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第一章 はじまりの日 - 2

 小林の後ろを金魚のフンのようについていくと、規則正しくプラタナスが植わる駿河台の坂をひたすら下り、飲食店が並ぶ神保町の駅の近くまで来た。小林は『南国堂(なんごくどう)』という立て看板の前で止まると、振り向いて下を指さした。店は地下にあり、レンガ張りのらせん階段の下にガラス張りの店内が垣間見えた。小林のあとについて階段を降りると、色黒の大きな男性が席に案内してくれた。小林を向かいに、龍之介と亜子が並んで座った。

 南国堂はカレーの専門店で、若いころインドネシアに海外出張していたオーナーが、現地のカレーをいたく気に入って、帰国した際、脱サラしてインドネシア風のカレー店を経営し始めたのだそうだ。そのわりには、店内は至って普通の喫茶店のようなインテリアだった。

 小林の勧めで、牛タンカレーを注文することに決めたところで、さっきの色黒の大きな男性がオーダーをとりにきた。小林の話によると、彼はオーナーの息子らしい。インドネシア人とのハーフなのではないかと思わせるようなエキゾチックな顔立ちをしているが、純粋な日本人とのことだった。

「牛タンカレー三つですね」

 オーナーの息子にオーダーを確認され、龍之介はとっさに男らしいところを亜子に見せたくなり、ライスを大盛りにした。大盛りは百円増しだ。「少しは遠慮しなさいよ」と、亜子に叱られたので、「すいません」と言って龍之介は肩をすくめながら小林を見た。小林はにこやかな顔で、龍之介と亜子の仲の良さを羨ましがった。

 なごやかに会話していると、カレーはすぐに運ばれてきた。そして龍之介は、ライスを大盛りにしたことを後悔した。皿の上に、丘のようにこんもりと盛られたライスが存在感を発揮していた。ライスに対し、普通盛りのルウが少なすぎる。ルウも大盛りにするべきだったのだ。龍之介は、しばらく黙ってライスの丘を見つめていた。その様子を見て、亜子と小林が人ごとのように笑っている。「とにかく食べようか」と、小林が涙を指で拭いながら言う。

 一口食べると、牛タンが口の中でとろけるような、それでいて歯ごたえも残しつつ肉を食べている満足感に浸れる絶妙な煮込み具合だった。ルウはほろ苦く、今まで食べたことのない、言ってみれば大人の味だった。きっと独特の香辛料が入っているに違いない、と思いながら、龍之介はライスとルウのバランスを考えながら食べた。でも、どうしても、ライスが皿の半分は残ってしまう。少なくなっていくルウを見ながら、龍之介は切ない気分になった。とうとうルウがなくなってしまうと、龍之介は黙ってライスだけを黙々と食べ続けた。自分から大盛りにしたからには残すわけにはいかない。水を飲みながらライスをほおばる龍之介を亜子と小林が好奇の眼差しで見守る。そうしているうちに、食後のコーヒーが運ばれてきて、亜子と小林は余裕の顔でカップに口を付けた。二、三口飲んだところで、亜子が、ちょっとお手洗い、と言って席を立った。

「君は面白い子だね。この放っておけない感じが女子からしたらたまらないんだろうな。特に亜子みたいな子にはね」

 小林が亜子を下の名前で呼んだことに違和感を覚え、龍之介は咀嚼の動きを止めて、顔を上げた。そこには、さっきまでのにこやかな小林ではなく、挑んでくるような男の顔があった。龍之介はライスが詰まってリスのように膨らんだ頬のままで、小林をじっと見た。口の中がいっぱいで、言葉を発することができない。小林は片笑んで続けた。

「龍の研究してるんだってね。龍之介だから『龍』って、単純だね。そんなところもかわいく思えてしまうんだろうな、亜子には」

 まただ、と思った。龍之介は何も答えずに、目を伏せて咀嚼を再開した。小林の視線を感じながら、黙々とライスを食べる。まるで、何かの罰ゲームのようだ。ルウを食べていないのに汗が滲む。水を飲む、ライスを食べる、水を飲む、ライスを食べる、を繰り返しているうち、やっと最後の一口までたどりついた。長い戦いに終止符を打つように、最後の一口を口に入れる。頭の中で、映画『ロッキー』のテーマが流れ、やり切った満足感に一瞬だけ浸った。パチパチパチと気怠そうに手を叩く音が聞こえると、小林が冷めた目で半笑いしていた。

