十本目の青い花
草原は広かった。
膝ほどの高さの草が風に揺れ、緑の波がどこまでも続いている。その中に、ぽつぽつと青い花が咲いていた。
「あれか」
「ああ。ルリ草だ。薬効があるのは茎だ。根元から抜け」
クロが肩の上から指示する。
湊は草をかき分け、青い花の前にしゃがんだ。茎を掴んで根元から引くと、白い根が土を連れて抜けてくる。
湿った土の匂いがした。
「これでいいのか」
「ああ。茎を折るなよ」
湊は土を軽く払い、採取袋へ入れた。
一本。
二本目を探して歩く。青い花は一か所にまとまっておらず、草原の中へ点々と散らばっていた。
三本。四本。
風が気持ちよかった。高い陽射しが肌を温めている。
地下牢の冷たさを、体はまだ覚えていた。
だから余計に、この温もりが沁みた。
「クロ」
「なんだ」
「この草原にも魔物はいるのか」
「いる。だが森ほどではない。角兎や毒蜥蜴のような小型が多い。人を襲うことは稀だが——」
クロが言葉を切った。
耳がぴんと立つ。
「……止まれ」
湊は足を止めた。
左手の草が揺れている。
風とは違う。低い場所を、何かが這っていた。
腰の短剣を握る。
青い紋様が、微かに脈打った。
草が割れた。
飛び出してきたのは蜥蜴だった。体長は湊の腕ほど。紫色の鱗に覆われ、口元から黄色い液体が滴っている。
「毒蜥蜴だ。噛まれるな。痺れて動けなくなる」
蜥蜴が地面を蹴った。
速い。
一直線に飛びかかってくる。
体が動いた。
考えるより先に、短剣を右から左へ振っていた。刃が空気を裂き、手に重い感触が返る。
蜥蜴が草の上へ落ちた。
二つに分かれていた。
湊は短剣を握った右手を見る。
震えていない。
どう振ればいいのか、最初から体が知っていた。
「……斬れた」
「ほう」
クロが肩の上で身を乗り出す。
「一撃か。悪くない。ちゃんと扱えるようだな」
刃には紫の血がついている。青い紋様が、さっきより少し明るく見えた。
「……心を通わせよ、か」
返事はない。
けれど、紋様の光が一瞬だけ揺れた気がした。
「素材を取れ」
「素材?」
「鱗と毒腺が売れる」
クロは蜥蜴を見下ろした。
「腹を開けろ。毒腺は喉の奥の黄色い袋だ。潰すなよ。鱗は背中のものを取れ」
湊は蜥蜴の前にしゃがんだ。
短剣の先を腹へ入れる。生温かい匂いが鼻を突き、思わず息を止めた。
気持ちのいい作業ではない。
それでも、手は止めなかった。
喉の奥に小さな黄色い袋が見えた。刃先を慎重に入れ、傷つけないよう切り取る。
「上手いな。初めてにしては」
「……褒めてるのか」
「事実を言っている」
毒腺を革袋へ入れる。背中から紫の鱗を三枚剥がすと、陽の光を受けて虹色に光った。
「これで銅貨二枚くらいだ。薬草と合わせれば、飯が二食分になる」
「二食か」
「贅沢を言うな。昨日まで木の実だっただろう」
湊は立ち上がった。
それはそうだ。
素材をしまい、また青い花を探す。
五本目を抜いた時、右手の草が揺れた。
さっきと同じだ。
湊は短剣を構える。
飛び出してきた毒蜥蜴は、一匹目より一回り大きかった。
踏み込む。
今度は真上から刃を振り下ろした。
頭が草の上へ落ちる。
一撃だった。
「二匹目か。この辺りに巣があるかもしれん」
クロの耳が忙しなく動く。
「急げ。数が出る前に集めて戻るぞ」
湊は頷いた。
素材を取り、薬草を探す。
六本。
七本。
八本。
九本目を採取袋へ入れた時、クロの耳がぴたりと止まった。
「……来るぞ」
地面が震えていた。
さっきまでとは違う。
重い。
草原の向こうで草が大きく割れた。
現れたのは、巨大な蜥蜴だった。
体長は湊の背丈を超えている。深い紫色の鱗。その全身から黄色い霧が立ち上っていた。
「——母蜥蜴だ」
クロの声が低くなる。
「子を殺された。怒っている。毒霧に近づくな。吸えば意識を失う」
母蜥蜴の目が湊を捉えた。
大きな口が開き、子供とは比べものにならない牙が並ぶ。
湊は短剣を構えた。
手が震えた。
今度は、震えていた。
さっきまでの蜥蜴とは違う。
殺される。
体が、それをわかっていた。
森で巨大な魔物に襲われた時は、クロが前へ出てくれた。
「クロ。あの時みたいに——」
「無理だ」
短い返事だった。
「あの時は相手が勝手に退いた。今の私に、こいつを追い払う力はない」
母蜥蜴が一歩進む。
黄色い霧に触れた草が萎れていく。
「逃げるか」
「逃げ切れるか?」
