第三章 亜子の秘密
バイクに撥ねられたとき、頭の打ち所が悪かったらしく、亜子は今までの人生の記憶を失くしていた。自分の名前も思い出せなかったらしい。当然、家族の顔を見ても、誰だか分からなかったという。それでも、身元が保証されているので、外傷も少なく、内臓系も損傷がなくいたって健康なので、退院を余儀なくされた。
亜子が帰る前に、白石家の人々と家族会議を開き、龍之介のことを亜子に何と言って説明するか話し合った。結果、龍之介は白石家のペットという設定にすることになった。龍之介は亜子の幼馴染で亜子の魔法で龍になり、亜子しか元に戻せないと知ったら、記憶のない亜子が混乱するかもしれないからだ。そうでなくても、家で龍を飼っているなどという状況が現実離れしているので、それだけでも混乱させてしまうかもしれない。龍之介の正体は、亜子の回復の様子を窺いながらタイミングをはかって話すことにした。それまでは、「ペットのリュウちゃん」として亜子に接することになった。
亜子が記憶を失くしたと知り、龍之介は不安から逃れられない日々を送っていた。このまま亜子の記憶が戻らなかったら自分はどうなるのだろうか。二度と人間に戻れないのだろうか。なにか方法はないのだろうか。そんなことばかり考えて時間を過ごした。一度は、亜子の母・郁子になんとかしてほしいとお願いした。郁子は魔女だからなにかできるのではないかと思い、ダメもとでお願いしたのだ。郁子もいろいろと手を尽くしてくれたが、なにも変わらなかった。
龍之介は亜子の記憶が戻るまで、辛抱強く待つことにした。というか、それしかできなかった。唯一の救いは、亜子のそばにいられるということだった。
亜子が帰ってくる日、龍之介はなにもできずにそわそわするだけだった。
亜子に会える。亜子が生きて帰ってくる。帰ってきたら、お帰り、と言ってあげよう……ちょっと待て、と龍之介は思った。
――俺の声は、亜子に聞こえるだろうか?
龍之介は亜子が自分と会話できるかどうかで、自分が人間に戻れるかどうかが決まると思った。会話ができるということは、記憶を失くしても、亜子に魔女の資質が残っているということだからだ。
その反面、会話ができなかった場合のことを考えると、龍之介は恐ろしくて体が震えた。亜子が自分が魔女だと思い出しても、魔女としての資質を失くしていたら、龍之介は二度と人間には戻れないからだ。
龍之介は恐ろしい不安を掻き消すように頭をブルブルと振った。
ちょうどその時、玄関のドアが開き、白石家の人々に連れられて、亜子が帰ってきた。龍之介は、リビングのソファーで固唾を飲んで、亜子が入ってくるのを見守っていた。郁子が誘導しながらリビングに入ってくる。郁子に続いて入ってくる亜子の姿が目に入った途端、龍之介は目を潤ませた。
亜子はソファーに佇む龍之介を見ると、きゃっ、と声を上げて郁子の腕にしがみついた。
「この生き物はなんですか?」
敬語だった。下手物を見るような目で龍之介を見る。
「この子は家のペットよ。珍しいでしょ? 龍なのよ」
郁子は穏やかに答えながら、亜子の背中をさすった。
「龍? 実在したんですか? 本物なんですか?」
亜子は怯えた目で龍之介を見ながら郁子に寄り添って離れなかった。司がすかさずリビングに入ってきて龍之介を抱き上げると、
「この子は龍のリュウちゃん。父さんが社員旅行で群馬に行ったとき、赤城山の大沼で捕まえてきたんだ。姉ちゃんが中学一年生の時だったかな。ね、父さん」
そう言って父の朋生に目配せした。朋生は、「そうだった、そうだった」と言いながらわざとらしく笑った。
龍之介は司の嘘に感心した。いつの間に、そんなエピソードを思いついたのだろうか。ずっと考えていたのか、とっさに思いついたのかはわからないが、いずれにしても、司が話すと妙な説得力があった。
