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初めての銀貨

東門をくぐった時、空は赤かった。


夕焼けが交易街を染めている。通りの露店は半分ほど店じまいを始め、残った店の灯りが橙色に揺れていた。


肩が痛い。母蜥蜴の牙に掠められた傷からは、歩いている間にも血が滲んでいた。囚人服はもう布切れに近く、薬草と素材で膨らんだ採取袋が肩へ食い込んでいる。


「ギルドに直行しろ。日没前に装備を返さないと弁償になる」


クロが耳元で言った。湊は頷き、通りを急いだ。


すれ違う人々がこちらを見る。血まみれの服。膨らんだ採取袋。肩の上の黒猫。眉をひそめる者もいれば、目を逸らす者もいた。


ギルドの扉を開けると、昼間より人が多かった。酒と汗、それに血の匂いが混じっている。依頼を終えた冒険者たちが戻ってくる時間らしい。


カウンターには、昼間と同じ眼鏡の女性がいた。


「あら。戻ってきたのね」


女性が湊を見て、目を丸くする。


「……随分やられたわね。薬草採取でそこまでなる?」


「蜥蜴が出た」


「毒蜥蜴? 草原にはたまにいるけど——」


湊は採取袋を開き、ルリ草を十本並べた。それから革袋を開いて、毒蜥蜴の鱗と毒腺を出す。


女性が一つずつ数えた。


「依頼達成ね。薬草十本で銅貨五枚。毒蜥蜴の素材は、鱗六枚と毒腺二つで銅貨四枚。合わせて銅貨九枚」


「まだある」


採取袋の底から、大きな鱗を取り出す。子蜥蜴のものとは明らかに違う。掌より大きく、厚く、紫の色も深い。五枚。それと、拳ほどの毒腺を一つ。


女性の手が止まった。


「……これ、何」


「母蜥蜴」


「母——」


鱗を手に取り、光へ翳す。紫の表面に虹色の光が走った。


「嘘でしょ。母蜥蜴って、あの毒霧を纏う——」


「ああ」


女性の視線が湊へ戻る。血まみれの服。肩の傷。腰帯に差した、紫の血がこびりついた短剣。


「……一人で?」


「一人と一匹だ」


肩の上で、クロが欠伸をした。


女性はしばらく湊を見たあと、鱗をカウンターへ並べた。帳簿を開き、数字を追っていく。


「背鱗五枚で銀貨二枚。大型の毒腺が一つで銀貨一枚。さっきの分と合わせて、銀貨三枚と銅貨九枚ね」


湊は黙った。


登録料は銀貨一枚。それを払っても残る。


「……そんなにか」


「母蜥蜴は、新人が一人で倒すような相手じゃないのよ。素材の価値も高いし、この鱗は傷も少ない。剥がし方が丁寧ね」


クロの指示のおかげだった。


「貸し出し装備の分、銅貨一枚を引くわね」


借りていた袋と水筒を返す。


カウンターに、銀貨三枚と銅貨八枚が並んだ。


湊はそれを見た。


この世界で初めて、自分で稼いだ金だった。


銀貨は親指の爪ほどの大きさで、表面に紋章が刻まれている。銅貨は少し大きく、色がくすんでいた。


一枚、手に取る。


重さがあった。


「登録、する?」


湊は銀貨を一枚、カウンターへ戻した。


「頼む」


女性が微笑んだ。帳簿に名前を書き込み、木製の小さな札を差し出す。


「はい。冒険者登録証。最初は銅等級ね。依頼をこなしていけば上がっていくわ。それと——」


指が湊の肩を示した。


「その傷、治療院に行った方がいい。ギルドの裏手にあるから。登録したばかりなら最初の一回は無料よ」


「……ありがたい」


「あと、その服も。もう限界でしょ」


湊は自分の服を見下ろした。血と土と草の汁が染み込み、元が何色だったのかもわからない。


「通りの東側に雑貨屋があるわ。冒険者向けの安い装備も置いてるから、その稼ぎなら最低限は揃えられると思う」


「ありがとう」


女性の声が、少し柔らかくなった。


「頑張ったわね、ミナトくん」


ギルドの裏手にある治療院は、小さな石造りの建物だった。中へ入ると、薬草と消毒液の匂いが鼻に届く。


白髪の老婆が、湊の肩を見た。


「座りな」


傷を見ても、眉一つ動かさない。消毒液が触れた瞬間だけ、焼けるような痛みが走った。続いて薬草を練った軟膏が塗られ、布が巻かれていく。


「毒蜥蜴だね。毒は回ってないから大丈夫だ。三日もすれば塞がる」


「ありがとうございます」


「礼はいいよ。次からは銅貨二枚だからね」


老婆が手を振る。クロは肩の上から、その手元をじっと見ていた。


「その猫、賢そうだね」


「……ああ」


「大事にしな」


湊は小さく頷いて、治療院を出た。


東側の雑貨屋は、武器や防具、日用品が雑然と積まれた間口の広い店だった。店主はドワーフの男で、太い腕を組んで椅子に座っている。


「何が要る」


「服と、採取袋と、革袋。あと水筒」


「冒険者か。等級は」


「銅」


「なら、そっちの棚だ。銅等級の懐に合うものが並べてある」


クロが耳元で囁く。


「服は動きやすいものにしろ。革の上着があるなら、それがいい。薄い鱗や牙なら多少は防げる」


棚には麻の上着、革の上着、布のズボン、革のブーツが並んでいた。


湊は黒に近い茶色の革の上着を手に取った。柔らかい。それでも、囚人服とは比べものにならない厚みがある。


