第一章 はじまりの日
龍になんかなるんじゃなかった――。
後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。後悔は後に立つのだ。龍之介はギリギリと奥歯を噛んだ。
龍にさえならなければ、世界で一番愛しい女を他の男に奪われることもなかったのに。
後悔しても、もう遅いのだけれど。
世間は夏休みになり、大学の図書館は人の出入りがまばらになっていた。御茶ノ水の駿河台にある明日大学の文学部に通う神崎龍之介は、ここぞとばかりに大学の図書館に入り浸り、龍についての資料を読みあさっていた。朝から好きなことに没頭できる幸せを感じながら分厚い本のページをめくる。大学四年生の龍之介は、卒業論文を龍の起源について書くと決めた。龍にテーマを決めたのは、自分の名前に「龍」の字が入っているため、子供の頃から龍に興味があったからだ。大学に進学したのも、龍の研究をしようと思ってのことだった。
気付くと、時計はもう昼の十二時を過ぎていて、朝食を食べていなかった龍之介の胃袋は限界をむかえていた。ずっと座りっぱなしでお尻も痛い。龍之介は体のSOSには逆らえず、読みかけのページに栞紐を挟むと、席を立って資料を元の棚に戻した。
図書館の入り口が見えたところで入館カードを出そうとジーンスのポケットに手を突っ込む。が、何も入っていない。確かに入れたはずなのに、と思いながら左右のポケット、お尻のポケット、しまいには右のポケットの中にあるコインポケットにまで指を突っ込んでみたが、カードがある気配がない。館内に入れたのだから絶対にあるはずだと思い、龍之介は壁際に寄ってしゃがみ込むとリュックの中をあさった。根気強くあさっていると、背中をグッと押され、龍之介は前につんのめってしまった。
誰だ、と思い睨みながら振り返ると、幼馴染の白石亜子が白い歯を見せて二カッと笑っていた。
亜子は龍之介にとって初恋の相手で、この太陽のような笑顔が大好きだった。小学五年生のときに隣の家に引っ越してきた亜子に龍之介は一目惚れした。成長する過程で亜子以外の女子を好きになったこともあったが、結局、亜子に戻る。やっぱり亜子が一番だった。でも、龍之介は一度も亜子に気持ちを伝えたことはない。
緩みかけた頬をグッとこらえ、龍之介は不機嫌そうに舌打ちして、「なんだ、亜子か」といかにも残念そうにつぶやいた。
「なんだ、はないでしょ。せっかく拾ってあげたのに」
見ると、亜子が龍之介の入館カードを指でつまんでひらひらさせている。
「どこにあった? 探してたんだよ」
立ち上がってカードを取ろうとすると、亜子はカードを後ろに隠し、悪戯っぽく笑った。
「その前に、なんか言うことあるんじゃない?」
「なに?」
言いながらずっと亜子の後ろからカードを取ろうと手を伸ばす。その度に亜子は、龍之介の手が届かないように体を反転させていた。
「ありがとう、でしょ。ば~か。そんなことだから内定とれないんだよ」
亜子は早い時期に通信教育の会社から内定をもらっていた。龍之介はまじめに就職活動に取り組んでいなかったので、一つも内定をもらえずにいた。
うるせぇよ、と言う龍之介に亜子は少し頬を膨らませながらカードを投げつけると、さっさと図書館を出て行ってしまった。龍之介は慌ててカードを拾うと、口が開いたままのリュックを閉めて肩にかけ、入り口にある駅の自動改札のような機械にカードをかざしながら、小走りで亜子を追いかけた。
図書館を出ると、建物の角で俯いて立っている亜子の後ろ姿が見えた。怒りながらも自分を待っていてくれたのだと思い、龍之介は微笑みながら近づくと、角の向こう側に、真剣な表情で亜子に話しかけている男が見えた。
亜子が尊敬する准教授だった。まだ三十代半ばで若いのに優秀で、生徒たちからも人気のある先生だ。亜子は商学部の学生で、マーケティングを専攻していて、この先生のゼミに所属していた。
龍之介は彼の名前が思い出せなくて、目を細めて唇を噛みながら必死で思い出そうとしていた。彼は龍之介に気付くと、「やあ」と言って笑顔を作り、龍之介を歓迎する様子を見せた。振り向いた亜子はなんだか寂しそうな、困ったような顔をしていた。龍之介は会釈をしながら二、三歩二人に近づいた。
「君は確か、白石君の幼馴染の神崎君だったね」
違う学部の生徒の名前まで覚えているとは、さすが人気者は違う。龍之介は作り笑いしながら、「はい」と答えた。そんな龍之介に亜子は伏し目がちに冷ややかな視線を送っている。龍之介は、なんだその目は、と言わんばかりに軽く睨んだ。
「よかったら、これから三人でランチに行くのはどうかな? 僕が奢るよ」
龍之介が「はい」と返事をするより先に、亜子が答えた。
「先生、わたしだけならともかく、龍之介まで奢ってもらうなんて悪いです」
そう言うと、亜子は同意を求めるような目で龍之介を見た。龍之介はしかめっ面で亜子を睨み返した。
「大丈夫。こう見えて、結構お金は持ってるほうなんだ」
そう言って笑うと、先生は、「さあ」と言って龍之介と亜子を促した。
図書館は少し高台にあるので、三人は坂の道を話しながらゆっくりと下った。歩きながら龍之介は亜子の袖を引っ張り、彼の名前をこっそり訊いた。「小林肇先生」と、亜子は蚊の鳴くような声で囁いた。そうだ、小林肇だ、と龍之介は黙って手を叩いた。




