介に場所を譲るようにあちこちに泳ぎ散っていった。龍之介には、魚たちが自分を恐れているようには見えなかった。むしろ、畏敬の念すら感じ、自分が龍であることを、より実感した。

 龍は鱗を持つ生きものの祖で、水を司る王だ。魚たちはいきなりあらわれた王に場所をあけ渡すしかなかったのだろう。

 水に体を浸からせると、鱗の一枚一枚が喜んでいるような不思議な感覚になった。浅い川に体を伸ばし、顔だけ出して体をゆらゆらさせる。気持ちよかった。そうしてしばらく休むと、少しずつ頭の中が冷静になってきて、亜子のことを考える余裕が出てきた。

 亜子は大丈夫なのだろうか。病院で適切な処置をしてもらえただろうか。バイクに撥ねられたあと、亜子は動いていなかった。人々の呼びかけに反応したふうには見えなかった。亜子は無事に生きているのだろうか。

 亜子のことを考えていると、亜子が撥ねられた瞬間の光景が頭に浮かび、龍之介はギュッと目をつぶった。

 このまま亜子が死んでしまったら、と思うと龍之介は恐ろしくて涙が滲んできた。やっと恋人になれたのに、このまま亜子を失うなんて考えたくもなかった。いきなり訪れた試練に龍之介は人生の不公平感を拭えなかった。

 ちょっと待て、と思った。このまま亜子が死んでしまったら、どうやって人間の姿に戻ればいいのかという不安が湧きあがってきた。

「俺は、どうなるんだ。どうすればいいんだ」

 ボソリと呟いた龍之介の頭は再び真っ白になった。

 川の流れが優しく鱗を撫でる。水の気持ちよさとは裏腹に、心は不安で埋め尽くされていく。そして、その不安は恐怖に近い感情になった。

「誰か、助けてくれ……亜子も、俺も」

 龍之介は呟いて目を潤ませた。そんな龍之介の周りに、さっき散っていった小魚たちが集まってきて、まるで励ますように鱗をつついてきた。龍之介は小魚たちの優しさに心が緩んでダムが決壊したかのように号泣しはじめた。と、同時に晴れた夜空から急にどしゃぶりの雨が降ってきた。雨音が龍之介の泣き声を掻き消している。小魚たちは龍之介に従うように、ずっとそばにいた。

 ひとしきり泣いたあと、雨も上がり、龍之介は心を落ち着かせた。いつまでも泣いていたって仕方がない。亜子が戻ってくるまでの辛抱だ。きっと、すぐ戻ってくるさ。自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせる。だからと言って、一人で隠れながらしのぐのは不安だし、寂しい。

 龍之介は司に事情を話して協力してもらうことを思いついた。亜子の情報も訊けるし、一石二鳥だ。そうと決まると、龍之介は小魚たちにお礼を言いながら水から上がり、夜の住宅街を亜子の家へゆらゆらと飛んで行った。

 下町の密集した住宅街には似つかわしくない、煉瓦の壁で覆われた洋館風の小さな家が見えてきた。亜子の家、白石家だ。その隣には、小さな庭つきのどこにでもあるような家が顔をのぞかせている。これが龍之介の家、神崎家だ。二軒の境は神崎家の柵で、その柵から神崎家の庭に植えてある柿の木が、白石家の敷地に飛び出している。

 白石家の前まで来ると、玄関先の明かりは点いていたが、家の中は真っ暗だった。きっと、みんな亜子のいる病院へ行っているに違いない。隣の自分の家を見ると、父親はまだ帰宅していないらしく、母親の文佳(ふみか)がソファーにでんと座ってテレビを観ながら笑っていた。夜なのだからカーテンくらい閉めればいいのに、と龍之介は舌打ちした。

 とりあえず、自宅の庭の茂みに潜んで、白石家の人々の帰りを待った。

 しばらくすると、カチャリと門を開ける音がしたので茂みの中で顔を上げると、父親の史郎(しろう)が帰宅したところだった。背広と鞄を片手に持ち、あちぃ~、と言いたげな表情で玄関のカギを開けて入って行った。史郎は内装関係の会社に勤めていて、最近は葛飾区の斎場の壁紙を張り替える現場に立ち会う仕事をしたのを誇らしげに話していた。それを文佳に、「自分が燃やされる場所をキレイにできてよかったね」とからかわれていた。

 そんな両親のもとで、一人っ子の龍之介は大事に育てられた。今、二人の前にこの姿を見せたら、どんなに驚くだろうか。龍之介は、なんだか悪い事をしている気持ちになり、浮かれて文佳にラインを送った数時間前の自分が、愚かな人間に思えてきた。

 両親が温かい明かりの中で、笑顔で話しながら食事する姿を眺めていると、ギュルルと腹が鳴った。空腹が龍之介の孤独感に拍車をかける。亜子が戻ってくるまでの辛抱だ。心に言い聞かせながら、文佳が育てている鉢植えのミニトマトを一つ、二つと()いで口の中に放り込んだ。咀嚼すると皮が妙にぶ厚いのを感じ、やはり家庭菜園では売り物のミニトマトのようにはいかないな、とため息をつきながら味わった。

 隣の家から鍵を開ける音がして振り向くと、司がちょうど玄関を入るところだった。龍之介は口の中のミニトマトを飲み込むと、司めがけてサッと飛行した。司は鞄を肩から斜にかけていた。

 ――俺の鞄だ。

 亜子が撥ねられたとき近くに落ちていたので、亜子の所持品として救急車で一緒に持っていかれたのだ。龍之介は司を呼び止めた。

 司はキョロキョロしていたが、龍之介の姿を見つけると目を丸くした。柵の上から顔をのぞかせた龍を数秒見つめたあと、龍之介であることに気付くと司は笑顔を見せた。

 龍之介は涙目になって司に飛びつくと、頬ずりしたり、体をくねくねと擦りつけたりした。

 司は龍之介のスキンシップに困惑しながら玄関に入ると、そのままリビングへ連れて行き、ソファーへ座って冷静に問いかけた。

「龍ちゃん。とりあえず、僕が公園から帰ったあと、姉ちゃんと何があったか全部話して」

 龍之介は心を落ち着かせながら司を見て頷いた。そして、司が帰ったあとの、亜子との一部始終を話した。亜子と恋人になったこと、ほんの数日のつもりで亜子の魔法で龍に変化(へんげ)したこと、そして、その帰り道で亜子がバイクに撥ねられたこと。

 司は何度も頷きながら黙って聞いていたが、龍之介が話し終ると、深刻そうな表情で黙り込んだ。しばらくしてから口を開くと、司は「落ち着いて聞いて」と、前置きしてから話し始めた。


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