「龍之介、すごいじゃない。全部食べたの?」

 ちょうど亜子が戻ってきて、感嘆の声をあげながら龍之介の隣に座った。口をもぐもぐさせながら龍之介は亜子に向かって親指を立てた。

「ところで、君たちは恋人同士みたいに仲がいいけど、付き合ってるのかな?」

 小林の質問に、龍之介はゴクリと口の中のものを飲み込んだ。そうです、と言ってやりたかった。チラリと亜子を見ると、何か言いたげな目でこちらを見ている。小林は亜子が尊敬する男だ。誤解されたくないから否定してくれとでも言いたいのだろうか。だったら自分で言えばいいじゃないか。瞬時に頭の中で考えを巡らせたが、龍之介は考えがまとまらず、たどたどしく答えた。

「そういうのじゃなくて……ただの、幼馴染ですけど、でも、すごく、仲はいいほうだと俺は思ってます……みたいな」

「じゃあ、神崎君は白石君のことを一人の女性として好きなわけではないんだね?」

 直球すぎる質問に、龍之介は一瞬、言葉を詰まらせた。

「そんなこと聞かれても、幼馴染だし……」

 本当は、ずっと女として好きです。いやらしい妄想をいつもしてます。と言ってやりたかった。亜子をチラリと見ると、なぜか気を悪くしたようで、「何それ」と、吐き捨てるように呟いた。小林は、「なるほどね」と言うと、龍之介の方に乗り出した。

「だったら、僕が白石君の恋人に立候補しても問題ないよね」

 はぁ? と龍之介が言う前に、亜子が言葉を発した。

「先生。こんなところで冗談はやめてください」

 困った顔で訴えた。さっき、図書館の外で見たのと同じ顔をしていた。もしかしたら、あの時も、小林に交際を迫られていたのかもしれない。小林は亜子の尊敬する先生だ。少なからず好意は持っているはずだ。どうして困ることがあるのだろうか。

「神崎君のOKが出れば、僕も君を誘いやすいんだけどな」

 そう言って亜子に微笑むと、小林は龍之介に答えを求めるようにチラリと見た。

「それは、亜子が決めることだと思います」

 言いながら亜子を見ると、涙目になって俯いていた。こんな亜子を見るのは初めてだった。「亜子……」と、龍之介が言いかけたのと同時に、亜子は立ち上がって、小林に、「ご馳走様でした」と言って頭を下げると、そのまま店を出て行ってしまった。龍之介が追いかけようと慌てて立ち上がったとき、小林に手首を掴まれた。そこには再び、挑んでくるような男の顔があった。

「悪いけど、君に負ける気はしないから」

 小林はパッと龍之介の手首を放し、「行けよ」と言って顎をクイッと上げた。龍之介は一瞬睨んでから、慌てて店を出て、らせん階段を駆け上がった。奢ってもらったのに、ひと言もお礼を言わなかったことを龍之介は少しだけ申し訳ない気持ちになった。


 人ごみの中に亜子の後ろ姿が垣間見え、龍之介は走りながら人を掻き分け、亜子に近づいた。追いついて隣に並ぶと、亜子は今にも零れ落ちそうな涙を唇を噛みしめながら我慢していた。話しかけたら泣き出しそうだと思い、龍之介は黙って隣を歩いた。強い日差しと湿気の中を、黙々と歩きながらさっき下った駿河台の坂を上る。プラタナスの緑に癒されながらも、何杯も水を飲んだ龍之介は汗まみれになっていた。どうして亜子が泣きそうになっているのかわかないまま大学の図書館がある高台の足下まで来た。龍之介は図書館に戻って、資料の続きを読みたかった。

「俺、図書館に戻るけど、亜子はどうする?」

 亜子は龍之介を睨むと質問には答えずに、

「龍之介はわたしよりも龍のほうが大事だもんね」

 と怒りをあわらにすると、ぷいとそっぽを向いて行ってしまった。どうして自分が怒られたのか納得がいかなくて、ぶすくれた顔で亜子の後ろ姿をしばらく見送ると、龍之介は手で顔の汗を拭いながら図書館に戻った。


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