第三章 亜子の秘密 -2
亜子はしばらく郁子と寝室をともにすることになった。亜子からしたら、知らない家の知らない部屋を自分の部屋だと言われても、なかなか受け入れられず、一人で眠るのが不安だったようだ。昼は自分の部屋に入っても、すぐに出てきてしまう。何かしていないと気持ちが落ち着かないらしく、無理やりにでも家事をこなそうとする。郁子にくつろぐように言われても、リビングでソファーに座ってテレビを見る横顔が不安そうで、少しもくつろいでいない様子だった。まるで、よその家に居候している人のような佇まいだ。
龍之介は、リビングのソファーや絨毯の上で体を落ち着かせながら、一日中、亜子の様子を見守っていた。挨拶を交わす程度で、話しかけることは滅多にしなかった。一緒にソファーに座りテレビを見ているときも、黙って座っていた。チャンネルを替えたい時だけひと言断りを入れた。
そんな毎日を過ごして一週間たったある日の夜、白石家の玄関でチャイムが鳴った。ちょうど夕飯を食べ終わり、後片付けをしている最中だった。
龍之介の両親が菓子折りを持って訪ねてきたのだ。郁子の案内でリビングの入り口から顔をのぞかせた両親は、憔悴しきっていた。父の史郎はまだ平静を保っていたが、母の文佳はゲッソリして一回り小さくなっていた。
龍之介はとっさにソファーの下に隠れた。龍之介が見えないのを確信してから郁子は龍之介の両親をリビングへ通した。
亜子の両親と亜子が並んで座る向かいに龍之介の両親が座った。龍之介は両親のお尻の下にいた。
「この度は、うちの龍之介が大変なことをしてしまいました。亜子さんには何と言ってお詫びをしたらいいか、言葉が見つかりません」
史郎が口を開くと、こんなもので許されるとは思っていませんが、と言いながら菓子折りを出した。同時に、文佳が嗚咽し始めた。ソファーの下の龍之介の前で、母の足が小刻みに震える。胸が締め付けられた。
「お待ちください。わたしたちは龍之介くんが亜子を撥ねた犯人だとは思っていません」
朋生がすかさず言ったので、両親は呆気に取られて一瞬黙ってしまった。すると、お茶を運んできた司が付け加えるように言った。
「そうです。おばさんにこの前言ったじゃないですか。龍ちゃんは犯人じゃないって」
すると文佳は嗚咽を堪えながら答えた。
「でも、あれから龍之介からは何の連絡もないんです。ラインを送っても既読にならないし、もちろん電話なんかありません。わたしからの連絡は一切絶っているみたいなんです。もしかしたら、今頃、警察から逃げ回っているのかもしれません」
言い終わるとせきを切ったように嗚咽し始めた。違うよ、と龍之介は心の中で叫んだ。本当は、俺はここにいる、と言いたかったが、声を発しないように両手で口を押えてじっと身を潜めた。スマホの電源を切って連絡を絶ったために、余計に心配をかけてしまった。だからといって、現状を報告するわけにもいかなかったので、いずれにしても、連絡を絶つことになっただろう。
亜子がおろおろしながら口を開いた。
「あの、その、龍之介くんという人がわたしを撥ねたことになっているんでしょうか?」
「違うよ、姉ちゃん。警察が誤解してるだけだよ。龍ちゃんは犯人じゃない」
司がすかさず否定した。
「じゃあ、わたしを撥ねた犯人は誰なんですか?」
すると、郁子が亜子の肩を抱き寄せて、
「まだ見つかっていないの。あなたが混乱するといけないから、犯人のことは真相が分かるまで黙っていようと思ったのよ。ごめんなさいね」
頬ずりしながら優しく言った。
「どうして皆さんはそこまで龍之介を信じてくださるんですか? 音信不通で一番あやしい行動をとっているのに。もしかして、何かご存じなんですか?」
史郎の問いに、白石家の一同は一瞬沈黙した。まさか、白石家で龍の姿をした龍之介が一緒に暮らしているとは言えるはずがない。司が苦し紛れに口を開いた。
「えっと、それは、最後に龍ちゃんと一緒にいたのが僕だからです。龍ちゃんは僕と別れて電車に乗りました。それから次の駅で降りたとしても、バイクに乗って姉ちゃんを撥ねるまでのことを考えると、物理的に無理なんです。それに、龍ちゃんはバイクどころか原付の免許さえ持ってないじゃないですか。だから、どう考えても龍ちゃんが犯行に及ぶのは絶対に無理なんです」
司のいかにも本当のような嘘の説明を史郎と文佳は信じたらしく、少し冷静さを取り戻したようだった。
「そういうことで、これは受け取れません」
朋生がテーブルに差し出された菓子折りを押し戻そうとすると、郁子がすかさず止めた。
「いいじゃない。せっかくですから、亜子の退院祝いとしていただきましょうよ」
そう言うと、龍之介の両親を見て、
「ね、いいですよね?」
と言って微笑んだ。
龍之介の両親は少しだけ明るい顔になって帰って行った。
龍之介はソファーの下から出てくると、爪でカーテンをめくり、隣の家に帰って行く二人の後ろ姿を見て涙を滲ませた。すると、体がふわりと浮いた。
「おいで、リュウちゃん」
亜子が龍之介を抱き上げたのだ。龍之介は亜子を見上げると、優しさを纏ったような微笑みで見つめられた。こんな顔で笑う亜子は初めてだった。龍之介は亜子に見とれた。
記憶を失う前の亜子が太陽だとすれば、記憶を失った今の亜子は月のようだった。そして月のような亜子にも、龍之介は恋をした。
――やっぱり、亜子はいい。
龍之介は亜子の腕の中で顔を胸にもたれかけた。乳房の柔らかさが頬に伝わり、龍之介は綿あめに包まれたような甘い気分に浸っていた。さっきの暗い気持ちが嘘のように晴れてしまった。
その夜から、亜子は自分の部屋で寝ることになった。そして、どういうわけか龍之介と一緒に寝てみたいと言い出したので、今まで司と寝ていた龍之介は亜子の部屋で寝ることになった。




