音のない風
カウンターへ戻ると、眼鏡の女性が依頼書を広げてくれた。
「午後の依頼ね。農地の害獣駆除。東の麦畑を荒らしてる穴鼠を退治してほしいって、農家のおじさんから」
「穴鼠」
「地面に穴を掘って巣を作る魔物よ。体は犬くらい。牙が鋭いから噛まれると厄介だけど、一匹ずつなら角兎より弱いわ。ただ、穴の中にいるから見つけるのが面倒なの」
報酬は三匹で銅貨六枚。巣穴まで潰せば、さらに二枚。
「受ける」
「場所は東門を出て、街道を南に折れたところ。麦畑が見えたら、そこの農家に声をかけて」
湊は依頼書を受け取った。まだ文字は読めない。けれど、場所と内容は頭に入っている。
ギルドを出た。
昼過ぎの交易街は人が多かった。荷車が道を塞ぎ、御者の怒鳴り声と車輪の軋む音が重なっている。その隙間を縫って東門へ向かう間も、肩の上のクロは黙ったままだった。
図書室を出てから、一言も喋っていない。
目は閉じている。けれど眠ってはいなかった。小さな体の硬さが、肩越しに伝わってくる。
湊も聞かなかった。
今は聞かない。
そう決めた。
東門を抜けると、人の声が遠ざかった。
午後の日差しは強い。風に揺れる草の向こうで、黄色い麦畑が光っている。
湊は街道の脇で足を止めた。
右手の甲には、朝からずっと淡い紋様が浮かんでいる。
「——ここで引く」
クロが目を開けた。
「依頼の前か」
「ああ。使えるものなら、今から試せる」
右手を握り、紋様へ意識を向ける。
引く。
光が脈打った。
手の甲から腕へ。肩を抜け、頭の奥まで何かが走る。
意味が流れ込んできた。
——音操。
湊は目を開けた。
手の中には何もない。短剣の時とは違う。昨日の《隠密》と同じで、体の内側へ新しい感覚だけが刻まれていた。
「……音操」
「音を操る力か」
クロの声が、少しだけいつもの調子に戻った。
「何ができる」
湊は自分の中へ意識を向ける。
「自分の近くの音を消せる。それと……音を動かせる」
「動かす?」
「ここにある音を、別の場所に置く。そんな感じだ」
「範囲は」
湊は腕を伸ばした。
感覚が届くのは、その先くらいまでだった。
「このくらい」
クロの耳が立つ。
「悪くない」
「またそれか」
「昨日の《隠密》を思い出せ。気配は消せても、足音や息までは消えなかった」
湊は頷いた。
「音操で消せる」
「そうだ」
クロは麦畑の方を見た。
「試してみろ。説明を聞くより早い」
「そのつもりだ」
湊は街道を南へ折れた。
麦畑の端に、小さな家があった。
石の壁に藁の屋根。家の前では、日に焼けた老人が鍬を持って立っていた。
「ギルドから来た。穴鼠の駆除だ」
老人の目が、湊の顔から装備へ動く。
「……あんたが?」
不安そうだった。
無理もない。登録したばかりの若者にしか見えない。
「あっちだ。南側。穴がいくつも開いとる。夜になると出てきて、麦を根っこから齧っていく」
「三匹いると聞いた」
「少なくとも三匹は見た。もっといるかもしれん」
湊は頷き、畑へ入った。
麦の穂は腰の高さまであった。
乾いた葉が革の上着を擦る。青臭い匂いの中を進むと、南側の地面に掘り返された土が見えた。
穴が四つ。
周囲の麦は根元から齧られ、倒れている。
「ここだな」
肩の上で、クロの耳が動く。
「地下で繋がっているかもしれん。昼なら中にいる」
「引きずり出す」
湊は穴の前へしゃがんだ。
《音操》へ意識を向ける。
さっきまでそこになかった音を、穴の奥へ置く。
小石が転がるような音。
からり。
穴の中で何かが動いた。
土を擦る音が近づいてくる。
「来るぞ」
湊は三歩下がった。
《隠密》。
自分の気配が薄れる。
続けて《音操》。
足元から、音が消えた。
革が擦れる音も、呼吸もない。風が麦を揺らす音だけが残り、自分だけがそこから抜け落ちたようだった。
穴から灰色の頭が覗く。
犬ほどの大きさ。太い胴に短い脚。下顎からは、二本の牙が突き出している。
穴鼠は周囲を見回した。
湊へは気づかない。
鼻が動く。
——匂いは消えない。
風は、穴鼠の方へ流れていた。
小さな目がこちらへ向く。
その前に、湊は踏み込んだ。
地面を蹴ったはずなのに、音がない。
穴鼠が顔を上げた時には、短剣が首へ届いていた。
一匹目が倒れる。
直後、穴から二匹目が飛び出した。
血の匂いに反応したのか、迷わず湊の足元へ突っ込んでくる。
横へ避ける。
牙が空を噛んだ。
振り返りざまに背へ短剣を入れる。灰色の体が土の上へ倒れた。
二匹。
穴の奥から、まだ音がする。
湊は入口へ片手を向けた。
今度は、地面を強く叩くような音を奥へ置く。
