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第一章 はじまりの日 - 5

 亜子が司に目で合図すると、司は立ち上がり、まるで上司のように龍之介の肩を軽く叩いて帰って行った。

 司が座っていた場所に亜子は座ると、「司から全部聞いた?」と言って、少し悲しそうな顔でうつむいた。龍之介が「うん、聞いた」と言うと、亜子はポソリと呟いた。

「ごめんね。惚れ薬なんか使って」

 その瞳には涙が表面張力で浮き上がっていて、今にも零れ落ちそうになっていた。「あ、いや、別に」と言いながら、龍之介は慌ててハンカチを出そうと、ジーンズのポケットを探ったが、何も入っていなかった。考えてみれば、家を出るときハンカチを持って出なかった。それなのに、条件反射のようにポケットを探る自分に、龍之介は少々呆れた。

「わたし、卑怯だよね」

 とうとう亜子の瞳からボロリと涙が零れた。大粒だった。そしてキレイだった。龍之介は亜子に見とれた。

「そんなことない。俺、亜子に初めて会った時、一目惚れしたんだ。だから、惚れ薬入りのチョコを食べる前から亜子のこと好きだった」

 龍之介はボロボロ零れる亜子の涙を自然と指で拭っていた。拭っても、拭っても涙は止まらない。大洪水だ、と思った。

「それ、ホント?」

 亜子がヒクヒクしながら龍之介を見る。

「うん、ホント。だから気にすんな」

 止まらない亜子の涙を拭う龍之介。二秒後、亜子の涙に気を取られて、うっかり告白してしまったことに気付くと、龍之介は「あっ」と言って亜子の顔から手を離した。恥ずかしさで一気に耳が熱くなった。

 亜子が泣きながら微笑んでいる。涙は流しているものの、嬉しい時にする亜子の表情そのものだった。可愛いと思った。この気持ちが惚れ薬によるものなのかどうかは、龍之介にとってはどうでもよかった。ただ目の前にいる亜子を愛しいと感じる今の気持ちを大事にしたかった。

 龍之介は再び亜子の顔に手を伸ばすと、頬を包み込み、自然と顔を近づけて亜子の瑞々しい唇に自分の唇を重ねた。柔らかかった。亜子が自分に身を任せているのがわかると、龍之介は亜子の背中に腕をまわした。長い間思い続けた亜子の唇を自分の唇が塞いでいる状況に龍之介は興奮し、強く押し当てたあと、まるで洋画のキスシーンさながら、何度も何度も唇をついばんでしまった。抱きしめる腕に力がこもる。「ん、ん」という亜子の呻き声が聞こえ、胸を押しのけられて唇が離れると、龍之介はやっと、暴走してしまったことに気付いた。

「がっつきすぎ」

 亜子が少し膨れながら、ぷいと前を向いた。

「ごめん。つい」

 龍之介は心の中で、しまった、と思いながら俯くと、恥ずかしさで顔が熱くなった。龍之介にとってはファーストキスだった。その思い出がこんな失態で終わり、龍之介はまさに穴があったら入りたい気分だった。

 少しの沈黙のあと、亜子がぷっと吹き出し、声を上げて笑い出した。龍之介がけげんそうに見ると、「龍之介らしいね」と言って、亜子は楽しそうに笑い続けた。がっついたキスを自分らしいと言われ、龍之介は複雑な気分になったが、亜子が笑ってくれたから、とりあえずはよしとした。

 笑いが治まると、亜子は龍之介に自分が魔女だと告白した時の、あの夏の日のことを語り始めた。あの時は、本当のことを話したら、龍之介に嫌われてしまうのではないかと怖くなり用意したのが、あの水筒の飲み物だった。

「まさか、あの水筒に惚れ薬が入ってたのか?」

「うん。ごめんなさい」

 亜子はすまなそうな顔で俯いた。

 龍之介はあの飲み物の美味しさを考えると妙に納得してしまった。後にも先にも、あんなに美味しい飲み物は飲んだことがなかった。バレンタインデーの手作りチョコが美味しかったのも、きっと惚れ薬を入れたからなのだ。

 隣で俯く亜子が、また泣きそうになっている。自分を卑怯だと思って責めているのだろうか。恥じているのだろうか。

「亜子。俺は、亜子が俺のために惚れ薬を使ってくれて嬉しかった。だって、そんだけ俺のこと好きでいてくれたってことだろ。マンドラゴラ取るのだって命がけだったんだろ。命がけで俺を好きでいてくれたんだろ。俺は、そんな亜子の気持ちが嬉しかった。だから、もう自分を卑怯だとか思わなくていいよ。言っただろ。惚れ薬使う前から亜子のこと好きだった、って。だから、俺が亜子を好きなのは、惚れ薬のせいじゃない」

 龍之介は亜子を励ましたくて、思いのたけを話した。亜子は泣きそうになるのを無理に微笑んで、「優しいね」と言って龍之介の手を握ると、

「だったら、どうして今まで何も言ってくれなかったの?」

 と、急に批難がましい口調になった。龍之介は「えっ」と言いながら、反射的に体を少し離すと、さらにギュッと手を握られた。

「龍之介がもっと早く告白してくれれば、こんなに悩むことなかったのに」

 亜子は頬を膨らませ、涙をためながら龍之介を睨んでいた。

「仕方ないだろ。恥ずかしかったんだから」

 そう言って、龍之介は眉を寄せた。しばらく押し問答したあと、亜子からキスをせがまれ、龍之介は亜子の唇に優しく自分の唇を重ねた。今度は暴走しないように我慢しながら、亜子の手を強く握り返した。唇を離すと、目を合わせ、亜子と笑い合った。幼馴染だった亜子が恋人になった瞬間だった。


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