「それは角鹿の革だ。軽くて丈夫だぞ。銀貨一枚」


高い。


けれど、今日のように牙を受けることを考えれば必要だった。


麻のズボンと革のブーツも選ぶ。採取袋は革製。素材用の小さな革袋を三枚。水筒も一つ。


「全部でいくらだ」


「銀貨二枚と銅貨五枚」


湊は代金を払った。


残ったのは、銅貨三枚。


店の裏の空き部屋を借り、囚人服を脱ぐ。血と汗が染みた布を床へ落とした時、少しだけ体が軽くなった気がした。


革の上着に袖を通す。新しい革が腕へ触れ、まだ少し硬い。麻のズボンは動きやすく、ブーツは足首をしっかり支えてくれた。


腰帯に短剣を差し直し、採取袋を肩へ掛ける。


「どうだ」


クロが上から下まで見る。


「……まあ、さっきよりはましだ」


「褒めてるのか」


「事実を言っている」


店を出る頃には、夕焼けは終わりかけていた。空の端が紫へ変わっている。


手の中には銅貨が三枚。


「飯を食おう」


「銅貨三枚で何が食える」


「さあ。でも、木の実よりはうまいものが食えるだろう」


食べ物の匂いを辿って通りを歩く。角を曲がると、小さな屋台があった。太った人間の男が鉄板の上で肉を焼いている。


じゅう、と脂が弾けた。


煙に混じった匂いだけで、腹が鳴った。


「何がある」


「串焼きが銅貨一枚。パンが一枚。スープも一枚。全部いけるぞ、兄ちゃん」


湊は三枚の銅貨を差し出した。


「全部くれ」


男が笑った。


串焼きが一本。丸いパンが一つ。木の椀には、湯気を立てるスープ。


湊は屋台の横の木箱に腰を下ろした。クロが肩から降り、膝の上で座る。


串焼きを一口齧った。


脂が甘い。塩が効いている。噛むと、熱い肉汁が口の中へ広がった。


うまかった。


地下牢の硬いパンとも、森で食べた木の実とも違う。熱くて、柔らかくて、ちゃんと味がある。


「……うまい」


自分でも驚くほど、素直に声が出た。


膝の上から、クロが見上げている。


「お前の分」


肉を一切れ千切って差し出す。クロは匂いを嗅ぎ、小さな口で齧った。


「……悪くない」


喉が小さく鳴る。


パンを千切り、スープへ浸した。野菜と骨を煮込んだ素朴な味が染み込んでいる。飲み込むたび、冷えていた腹の奥が温かくなった。


全部食べた。


空になった椀を返しても、湊はしばらく木箱に座っていた。


腹が満たされている。体も温かい。肩は鈍く痛む。それでも、今は嫌ではなかった。


空には星が出始めていた。


「クロ」


「なんだ」


「今日、初めて自分で稼いだ」


クロが膝の上で丸くなる。


「ああ」


「初めて自分で買い物をした」


「ああ」


「初めて、自分の金で飯を食った」


クロが顔を上げた。


金色の目に、星明かりが映っている。


「……泣いているのか」


湊は頬に手を当てた。


濡れていた。


泣いていた。いつからなのか、自分でもわからない。


悲しいわけではない。嬉しい、と言い切るのも違う。ただ、地下牢からずっと胸の奥に固まっていたものが、少しずつほどけていくようだった。


「……わからない。なんで泣いてるのか、わからない」


クロが膝の上で立ち上がった。


前足を湊の胸へ置き、小さな頭を顎の下へ押しつける。


「泣け」


声は静かだった。


「泣けるなら、泣け。それは——悪いことではない」


湊はしばらく泣いた。


声は出さなかった。ただ、涙が流れた。


屋台の男は気づいていたかもしれない。それでも、何も言わなかった。


夜の風が吹いた。


冷たかった。


膝の上のクロは、温かかった。


涙が止まった。


湊は袖で顔を拭いた。新しい革は、まだ硬かった。


「……寝る場所がない」


「宿は取れんな。金も使い切った」


「ギルドの軒先でも借りるか」


「冒険者ギルドは夜通し開いている。隅の席で寝ている者もいる。初日はそれでいい」


湊は立ち上がり、クロを肩へ乗せた。


ギルドへ向かいながら、自分の手を見る。


右手の甲には、《受奪》の紋様。


左手には、串焼きの脂の匂いが残っていた。


明日になれば、また紋様が脈打つ。


明日も依頼を受ける。明日も稼ぐ。いつか宿が取れるようになる。いつか、文字も覚える。


一歩ずつだ。


肩の上で、クロが小さく欠伸をした。


「明日は何の依頼を受ける」


「さあ。行ってから決める」


「……相変わらず計画性がないな」


「昨日まで計画なんてなかった。明日のことを考えられるだけ、進歩だ」


クロの喉が鳴った。笑っているのか、呆れているのか、わからなかった。


ギルドの扉を開ける。


夜のギルドには、酒を飲む者、仲間と笑う者、壁際で眠る者がいた。


湊は隅の席に座った。テーブルへ腕を置き、その上に頭を乗せる。


クロが膝の上で丸くなった。


目を閉じた。


体が重い。肩も痛い。


でも、腹は満たされている。


明日の仕事がある。


それだけで、眠れた。

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