クロが黙った。
小さな爪が、湊の肩へ食い込む。
「……難しい。草原では隠れる場所もない」
「じゃあ」
「戦え」
「勝てるのか」
「知らん」
クロの爪が、さらに強く食い込んだ。
「だが逃げれば追いつかれる」
湊は短剣を握り直した。
青い紋様が脈打つ。
母蜥蜴が跳んだ。
巨体の影が湊を覆う。
横へ転がる。
直後、地面が爆ぜた。土と草が舞い上がる。
「風上へ回れ! 霧に入るな!」
風は右から左へ吹いていた。
湊は右へ走る。
母蜥蜴が首を振ると、黄色い霧が扇状に広がった。
後ろへ跳ぶ。
霧の端が頬を掠めた。
皮膚が焼けるように痺れる。
「っ……」
「吸うな!」
息を止める。
母蜥蜴が地面を蹴った。
大きな口が迫る。
湊は体を沈め、牙の下へ潜った。
短剣を突き上げる。
甲高い音がした。
刃が鱗に弾かれ、手首まで痺れる。
「硬い……!」
「腹だ! 下は薄い!」
巨体の下へ滑り込む。
頭上に並ぶ紫の鱗は、背中より薄かった。
突く。
今度は刃が入った。
母蜥蜴が絶叫する。
紫の血が飛んだ。
湊は短剣を引き抜き、転がるように巨体の下から抜ける。
直後、太い尾が薙ぎ払われた。
伏せる。
頭上を風圧が通り過ぎ、草がまとめて倒れた。
「浅い!」
クロの声が耳元で響く。
母蜥蜴が向き直った。
腹から血を流しながら、まだ立っている。
四つの目が湊だけを見ていた。
息を整える。
短剣を構え直す。
母蜥蜴が走った。
さっきより速い。
湊は動かなかった。
待つ。
口が開く。
牙が迫る。
——今。
半歩だけ横へずれた。
牙が肩を掠める。
布が裂け、熱い痛みが走った。
血が流れる。
それでも、足は止めない。
母蜥蜴の口が開いたまま横を通り過ぎる、その一瞬。
短剣を口の中へ突き立てた。
柔らかい。
刃が深く沈む。
母蜥蜴の動きが止まった。
四つの目から、ゆっくり光が消えていく。
巨体が傾いた。
地面が揺れる。
黄色い霧が薄れていった。
静かになった。
湊は短剣を引き抜いた。
紫の血に濡れた刃。その青い紋様が、今までで一番強く光っていた。
肩から血が流れている。
膝も震えていた。
「……勝った」
「ああ」
クロが小さく息を吐く。
「勝った」
その声も、少しだけ震えていた。
湊はその場へ座り込んだ。
空を見上げる。
青い空を、雲が流れていた。
心臓がまだ速い。
「クロ」
「なんだ」
「怖かった」
返事はすぐには来なかった。
やがて、小さな頭が首筋へ押しつけられる。
「……私もだ」
とても小さな声だった。
しばらく、二人とも動かなかった。
風が血の匂いを運んでいく。
肩は痛い。
それでも動ける。
湊は立ち上がった。
あと一本。
薬草が一本足りない。
草原を見回す。
少し離れたところに、青い花が一輪だけ揺れていた。
そこまで歩き、根元へ手を伸ばす。
茎を折らないよう、ゆっくり抜いた。
十本目。
採取袋へ入れる。
それから母蜥蜴の死骸へ戻った。
「素材、取れるか」
「取れる。こいつのは子供とは値が違う」
クロが母蜥蜴を見る。
「毒腺も大きい。背中の鱗だけでも、かなりになるはずだ」
湊は短剣で腹を開いた。
さっきより、少しだけ手が動く。
大きな毒腺を取り出し、厚い背鱗を五枚剥がした。革袋には収まりきらず、残りは採取袋へ直接入れる。
紫の鱗に、夕陽の虹が走った。
「これで——」
「登録料が払えるな」
クロが言った。
湊は鱗を見て、少しだけ笑った。
笑ったのは、いつ以来だろう。
覚えていなかった。
日が傾き始めている。
湊は採取袋を肩へ掛け直し、街へ向かって歩き始めた。
肩の上で、クロが短剣を見る。
「さっき、紋様が強く光っていたな」
「ああ」
湊も腰の短剣へ目を落とす。
今は、青い光が静かに残っていた。
「少しは、お前に馴染んだのかもしれんな」
「まだ名前がない」
「名は、お前がつけるものだ」
クロが尻尾を揺らす。
「私の時のようにな」
「あれは安直だって言っただろ」
「言った。だが——」
喉が小さく鳴った。
「悪くはなかった」
湊は短剣を腰帯へ戻した。
東門が見えてくる。
煙の立つ街が、夕焼けの中に浮かんでいた。
初めての仕事。
初めての戦い。
初めての稼ぎ。
肩は痛い。体も重い。
それでも、足は前へ出た。
帰る場所があるわけではない。
でも、あの街へ戻れば飯が食える。
明日もまた、仕事を探せる。
それだけで、足は動いた。




