白銀の少女
朝のギルドで目を覚ました。街に来て四日目。
体の痛みは、だいぶ減っていた。肩の傷はまだ疼くが、首や背中の強張りは昨日より軽い。硬い椅子で眠ることにも、体が少しずつ慣れてきたらしい。
膝の上では、クロが丸くなっている。湊が身じろぎすると、片方の金色の目だけが開いた。
「……早いな」
「日が出たら起きる。癖になった」
窓から入る朝の光の中で、右手の甲が淡く光っていた。
引ける。
体のどこかが、そう告げている。
昨日までは朝になれば紋様が脈打ち、意味が流れ込んできた。今日は違った。光ってはいるが、待っている。湊が手を伸ばすのを。
少し考えて、手を下ろした。
「今日は引かない」
クロが顔を上げる。
「なぜだ」
「午後に依頼を受ける。その前に引く。何が出るかわからないなら、使う直前の方がいい」
金色の目が、わずかに細くなった。
「……お前、考えるようになったな」
「馬鹿にしてるのか」
「褒めている」
湊は立ち上がった。
カウンターには、眼鏡の女性がいつもの場所にいた。
「おはよう、ミナトくん」
「おはよう。図書室は、もう使えるか」
「ええ。二階の突き当たり。鍵はかかってないわ。教本は棚の一番下の段にあるから」
礼を言って、階段を上がる。
二階へ来ると、一階の喧騒が急に遠くなった。狭い廊下には窓が少なく、古い壁には染みが残っている。足音だけが、乾いて響いた。
突き当たりの扉を開けた。
図書室と呼ぶには、小さな部屋だった。
木の棚が三つ。テーブルが一つ。椅子が四脚。窓から差し込む朝の光に、細かな埃が浮かんでいる。
先客がいた。
窓際の椅子に、少女が座っている。
腰まで届く銀色の髪が、朝日に白く透けていた。小柄な体で椅子に深く腰掛け、膝の上には分厚い本を開いている。
耳が長い。
横へ伸びた尖った耳を見て、クロから教わった種族の名が浮かんだ。
——エルフ。
少女は本から目を上げなかった。
湊は棚へ向かう。一番下の段を探したが、背表紙の文字が読めない。一冊ずつ抜いて中を確かめ、絵の多い本を選んだ。
他に空いた場所もなく、少女の向かいへ座った。
最初の頁には、丸い果物の絵。その横に、一つの文字が書いてある。
意味はわからない。
湊は形を覚えるように、指先でテーブルをなぞった。
クロが肩から降り、教本の横へ座る。
「その文字は『実』だ。果実の実。この世界の共通文字は、表意文字と表音文字が混ざっている。先に表音文字を覚えろ。三十六だ」
「三十六か」
「一日六つなら、六日で終わる」
頁をめくると、三十六の文字が並んでいた。
湊は最初の六つを指でなぞる。形を見る。指で書く。小さく音を口にする。
静かな時間だった。
窓の外では街の音が遠く聞こえる。紙をめくる音と、時折クロが口を挟む声だけが部屋に残った。
「その線は右から左だ」
「逆だった」
「もう一度」
六つ目の形が頭に入った頃、向かいから声がした。
「ねえ」
湊は顔を上げた。
銀髪の少女が、こちらを見ていた。
薄い紫の瞳。澄んだ色だった。整った顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「その猫、喋るの?」
湊の手が止まった。
クロを見る。
黒猫は教本の横で丸くなったまま動かない。ただ、尻尾の先が一度だけ揺れた。
「……聞こえたのか」
「うん。小さい声だったけど。書き順がどうとか」
少女は本を閉じ、膝の上へ置いた。
「珍しいね。喋る猫。使い魔?」
「……まあ、そんなところだ」
クロは目を閉じた。寝たふりらしい。
けれど、小さな体はさっきまでより硬かった。
少女が首を傾げる。銀の髪が肩から流れた。
「文字、覚えてるの?」
