歪んだ牙
封鎖門の向こうで響いた唸り声は、一度きりだった。
アルメイダはしばらく鉄扉へ掌を当てていたが、やがて手を離した。門の左右へ守備兵を残し、足元には警報用の鉄管が置かれる。異変があれば槌で叩き、深層採掘区まで音を送るらしい。
切られた支柱と細い縄は、坑道技師が布へ包んだ。
「戻るぞ」
それだけ告げ、アルメイダは来た道へ向かった。
*
中央大坑都へ戻った頃には、すっかり夜になっていた。
執務室へ入るなり、アルメイダは盾を作業台へ横たえた。崩落を受けた縁がわずかに歪み、留め具の一つも浮いている。
槌が金具へ落ちた。
高く澄んだ音が、窓のない部屋へ響く。
リーネは壁へ背を預けたまま、その盾を眺めていた。
「その盾、まだ使ってるんだ」
アルメイダの槌が一度止まる。
「お前らに散々叩き回されたが、まだ現役だ」
リーネの目が、古い傷の残る縁へ落ちた。
「……そっか」
「だから明日も使う」
今度の槌音は、さっきより少し澄んでいた。
湊は机へ広げられた坑道図を見る。
封鎖門の先には、古い線が幾重にも走っていた。水没、地熱、崩落。途中で消えた道もあれば、何の書き込みもない空白も多い。
今日見つけた横穴は、どこにもない。
隠されていた荷路も。
逃げた誰かも。
まだ、何一つ繋がってはいなかった。
クロが肩から机へ降りた。
黒い前足が地図の上を歩き、封鎖門の印のそばで止まる。
「明日は、もう少し面倒になりそうだな」
「やっぱり?」
「獣だけなら分かりやすい」
クロはそこで丸くなった。
尾が湊の指へ触れる。
「それ以外もいる」
槌の音が止まった。
アルメイダは直した金具を灯りへかざし、歪みを確かめる。
「寝ろ」
次の留め具が金床へ置かれた。
*
翌朝。
封鎖門の前には、小さな隊が揃っていた。
アルメイダ。湊とリーネ。クロ、シロ、アカ。昨日も同行した坑道技師が二人に、守備兵四人、治療師一人。
荷車には支柱、縄、薬品、飲み水が積まれている。門のこちら側にも別の兵が残り、退路を守る形になっていた。
アルメイダの盾には昨日の爪痕が残っている。
けれど、歪みは消えていた。
リーネが指先で縁を弾く。
澄んだ音が返る。
それだけ確かめると、アルメイダは大きな鍵を錠へ差し込んだ。
重い音が続き、封鎖門が開いていく。
*
冷たい空気が流れてきた。
昨日より獣の臭いは薄い。代わりに、湿った土と淀んだ水の匂いが強くなっていた。
シロが大きな姿へ戻り、鼻先を低くする。
――ちかく、いない。
少しして、耳が前へ向く。
――においは、ある。
「近くにはいないみたいです。匂いは残ってます」
湊の言葉に、アルメイダが盾を前へ出した。
昨日崩された中央の坑道は、そのまま岩に塞がれている。切られた支柱と縄だけが消えていた。
アルメイダは一度そこを見て、左の水路へ向きを変えた。
坑道技師が長い棒を沈める。深いところでは、ドワーフなら胸近くまである。
水の流れは緩い。
その先には、上へ戻る古い階段があった。
アルメイダが先に水へ入った。
*
冷たさが服を突き抜けた。
石の底は滑り、泥の中へ古い枕木が半分沈んでいる。湊の腰を越えた水が、歩くたび腹へぶつかった。
アルメイダは胸近くまで浸かっている。それでも盾だけは頭上へ持ち上げたまま進んでいた。
シロは銀毛を水面へ広げて泳ぐ。
――つめたい。
「もう少しだ」
――アカ、ずるい。
アカは頭上を低く飛んでいる。
――アカ、ぬれない。
得意そうに胸を張った直後、天井から落ちた水滴が頭へ当たった。
「ピィッ」
赤い羽根が逆立つ。
クロは湊の頭へ移り、前足で髪を掴んでいた。
「揺らすなよ」
「自分で泳げるだろ」
「私は濡れたくない」
「シロは濡れてるぞ」
「シロは狼だ」
理屈になっているようで、なっていない。
湊は小さく息を吐き、頭を揺らさないよう歩いた。
*
水路の途中で、シロが止まった。
