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第一章 はじまりの日 - 3

 夕方になる前に図書館を出て地元・葛飾区の菖蒲(しょうぶ)茶屋(ちゃや)駅まで戻ると、アルバイト先のスーパーに直行した。家の近所のスーパー『シスター』の惣菜部で、龍之介は寿司を作るアルバイトをしていた。昼間はパートの主婦たちが活躍し、夕方前からはアルバイトの学生がチーフの指示に従いながら惣菜を作っている。

 裏口から入り更衣室に行くと、同じアルバイトの(つかさ)が作業着に着替えているところだった。司は亜子の弟で、まだ高校二年生だったが、夏休みを利用してアルバイトをしたいというので、龍之介がチーフに口利きしたのだ。

 龍之介に気付くと司は人懐こい笑顔で話しかけてきた。

「龍ちゃん、大学から直接来たの?」

「そうだけど。どうしてわかった?」

 龍之介の問いに、亜子から聞いた、と司は答えた。そんなことだろうと思って、龍之介はため息を漏らしながら白い作業着に腕を通した。

「龍ちゃんはさ、姉ちゃんから白石家のこと、いつ聞いたの?」

 司が急に真面目な顔になったので、龍之介はきちんと向き直って答えた。

「中学一年生の夏休みだったかな」

 龍之介の返事を聞くと、司は「ふぅん」と言って少し考え込んだ。


 中学一年生の夏休み、水泳部だった龍之介は、部活帰りに亜子に呼び出されて近所の菖蒲茶屋公園に行った。あの頃は、女子部の先輩たちの水着姿が艶めかしすぎて、目のやり場に困りながら練習していた。女になり始めた三年生の体のラインと、一年生の体のラインは大人と子供くらいの差があった。龍之介には憧れの三年生の先輩がいて、彼女が龍之介に告白するという夢を毎晩見ていたほどだった。部活で先輩女子たちの体を見てから亜子に会ったので、亜子が随分と子供に見えたのを覚えている。

 化学部だった亜子は運動部のように夏休み中の練習などなかったので、ジャージ姿の龍之介とは違い、私服で来ていた。それも、Tシャツにジーンズ生地のスカートとビーチサンダルといういで立ちだったので、体の凹凸がないのが強調され、余計に幼く見えた。

 亜子が隣に引っ越してきてから、ずっと亜子のことが好きだったが、中学に入ってからは、先輩女子たちの色気の前にひれ伏す毎日が続いていた。

 公園の桜の木の下にあるベンチに座ると、亜子は深刻な顔で話し始めた。そして、龍之介に誰にも口外しないように約束させると、緊張した面持ちで秘密を打ち明けた。

 

 亜子は、魔女の血を引いていたのだ。


 龍之介はすぐには信じられなかったが、亜子が目の前でいくつか魔法を見せてくれたので、最終的には信じることができた。まずは、遠くに転がっていた空き缶を、指先を動かしてゴミ箱に入れて見せた。次は指をパチンと鳴らすと、亜子はアゲハチョウに変化(へんげ)した。元の姿に戻ると、今度は龍之介に向かって指をパチンと鳴らした。すると、龍之介は猫に変化した。猫になった龍之介は感動して、公園を走り回り、木に登ったり、飛び降りたりして、ひと通り猫の身体能力を堪能した。そして、もう一度、亜子にパチンと指を鳴らしてもらうことで、元に戻してもらった。走り回って喉が渇いた龍之介は、亜子が持ってきた水筒の飲み物をもらって飲んだ。あの味は今まで飲んだ飲み物の中で一番と言っていいほど美味しかったのを、今でも鮮明に覚えている。もしかしたら、亜子が魔女しか持っていない特別な調味料みたいな何かを入れたのかもしれない。

 あの夏の日から、龍之介は亜子と秘密を共有することになった。そして、その日を境に龍之介はずっと亜子を想い続けてきた。先輩たちの水着姿を見ても、不思議なくらいなんとも思わなくなり、憧れの先輩も夢には出てこなくなった。代わりに、亜子と手を繋いだり、キスしたりする夢を毎晩見るようになった。

 亜子は自分が魔女の血を引いていると知らされたのは、中学に入る直前だったという。母親が魔女の家系で、父親は普通の人間だったので、亜子に魔女の力があるかどうかわからなかったため、両親は黙って見守っていたのだ。ところが、中学に入る前の春休み、亜子が庭に飛んでいる蝶々や水槽で飼っている金魚と会話しているのを見て、母親が亜子の能力に気付いたらしい。亜子も、指摘されて初めて自分の能力を意識したという。亜子は早速、母親に連れられて魔女たちが集う夜の集会に行き、名簿に名前を書き、魔女の登録をした。そうして亜子は、晴れて魔女の一員になったのだ。

 亜子は滅多なことでは魔法を使うことはしなかった。亜子が魔法を使うのは、困っている人を見かけたときだけだった。学校でいじめを目撃した時などは迷わず魔法を使った。亜子は、いじめグループが誰かをいじめるたびに、一人ずつ指の骨を折っていった。彼らが、呪われているのでは、と怯え始めたときに、リーダー格の足を骨折させたことがとどめとなり、いじめグループは解散した。

 あるとき龍之介が、喉が渇いたから魔法でジュースを出してほしい、とお願いすると、「魔法はそんなことのためにあるんじゃない」と、一喝された。そして、こうも言った。

「魔法は世の中を便利にするためにあるんじゃない。同じくらいの力を持った悪いヤツと戦うためにあるんだよ」

 一瞬凛々しい横顔を見せると、なぁんてね、と言ってすぐに二カッと笑った。龍之介は亜子に惚れ直したのと同時に、亜子の正義感が暴走しないように祈った。


 そんな亜子を見ながら育った司は、とても姉思いの弟だった。司は亜子のように魔法は使えないが、実は彼も少しだけ能力を受け継いでいた。司も亜子と同様、人間以外の生き物と話ができる。男子では珍しいことだった。

「今更だけど、龍ちゃんて、姉ちゃんと付き合ってるんだよね?」

 しばらく考え込んでいた司が口を開いたかと思えば、小林と同じようなことを訊いてきたので、龍之介は、またか、と思いながら「付き合ってない」と、吐き捨てるように言った。それから司は無口になり、作業中もほとんど龍之介と口をきかなかった。


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