「ああ」
「冒険者?」
「……一応」
「一応?」
小さく笑う。
嘲るような響きはなかった。ただ、何か面白いものを見つけたような笑い方だった。
「登録したばかりなんだ。ねえ、名前は?」
「……湊」
「ミナト。変わった名前。この辺りの人じゃないね」
「遠くから来た」
「ふうん」
薄い紫の目が、湊の顔から手元へ動いた。
長く見られていると、少し落ち着かない。
「君は」
「リーネ」
「リーネ。エルフか」
「うん。エルフ」
それだけだった。
聞かれたことにだけ答える。その感じには、湊にも覚えがあった。
リーネが教本へ目を落とす。
「文字、教えてあげようか」
「……いいのか」
「暇だから。この本、三回目なの。もう覚えちゃった」
椅子から降り、湊の隣へ椅子を運んでくる。
立つと、湊より頭一つ分ほど小さい。子供のような体つきなのに、椅子を動かす足取りには妙な軽さがあった。
リーネは教本を覗き込む。
「ここまで覚えたの? 六つ。早いね」
「まだ三十残ってる」
「大丈夫。表音文字は形に規則があるの。似た音は、似た形をしてるから」
白く細い指が、文字の上を滑った。
「この六つは唇を使う音。だから上が丸いでしょう? 次の六つは舌を使う音で、上が尖ってる」
湊は文字を見比べた。
「……本当だ」
「でしょう? 作った人、けっこう親切なんだよ」
リーネが笑う。
さっきまで静かに本を読んでいた顔が、その時だけ少し幼く見えた。
説明はわかりやすかった。
形の理由がわかると、丸暗記するより頭に残る。
七つ目。八つ目。九つ目。
「その音、もう少し舌を上に。——そう、それ」
発音まで直してもらう。
クロはテーブルの上で丸くなったまま、一度も口を開かなかった。
寝ているように見える。
けれど、耳だけはずっとリーネの方を向いていた。
十二文字まで覚えたところで、湊は手を止めた。
「ありがとう。助かった」
「もう行くの?」
「午後から依頼がある」
「そっか」
リーネが頬杖をつく。
「ねえ、ミナト」
「なんだ」
「また来る?」
「……文字を覚えるまでは来る」
「じゃあ、また教えてあげる。明日も朝?」
「たぶん」
「あたしもたぶん、いるよ」
湊は教本を棚へ戻した。
クロを肩へ乗せる。
小さな爪が、服越しに肩へ触れた。
「じゃあ」
「うん。気をつけてね、ミナト」
図書室を出た。
扉が閉じる。
薄暗い廊下を歩き始めたところで、クロの爪が深く食い込んだ。
「——湊」
低い声だった。
図書室では一度も出さなかった声。
「あの女に近づくな」
湊は足を止めた。
「……なぜだ」
「理由は言えない。だが、あれは——お前が関わっていい存在じゃない」
声が震えていた。
湊は肩のクロを見る。
金色の目は大きく開き、瞳孔が細くなっている。
クロがここまで怯えているのを、初めて見た。
森の巨大な魔物を前にした時も、母蜥蜴との戦いでも、クロはこんな目をしなかった。
「……クロ」
「頼む。あの女には近づくな」
しばらく黙った。
「……わかった。今は聞かない」
肩へ食い込んでいた爪から、少し力が抜ける。
「でも、クロ」
「なんだ」
「いつか、話してくれ」
返事はなかった。
クロは肩の上で、小さく丸くなった。
湊は階段へ向かう。
一段目へ足をかけた時、何となく振り返った。
廊下の奥。
図書室の扉が、ほんの少し開いていた。
隙間に、薄い紫の瞳がある。
湊ではない。
肩の上のクロを見ていた。
やがて、その口元がわずかに上がった。
面白いものを見つけたような顔だった。
湊は前を向いた。
階段を下りると、一階の声と酒の匂いが戻ってくる。
午後の依頼を受けるため、カウンターへ向かった。