鼻先が壁際へ向く。
――くるしい、におい。
アカの炎が小さく揺れた。
クロが湊の頭上で身を起こす。
「止まれ」
アルメイダの足が止まった。
坑道技師が腰袋から細い筒を取り出し、蓋を開ける。中の青い粉が、ゆっくり灰色へ変わった。
「ガスが流れています」
技師の声が低くなる。
壁の換気穴には鉄蓋が被さり、錆びついていた。
アルメイダが片手槌の柄を差し込む。金属が軋んだが、蓋は動かない。
リーネが剣を抜いた。
アルメイダは蝶番を指した。
銀色の刃が一度だけ走る。
錆びた金具が落ちた。
盾で押すと鉄蓋が奥へ倒れ、黒い埃と冷気が噴き出す。アカの炎が横へ流れ、すぐに小さくなった。
閉じ込められていた空気が、縦穴へ吸い上げられていく。
しばらくして、筒の粉が青さを取り戻した。
アルメイダが再び歩き出す。
リーネも剣を鞘へ戻した。
言葉はなかった。
それでも、二人の足並みはほとんど同時だった。
*
古い階段を上がる頃には、濡れた服が肌へ張りついていた。
階段の先は狭い作業場だった。壁際に壊れた送風機があり、中央の軌道へ戻る扉は半分だけ開いている。
アルメイダが手をかけた。
すぐに止まる。
扉の向こうへ細い鎖が張られ、その先が天井へ伸びていた。
坑道技師が床へ伏せ、隙間から魔石灯を差し込む。
光の先で、大きな岩が吊られている。
扉を押し開けば、落ちる。
昨日とよく似た仕掛けだった。
リーネが剣へ手を伸ばしかけると、アルメイダが首を振る。
坑道技師たちは縄を出し、鎖へ引っかけた。離れた支柱へ回し、守備兵が少しずつ荷重を受ける。
天井の向こうで、岩が擦れた。
低く、長い音。
やがて大きな岩が扉の外へ落ちた。
土煙が流れ込む。
シロが前足を動かし、弱い風で押し返した。
開いた先には、岩一つと、人が通れる隙間が残っている。
アルメイダは落ちた岩を見下ろした。
「急ごしらえだな」
リーネも天井を見た。
「昨日のあとで作ったのかもね」
アルメイダの盾が前へ出る。
足取りが、少しだけ速くなった。
*
古い坑道は何度も分かれた。
水没した道。地熱で赤く焼けた空洞。底の見えない縦穴。古い地図と《マッピング》を重ねても、先まで一本に繋がる道はない。
シロの鼻と、床に残る痕跡を拾いながら進んだ。
泥の中に残る車輪跡。
新しく油を差された分岐器。
擦れて錆が落ちた軌道。
捨てられたはずの坑道の中で、そこだけがまだ使われていた。
前方から、温かい風が吹いた。
獣の臭いが混じる。
シロが足を止め、銀毛を逆立てた。
――くる。
《マッピング》の端へ光点が一つ入った。
速い。
まっすぐ近づいてくる。
「前です」
アルメイダが盾を石床へ落とした。
次の瞬間、暗闇から黒い塊が飛び出した。
*
四本の脚が石を蹴り、坑道に棲む大蜥蜴に似た巨体が一気に距離を詰めた。湊の背を越える体は不自然に膨れ、肩から黒い突起が伸びている。首には太い金属輪、その後ろには赤く明滅する小さな箱が食い込むように取りつけられていた。
蜥蜴が盾へ激突した。
鉄が鳴り、アルメイダの靴が一歩だけ滑る。だが次の瞬間には盾を斜めへ捻り、突進の勢いを壁側へ流していた。
リーネが空いた脇へ踏み込む。肩の黒い突起へ剣を当てるが、硬い音とともに刃が弾かれた。
「金属が入ってる!」
突起の根元から、細い管が皮膚の下へ伸びている。
蜥蜴が頭を振り、濁った目を湊たちへ向けた。口から泡を飛ばしながら向きを変えたところへ、湊は足元の影を伸ばして後ろ脚へ絡める。
一瞬だけ止まった。
それで十分だった。
シロの前足が動き、風が石床すれすれを走る。足元を払われた巨体が傾くと、アルメイダが前へ出て盾で肩を押し返した。
蜥蜴は倒れず、尾を横薙ぎに振るう。
湊が影を解いて身を引く。
直後に盾が割り込み、尾を受け止めた。重い衝撃が坑道へ響き、アカの炎が反射するように膨らむ。
――アカも!