どん。
甲高い鳴き声。
三匹目が飛び出す。
その後ろから、もう一匹。
「四匹!」
二匹が同時に来た。
一匹目の牙を短剣で弾き、そのまま喉を裂く。
横から四匹目。
間に合わない。
黒い影が肩から飛んだ。
クロが穴鼠の顔へ張りつく。小さな爪が目元を引っ掻き、穴鼠が頭を振った。
できた隙へ、湊は短剣を突き込んだ。
灰色の体が動かなくなる。
静かになった。
《隠密》と《音操》を解く。
途端に、自分の荒い息が耳へ戻ってきた。
頭の奥が重い。視界の端もわずかに暗い。
「……二つ同時は疲れるな」
クロが地面へ降り、毛についた血を舐める。
「最初から無理をするな。だが、使い方は悪くなかった」
「最後は助けられた」
「四匹いると先に分かっていれば違った。次は数を確かめろ」
「ああ」
湊は腰を落とし、穴鼠の牙を回収し始めた。
巣穴は四つとも、土と石で埋めた。
クロが耳を澄ませ、周囲を見回す。
「もういない」
畑の端へ戻ると、老人が待っていた。
「終わった。四匹いた。巣穴も潰した」
「四匹……?」
老人は自分の目で確かめに行った。
戻ってきた時、その顔から最初の不安が消えていた。
「ありがとう。助かった。本当に」
深く頭を下げられる。
湊は少し困った。
礼を言われることには、まだ慣れない。
「仕事だから」
「それでもだ」
老人の手は、鍬を握り続けて硬くなっていた。
湊はそれ以上何も言えず、軽く頭を下げて畑を離れた。
夕方の街道を歩く。
風に麦が揺れる音が、背中の方へ遠ざかっていく。
「クロ」
「なんだ」
「音操、使えそうだ」
「ああ」
肩の上で、尻尾が一度揺れた。
「気配を消して、音も消す。それに、音で相手を動かせる。正面から殴り合うより、お前にはそちらの方が合う」
湊は腰の短剣へ触れた。
四日前には、何も持っていなかった。
今は短剣がある。
気配を消せる。
音を消せる。
そして、相手を動かすこともできる。
「……まだ足りない」
「当然だ。四日で完成してたまるか」
少しだけ、口元が緩んだ。
ギルドで依頼の完了を報告した。
穴鼠四匹。巣穴も駆除済み。
「追加分も含めて銅貨十枚。巣穴の分で二枚。合計十二枚ね」
銀貨一枚と銅貨二枚が、カウンターへ置かれる。
昨日の残りと合わせれば、銀貨二枚と銅貨三枚。
眼鏡の女性が硬貨を渡しながら言った。
「ミナトくん、そろそろ宿を取ったら? ギルドの椅子で寝るのも限界でしょう」
「……そうだな」
「この近くに安い宿があるわ。一泊銅貨五枚。朝食付き」
湊は肩のクロを見る。
クロが小さく頷いた。
「そこにする」
宿は、ギルドから通りを二つ入ったところにあった。
小さな木の看板が軒先で揺れている。何と書いてあるのかは、まだ読めない。
銅貨五枚を払い、二階の部屋へ通された。
狭い。
寝台が一つ。窓が一つ。小さなテーブルと椅子。それだけだった。
でも、寝台があった。
湊は腰を下ろす。
少し硬い。
それでも、ギルドの椅子とは比べものにならない。背中を預けると、張っていた筋肉がゆっくり緩んでいく。
クロが毛布へ飛び乗った。
くるくると二度回ってから、真ん中で丸くなる。
「……悪くない」
「ああ」
靴を脱ぎ、湊も横になる。
木の天井には染みがあった。
壁がある。
屋根がある。
鍵のかかる扉がある。
ふと、地下牢の石床を思い出した。
冷たさ。
暗さ。
今いる場所には、窓から夕方の光が差している。
毛布の上をクロが歩き、脇腹へ体を寄せた。
温かい。
「湊」
「なんだ」
「今日の使い方。穴の中へ音を置いたやつだ」
「ああ」
「説明された通りに使うだけじゃなく、自分で試した」
湊は天井を見た。
「追い出した方が楽だと思っただけだ」
「それでいい」
クロの声は静かだった。
「力を持っていても、使い方まで勝手に決まるわけじゃない」
湊は返事をしなかった。
元の世界では、考えることをやめていた。
何を考えても、失ったものは戻らない。
だから、考えなくなった。
今は違う。
明日の依頼。
覚えかけの文字。
次に何が出るのか。
考えることが、少しずつ増えている。
「クロ」
「なんだ」
「明日、図書室に行く」
脇腹に触れていた小さな体が、僅かに強張った。
「……文字の続きか」
「ああ。十二覚えた。あと二十四」
沈黙。
やがて、クロが毛布へ顎を落とした。
「……好きにしろ」
止めはしなかった。
湊は目を閉じる。
銀色の髪。
薄い紫の瞳。
クロがあれほど怯えた相手。
それでも、文字を教えてくれた。
明日、もう一度会う。
四日目の夜。
湊はこの世界へ来て初めて、寝台の上で眠った。




