明日が楽しみだと感じること
目を覚ましたのは、誰かがテーブルを叩いた音だった。
ギルドの隅の席。腕を枕にして眠っていたせいで、首が痛い。肩の傷も、寝ている間に固まったように鈍く疼いていた。
膝の上ではクロが顔を上げ、金色の目を眠そうに細めている。
朝のギルドは静かだった。夜通し飲んでいた冒険者たちは帰ったか、まだテーブルに突っ伏している。窓から差し込む光の中を、細かな埃が漂っていた。
右手の甲が脈打った。
湊は手を見る。昨日と同じ、一昨日と同じ光だった。
三回目。
声でも文字でもない意味が、頭の中へ直接流れ込んでくる。
——隠密。
湊は眉を寄せた。
短剣のように何かが現れたわけではない。代わりに、体の内側へ薄い膜でも増えたような感覚が残った。
「……何が出た」
クロが膝の上から見上げている。
「隠密」
「ほう」
「気配を消す技能、らしい」
手を開いて、閉じる。見た目には何も変わらない。
「使い方は?」
「まだわからない。気配を消す。それだけ」
クロはしばらく湊を見つめた。
「悪くない」
「そうなのか」
「昨日の母蜥蜴を忘れたか。お前の武器は短い。斬るなら相手へ近づくしかない」
言われて、肩へ手が伸びた。包帯の下で傷が疼く。
「気づかれずに近づけるなら、それだけで一撃目が変わる。派手ではないが、お前には合っている」
クロは膝の上で伸びをした。小さな背が弓なりになる。
「試すぞ。依頼を受けろ」
湊は立ち上がった。
体のあちこちが軋んだ。そして腹が鳴った。
銅貨は一枚も残っていない。
カウンターへ向かうと、昨日と同じ眼鏡の女性がいた。
「おはよう、ミナトくん。早いわね」
「依頼をくれ」
「朝ごはんは?」
「……まだだ」
女性が小さく笑い、カウンターの下から干し肉を一切れ出した。
「サービス。昨日の母蜥蜴のお礼。あの素材、状態がよかったから」
「いいのか」
「いいの。食べないで倒れられる方が困るわ」
湊は干し肉を受け取った。硬いが、噛むと塩気と肉の味が広がる。半分を千切ってクロへ渡すと、当然のように食べた。
「今日の依頼は、また薬草採取もあるけど」
「他には?」
「討伐なら角兎ね。東の畑を荒らしてるって農家から来てる。五匹で銅貨八枚。耳を証拠に持ってきて」
「それにする」
女性が依頼書を一枚取り、内容を読み上げてくれた。文字の読めない湊には、それだけでもありがたかった。
「角兎は弱いけど、群れだと面倒よ。気をつけて」
湊は頷き、ギルドを出た。
東門の外には、朝露の残る草原が広がっていた。
昨日と同じ場所なのに、朝の空気は冷たく澄んでいる。草の先に溜まった水滴が、陽を受けて細かく光っていた。
「さて」
肩の上でクロの耳が立つ。
「隠密を試せ。気配を消す感覚を探るんだ」
「どうやって」
「お前の中に刻まれた力なら、きっかけさえ掴めば体が知っている」
湊は足を止め、目を閉じた。
気配を消す。
意識してみる。
何も起きない。
「……わからない」
「なら歩け。考え込むより、獲物を前にした方が早い」
湊は目を開けた。
草を分けて進む。風が頬を撫で、新しい革の上着を鳴らした。腰の短剣は、昨日より少しだけ馴染んでいる。
しばらくすると、クロの耳が動いた。
「止まれ。前に三匹いる」
湊も目を凝らす。草の低いところが、微かに揺れていた。
「角兎か」
「ああ。額の角に気をつけろ。小さいが、まともに受ければ深く刺さる」
湊は短剣を抜いた。青い紋様が淡く光る。
「正面から近づけば逃げる。やってみろ」
「ああ」
もう一度、意識を沈める。
気配を消す。
自分を小さくするのとは違う。息を止めるのでもない。
草の匂い。土の湿り気。頬を撫でる風。
その中へ、自分の存在だけを沈めていく。
ふっと、感覚が変わった。
見えるものは同じだった。体も消えていない。
なのに、自分の輪郭だけが周囲から一歩遠ざかったような、不思議な感覚がある。
「……それだ」
クロの声が低くなる。
「姿は見えている。だが、気配がほとんどない」
湊は草の中へ入った。
足音までは消えない。踏めば草が鳴るし、荒く息をすれば聞こえる。
だから、ゆっくり進んだ。
濡れた草を避け、土の柔らかいところへ足を置く。呼吸を浅くする。
やがて角兎が見えた。
三匹。灰色の毛並みに、大きな耳。額から短い角が伸びている。草を食みながら、時折耳を動かしていた。
五歩。
四歩。
三歩。
耳は動く。だが、湊へは向かない。
二歩。
一匹の真後ろへ入った。
短剣を振り下ろす。
刃が首を断った。
残る二匹が跳ねる。
何が起きたのか探すように首が動いた。その一瞬に二匹目へ踏み込み、横から短剣を走らせる。