「火は使うな!」
さっきのガスが頭をよぎった。
アカは翼を震わせながら炎を抑え、そのまま高く上がって赤い光だけを強めた。
照らされた首の後ろ。
小さな箱から伸びる管が、黒い突起と背中へ繋がっている。
「リーネ、首の後ろ!」
「見えてる!」
アルメイダが盾を低く構えた。
蜥蜴がまた突っ込む。
今度は真正面で受けず、爪を盾の面へ滑らせて頭を壁側へ逸らした。巨体が岩へぶつかり、坑道が揺れる。
その一瞬にリーネが入った。
銀の刃が走る。
狙ったのは首ではない。
黒い箱と首輪を繋ぐ金具だけが飛んだ。
赤い光が消える。
蜥蜴の体が激しく跳ね、爪が石を掻いた。口が開いたが声は出ず、四肢から一気に力が抜けて、その場へ崩れ落ちた。
*
すぐには近づかなかった。
蜥蜴の腹は、浅く上下している。
アルメイダが盾を構えたまま横へ回り、頭側へ入った。
湊は首へ残った輪を見る。
皮膚は赤黒く腫れ、金属の縁が肉へ食い込んでいる。リーネが断ったのは外側の留め具だけで、輪そのものは残っていた。
治療師が近づく。
蜥蜴の前脚が僅かに動いた。
アルメイダの盾が下がり、頭を押さえる。
「今だ」
坑道技師が輪の継ぎ目へ工具を入れた。
楔を打つ。
一度。
二度。
金属が割れた。
輪が開く。
蜥蜴の爪から、ゆっくり力が抜けた。
濁った目が閉じる。
治療師が首元へ手を伸ばした。
「かなり弱っています」
その指が止まる。
輪の下に、古い傷があった。
一つではない。
似た形の痕が、何重にも重なっている。
外されては、また付けられたように。
アルメイダは割れた金属輪を拾い、裏側を見た。
細い溝。
埋め込まれた魔石。
肉へ触れる位置に並ぶ、小さな針。
片手槌を握る指が、僅かに強くなる。
「……こんなものを」
それ以上は言わなかった。
輪を布へ包む。
*
蜥蜴の意識は戻らなかった。
治療師が首の傷へ薬を塗り、布を巻く。大きな体を荷車へ載せると、半分近くがはみ出した。
アルメイダは守備兵二人と治療師を戻した。
「生きているうちに上へ運べ」
荷車が来た道へ動き始める。
残る人数が減った。
それでも、暗い坑道の奥から風は吹いている。
リーネが回収した首輪へ目を落とした。
「同じのが、ほかにもいそうだね」
湊が答える前に、シロの耳が立った。
鼻が前方へ向く。
――いる。
一歩だけ前へ出る。
銀毛が逆立つ。
――ひとつじゃない。
暗闇から、爪が石を擦る音が届いた。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
さらに下の坑道からも、短い唸り声が重なる。
アルメイダが盾を握り直した。
表面には、さっきの蜥蜴が残した新しい爪痕が走っている。
リーネの剣がゆっくり上がった。
暗闇の奥で、赤い光が一つ灯る。
続いて、もう一つ。
その後ろにも。
湊は無銘へ手をかけた。
アカの炎が、音もなく少し大きくなった。