「さ、リュウちゃん、姉ちゃんに挨拶して」
龍之介は司を見た。司も龍之介を見て、黙って頷いた。龍之介は思い切って亜子に話しかけた。
「お帰り、亜子」
龍之介が話しかけた途端、亜子は目を丸くしながら、きゃぁ~、と悲鳴を上げた。
「今のはなんですか? どうして龍がしゃべるんですか? やっぱりわたしがおかしいんですか? 幻聴ですか? 皆さんには聞こえませんでしたか?」
取り乱しながら、再び郁子の腕にしがみついた。龍之介は司と目を合わせると、目を丸くして笑った。郁子も朋生も笑顔になっていた。
亜子には、魔女の資質が残っている。
龍之介と白石家に希望が見えた瞬間だった。
郁子は再び亜子の背中をさすりながら涙を浮かべていた。司が亜子に歩み寄り、
「姉ちゃんが一番かわいがってたんだよ。背中を撫でてごらんよ。ほら」
そう言って龍之介を亜子の前に差し出した。
「それ、本当ですか? 司くん」
怯えながら、亜子は司と龍之介を交互に見た。司が頷くと、亜子は恐る恐る手を伸ばし、龍之介の背中を指でつついた。
「怖がらないで。ちゃんと撫でてよ、亜子」
龍之介が笑いながら言うと、亜子はビクリと手を引いたが、覚悟を決めた顔で歩み寄ると、手のひらでそっと龍之介の背中を撫でた。龍之介が気持ちよさそうな顔をすると、亜子は喜んで、もう片方の手で、猫を触るように龍之介の喉をゴロゴロと撫でた。
その途端、龍之介は銅盤を叩いたような雄たけびを上げ、体を仰け反らせて跳ね上がると、リビングの絨毯の上で体をくねらせながらのたうち回った。外はたちまち豪雨と雷で荒れ狂う空模様になった。頭上では空が割れんばかりの大きな雷鳴が響き、窓には激しい雨が叩きつけている。誰かが悲鳴を上げても誰も気づかないだろう。
白石家の人々は龍之介の悶絶ぶりに何もできずに見守ることしかできなかった。亜子は涙を浮かべながら震え、おろおろしていた。
しばらくして龍之介が落ち着くと、空も呼応したようにおだやかになった。荒い息を整えながら、ぐったりと横たわる龍之介の前で、亜子は泣きながら膝まづいた。
「大丈夫? 何が起こったの?」
龍之介は微笑んで亜子を見た。
「喉は、ダメなんだ」
龍之介は喉にある逆さに生えた鱗を見せて、「逆鱗」の説明をした。これに触れると、死ぬほど痛いのだ、と。
すると、亜子は龍之介を抱き寄せて、ごめんね、と繰り返し謝った。もう大丈夫だよ、と龍之介が言いかけたとき、亜子の龍之介を抱きしめる腕の力が緩んだ。
亜子は龍之介を離すと、急に頭を抱えてうずくまり、唸り声を上げた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
司が駈け寄る。郁子と朋生も心配しておろおろする。そんな白石家の人々をよそに、龍之介は公園で同じ出来事があったことを思い出していた。あのときも、同じように亜子に喉を触られて、のたうち回った。そして、同じ会話をした。亜子は、何かを思い出しかけたのかもしれない。記憶喪失の人が忘れた過去を思い出すような経験をしたとき、頭痛に襲われるのをドラマや映画で観たことがある。龍之介は希望を感じ、司に言った。
「亜子は今、記憶が戻りかけたんだよ。今と同じことを公園で経験してる」
「それホント? 龍ちゃん」
龍之介は自信をもって頷いた。司は両親と目を合わせると、希望をはらんだ笑顔を見せ、亜子をソファーに座らせた。
司と郁子に挟まれて座る亜子が、なんだか小さく見えた。朋生がグラスに水を持ってきて亜子に手渡す。亜子は水を一気に飲むと、一呼吸おいてからすまなそうな表情になった。
「ごめんなさい。急に頭が痛くなってしまって。皆さんにご迷惑をおかけしてしまいました」
郁子は目に涙を浮かべ亜子の肩を抱き寄せると、いいのよ、と言いながら頭を撫でた。




