第一章 はじまりの日 -7
ポタポタと水を滴らせる亜子を見て、龍之介は亜子に向かって、ふうっ、と気を吐いた。それは火になり亜子の体を包み込むと、一瞬で乾かしてしまった。目をしばたたかせる亜子を見て、「これで風邪ひかないね」と、龍之介は得意になって鬚をつまんだ。
亜子は、知らなかったとはいえ、龍之介に痛い思いをさせてしまったことに引け目を感じたのか、「そろそろ元に戻らない?」と心配そうに言った。龍之介は、一瞬だけで充分だ、と言ったはじめの気持ちはすっかり忘れて、まだまだ龍でいたい気持ちでいっぱいだった。そして、はじめに亜子が提案したように、どうにかしてこのまま数日間生活できないものかと考えた。
考えた結果、嘘をつくことに決めた。亜子には止められたが、龍之介は爪で器用にスマホを操作すると、「大学で一人暮らしの友人が風邪を引いたので看病のため二、三日帰らない」と母親に見え透いた嘘のラインを送った。直接電話で話さなかったのは、ラインの方がお手軽だったからではなく、嘘をつくのが下手なのと、龍になっているので普通の人間とは話ができない、と亜子に言われたからだ。
「これからどうするつもりなの?」
亜子に問い詰められると、龍之介はニヤリとして、
「とりあえず、亜子の家に連れて行ってよ。事情を話せば白石家の人はわかってくれるだろうし」
と、浮かれた様子で答えた。亜子は、龍に変化する提案をしたのは自分だから仕方ない、と言って、龍之介の鞄を肩から斜にかけると、龍之介を連れて菖蒲茶屋公園を出た。
龍之介は上機嫌で亜子の歩調に合わせてふわふわ飛んでいる。
「ねえ、ご飯は何を用意したらいい?」
亜子は覚悟を決めたらしく、夕飯のメニューを尋ねた。
「燕を食べたくなるはずなんだけど、今のところはそんな気分じゃないな」
龍の好物は燕だ。
「燕なんてあるわけないでしょ。聞くんじゃなかった。白石家の食事を食べなさいよ」
怒り気味に答える亜子を見ても、龍之介は少しも気にならなかった。
道路に沿った親水公園を進みながら、龍之介の姿を見て司がどんな反応をするか、龍之介の今夜の寝場所はどこにするか、などの話で盛り上がった。
龍之介にとって今夜は最高だった。亜子と両想いだとわかって、二度もキスを交わし、恋人になった。その上、大好きな龍に変化できて、龍の生活を体感できる。そしてこれから二、三日、亜子と一緒に暮らせる。こんな幸せな夜があるだろうか。横断歩道で信号待ちをしながら、龍之介は夢の中にいるような気持ちになって亜子の横顔を見た。心なしか、亜子も微笑んでいるように見えた。
――恋をしてる女の顔はキレイだ。
龍之介は酔いしれていた。
信号が青になり、親水公園を出て横断歩道を渡り始めた。向こう側は住宅街で、龍之介と亜子の家も住宅街の中に隣同志で建っている。
その時、遠くからすごいスピードでバイクが走って来た。バイクは赤信号でも止まる気配がない。黒いフルフェイスが街灯に照らされて怪しく光る。まさかと思った瞬間、バイクがそのまま突っ込んできて、龍之介は軽く飛ばされ、そのまま通りの生垣に突っ込んだ。突っ込みながら、龍之介の目には、バイクに撥ねられた亜子が人形のように遠くに飛ばされる姿がスローモーションで映った。
龍之介は生垣からはい出ると、そのまま走り去るバイクのテールライトが小さくなっていくのを目にした。体の節々に痛みを感じながらも亜子のそばにゆらゆらと飛んでいく。
ひき逃げの現場を目撃した数人の人が、亜子の周りに駈け寄り、救急車を呼んだり、声をかけたりして亜子を助けようとしている。
龍之介は人々に見つからないように慌てて生垣に隠れ、様子を窺った。自分も亜子のそばに行って、なにかしてあげたかった。龍の姿ではなにもできないし、救助の人々に驚かれてしまう。龍之介はギュッと土に爪を立てながら耐えた。
しばらくすると、救急車が来て亜子は運ばれて行った。龍之介は生垣の中から涙目で救急車を見送った。そして、どうか亜子が無事でありますように、と虎に似た手のひらを合わせて神に祈った。
人々がいなくなり現場が静まり返ると、龍之介は生垣から出て、一人佇み我に返った。
――俺は、どうなるんだ。
第一章はこれで終わりです。ここまで我慢強く読んで下さった皆様、ありがとうございます。
第二章も引き続き、宜しくお願いいたします。