二匹目が倒れた。
三匹目がようやく湊を捉えた。
地面を蹴り、角を突き出してくる。
半歩ずれる。
角が脇を抜けた。
振り返りざまに短剣を突くと、角兎は草の上へ転がった。
静かになった。
三匹。
昨日の母蜥蜴とは比べものにならない相手だ。それでも、正面から追い回すよりずっと早かった。
湊は短剣についた血を払い、自分の手を見る。
「……すごいな」
「ああ」
クロも倒れた角兎を見ている。
「気配はきれいに消えていた」
そこで、頭の奥に薄い重さがあることに気づいた。
隠密を解く。
僅かに息が漏れた。
「少し疲れる」
「最初から長く使うな。感覚を覚えればいい」
クロの声はそれだけだった。
湊は頷き、角兎の耳を切り取った。
「角も取れ。薬の材料になる」
「売れるのか」
「三本で銅貨一枚くらいにはなる」
耳と角を革袋へ入れる。
立ち上がると、朝露はほとんど乾いていた。
「クロ」
「なんだ」
「さっき、草の中に三匹いるってわかったよな」
「それがどうした」
「見えてなかった」
クロが黙った。
ほんの一拍だった。
「匂いと音。それに、草の揺れ方だ」
「それだけ?」
尻尾の先が揺れる。
「……私は、生き物が持つ力の大きさもある程度わかる。近くにいればな」
湊は肩のクロを見た。
「普通の猫には?」
「できん」
「やっぱり普通じゃないな」
「今さらか」
クロは前を向いた。
それ以上は話す気がないらしい。
湊も聞かなかった。
今はそれでよかった。
「残り二匹」
「ああ。南に気配がある。行け」
湊は南へ歩き出した。
もう一度、隠密を意識する。
今度はさっきより早く、輪郭が薄くなる感覚を掴めた。
四匹目と五匹目は、離れた場所に一匹ずついた。
気配を消し、音を立てないよう近づく。二匹とも、湊が間合いへ入るまでこちらを見なかった。
五つの耳と角を革袋へ収めた頃でも、太陽はまだ高かった。
「早いな」
「昨日よりずっと」
「なら帰るか」
湊は草原を見渡した。
少し先で、青い花が風に揺れている。
「まだ時間がある。薬草も採っていく」
「依頼外でも買い取ってくれる」
「じゃあ、少しだけ」
七本集めたところでやめた。
もう少し探せば見つかりそうだったが、昨日のように帰りが日暮れになる必要はない。
採取袋を肩へ掛け直す。
体力も残っていた。
昼下がりのエルダは、人の声と荷車の音で満ちていた。
昨日の夕暮れとは違う街に見える。店先から香辛料の匂いが流れ、呼び込みの声が道の向こうまで響いていた。
ギルドへ戻ると、眼鏡の女性が目を丸くした。
「早いわね。もう終わったの?」
湊は角兎の耳を五つ並べる。
「依頼達成。五匹で銅貨八枚ね」
続いて角を五本、ルリ草を七本。
女性は慣れた手つきで確認していく。
「角が銅貨二枚。ルリ草が銅貨三枚。全部で銅貨十三枚——銀貨一枚と銅貨三枚ね」
昨日ほどではない。
でも、ちゃんと自分で稼いだ金だった。
湊は硬貨を受け取った。
「昨日の今日で、もう随分慣れたわね」
「まだ二日目だ」
「だから言ってるの」
女性は笑ったあと、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、ミナトくん。文字は読める?」
「……読めない」
「やっぱり」
カウンターの奥を指さす。
「二階に小さい図書室があるの。文字の教本も置いてあるわ。冒険者なら自由に使えるから、時間がある時に覗いてみたら?」
「……ありがとう」
今度は依頼書を、自分で読めるようになるかもしれない。
そのことを考えながら、湊はギルドを出た。
昨日と同じ屋台へ行く。
太った男が、今日も鉄板で肉を焼いていた。脂の弾ける音と匂いだけで腹が鳴る。
「おう、昨日の兄ちゃん。今日も全部か?」
「串焼きとパン。スープはいい」
銅貨二枚。
昨日より、一枚残せる。
串焼きを一口齧り、クロにも肉を分ける。
銀貨一枚と銅貨一枚。
全財産を確かめてから、湊はもう一口食べた。
昨日より、肉の味がよくわかった。
昨日は腹へ押し込むように食べた。
今日は、噛んで味わえる。
「……うまい」
同じ言葉だった。
でも、昨日とは少し違った。
膝の上で、クロが喉を鳴らす。
「明日は何が出ると思う」
「さあ。考えてもわからない」
「楽しみか」
湊は串を持ったまま、少し考えた。
明日も仕事をする。
文字も覚えられるかもしれない。
右手の紋様からは、また何かが与えられる。
明日。
その言葉が、嫌ではなかった。
「……ああ。楽しみだ」
この世界に来て、初めて口にした言葉だった。
クロの金色の目が細くなる。
笑っているのだと、今の湊にはわかった。




