第二章 龍之介の受難 -3
亜子は軽く頭を打った程度で大した怪我をしておらず、手術の必要はなかった。ただ意識が戻らずに眠っているが、比較的落ち着いた状態なので、家族は一旦帰宅させられたのだ。容態に変化があったらすぐに連絡がくることになっている。
龍之介は司の部屋で休むことになった。
司はシャワーを浴びて戻ってくると、龍之介の体を拭くために濡れタオルを持ってきてくれた。司にはこういう女性的なところがあった。龍之介はタオルを受け取ると、顔を拭いてから、喉を慎重に拭き、手のひら、お腹、足の順で拭いていった。すると司がタオルを取り、龍之介の背中を優しく撫でるように拭いてくれた。龍の鱗にはタオルの湿り気が心地よかった。龍之介は「司が女だったら好きになってるかも」と冗談を言うと、「そうでしょ」と言って司は笑った。
司がベッドに入ると、龍之介は司の足元で体を丸めた。
「龍ちゃん。なんで僕たち家族が引っ越してきたか、姉ちゃんに聞いたことある?」
司が天井を見つめたまま話しかけてきた。
「あるよ。確か、おじさんの仕事の都合だろ?」
龍之介が答えると、司は二秒ほど間を置いてから、「違うよ」と言った。
「姉ちゃんは、いじめられてたんだ。僕はまだ五歳だったから、あまりよく覚えてないんだけど、あとで母さんからそう聞いた」
亜子は小学一年生から四年生までの間、ずっといじめられていたらしい。それも、よく家に遊びに来ていた三人の女子たちに、陰でいろいろな嫌がらせを受けていたようだ。亜子はそんな自分が恥ずかしくて、両親の前では彼女たちとは仲良しのふりをしていたらしい。ある日、亜子の部屋で彼女たちに、亜子が図工の時間に描いた絵をビリビリに破かれているところを司が目撃し、幼いながら亜子を守ろうと助けに入って大騒ぎになったことで、やっと両親の知るところとなったのだという。両親は泣いて亜子を抱きしめ、すぐに転校の手続きをした。そして、五年生になるのと同時に、亜子は龍之介の隣の家に引っ越してきたのだ。
龍之介は絶句した。そんなこと、亜子はひと言も龍之介に話したことがなかった。そして同時に、亜子の正義感の強さのルーツが自身のいじめられ体験からきていたことを悟った。
「龍ちゃんさ、六年生から姉ちゃんをかばったことがあったでしょ?」
「そんなこと、あったかなぁ」
まだ出会ったばかりの頃のことを言われ、龍之介は懐かしい気分になった。
もともと品川区に住んでいた亜子は、下町の葛飾区の子供たちとは毛並みが違っていた。なんとなく儚げなで可愛らしかった亜子は、六年生の女子から目を付けられ、下校中に待ち伏せされていびられたことがあった。それを龍之介が、「いじめるしか能がないバカどもめ。お前らモテないだろ。ブス」と、言って相手を泣かせたことがあった。これは父の史郎がよく言っていたことを、そのままマネして言っただけだった。史郎は、「モテない女はやっかみでいじめるしか能がなくなる。だから、女のいじめっ子はブスが多い。顔のことじゃなくて、心のブスだ。いいか、龍之介。顔のいい女がモテるわけじゃない。いい女は中身が違う。女は心の目で見ろ。だから俺は母ちゃんを選んだ」と、酒を飲んで帰ってくると口癖のように言っていた。そして決まって母の文佳から「顔のいい女じゃなくて悪かったね」と嫌味を言われたものだった。とにかく、史郎の口上のおかげで亜子にいいところを見せることができ、龍之介は史郎に感謝したのを覚えている。
「姉ちゃん、すごく嬉しかったみたいでさ。まだ幼稚園生の僕を部屋に連れ込んで言ったんだ。『わたし、お隣の龍之介くんが大好きになっちゃった。これは、お父さんにもお母さんにも言っちゃダメだよ。わたしと司の秘密だからね』って。他のことは覚えてないけど、あの時のことは昨日のことのように覚えてる」
その日から亜子は、いじめられていたことが嘘だったかのように活発になり、笑い方まで変わったのだという。
龍之介は胸が熱くなって布団をギュッと握った。そんな前から亜子は、自分を想ってくれていたのかと思うと、涙が滲んできた。どうして今日まで亜子の気持ちに気付かなかったんだろう。自分は亜子の何を見てきたんだろう。龍之介は嬉しさと後悔の入り混じった不思議な気持ちになった。




