表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/66

知らない街で

何日歩いただろう。


森を抜け、荒れ地を越え、また森に入った。クロが先を歩き、湊がその後を追う。夜は木の根元で眠り、朝になると足元に木の実が並んでいた。


何日目かの昼過ぎ、最後の森を抜けると土の道が現れた。人の足跡と、荷車の轍が続いている。


その先に、煙が上がっていた。


「あれがエルダの街だ」


クロが足を止め、湊の肩へ飛び乗った。小さな体が肩の上で揺れる。


「肩に乗るのか」


「街中を歩くと踏まれる。私は小さい」


少し不機嫌そうだった。


湊は何も言わず、道の先へ歩き出した。



エルダの街は、想像していたより賑やかだった。


石造りの建物が並び、赤や青、緑の屋根が通りを彩っている。軒先では看板が揺れ、人の声と荷車の車輪の音が重なっていた。


看板に並ぶ文字を見て、湊は足を止める。


「文字が読めない」


「当然だ。この世界の共通語だ。召喚された者は言葉を理解できるが、読み書きまで身につくわけではない」


「話せるのか、俺」


「今、私と話しているだろう」


言われて初めて気づいた。


クロと話す時も、さっき通りですれ違った人の声も、意味を考えずに理解していた。


通りへ目を向ける。


人間だけではなかった。


長い耳を持つ細身の男が、露店に果物を並べている。元の世界で見た物語の姿が頭に浮かんだ。


「エルフ?」


「ああ。森の民だ」


その隣では、湊の腰ほどの背丈の男が金属を叩いていた。太い腕と豊かな髭。槌が振り下ろされるたび、甲高い音が通りへ響く。


「ドワーフか」


「よく知っているな」


「……なんとなく」


犬のような耳を持つ女性が荷車を引き、猫耳の子供がその横を駆け抜けていく。


物語の中でしか見たことのない姿が、ここでは当たり前に歩いていた。


肩の上で、クロの耳が動く。


「あの店は薬草屋だ」


視線の先には、乾燥した葉や色の違う小瓶が並んでいる。


「冒険者が怪我をした時に使う薬も売っている」


「冒険者?」


「魔物の討伐や素材の採取で稼ぐ者たちだ。この街にもギルドがある」


「ギルド」


「依頼を受けて、報酬を得る。身分がなくても登録できる。今のお前には都合がいい」


湊は足を止めた。


身分もない。金もない。住む場所もない。


地下牢を出て、ここまで歩いてきた。その先のことは、何も考えていなかった。


腹が鳴る。


肉の焼ける匂い。パンの匂い。甘い果物の匂い。


木の実だけで歩いてきた腹には、どれもひどく近く感じた。


「……金がない」


「知っている」


クロが肩の上で欠伸をする。


「だからギルドへ行けと言っている」


「俺に何ができる」


「さあな。だが、何もしなければ飯にはありつけん」


その時、右手の甲が脈打った。


湊は手を見る。


地下牢で一度だけ感じた、あの感覚だった。


「……来る」


紋様へ意識を向ける。


光が弾けた。


掌に重みが落ちる。


短剣だった。


刃渡りは前腕ほど。銀色の刃には細い青の紋様が走り、鞘はない。握りは驚くほど自然に掌へ収まった。


触れた瞬間、意味が流れ込んでくる。


——名は未だ無し。心を通わせよ。さすれば真の力が目覚める。


それだけだった。


「……剣か」


クロが肩から身を乗り出し、金色の目を細める。


「悪くない。いや、かなり良い」


「わかるのか」


「私を誰だと思っている。この世界の武具は大抵見てきた。その短剣には魔力が通っている。並の鍛冶では作れん」


湊は刃を見る。


「心を通わせろ、と言ってきた。真の力が目覚めるらしい」


「意志を持つ武具か」


クロの耳がぴくりと動いた。


「珍しいな。持ち主を認めるまで、本来の力を貸さない類だろう」


「認めさせるには?」


「知らん。相手次第だ」


クロは青い紋様をしばらく見つめたあと、小さく鼻を鳴らした。


「まあ、お前はそういうのが得意そうだがな」


湊は短剣を握り直した。


構え方がわかる。


刃先をどこへ向け、どう腕を動かせばいいのか。刃物など握ったこともないのに、体が知っていた。


「……振れる」


「受奪から与えられた物だからだろう。最低限の扱い方も一緒に入ったらしいな」


湊は短剣を下ろした。


何人かがこちらを見ていた。


「……目立つな」


「通りの真ん中で武器を出す馬鹿がどこにいる」


クロの声が冷たい。


湊は短剣を腰帯へ差し込んだ。薄汚れた服には、ひどく不釣り合いだった。


「あそこだ」


クロが通りの先を見る。


入口の上に、剣と盾を交差させた紋章が掲げられている。


「冒険者ギルド」


湊はそちらへ歩いた。



扉を開けると、酒と汗の匂いがした。


広い室内にはいくつものテーブルが並び、武装した男や杖を持つ女、革鎧姿の獣人たちが思い思いに過ごしている。奥には長いカウンター。その横の壁には、紙がびっしりと貼られていた。


湊が入ると、いくつかの視線が向いた。


薄汚れた服。腰の短剣。肩の黒猫。


だが、すぐに興味を失ったらしく、それぞれの会話へ戻っていく。


湊はカウンターへ向かった。


眼鏡をかけた若い女性が座っていた。栗色の髪を後ろで束ねている。


「いらっしゃい。登録?」


「……ああ」


「名前は?」


「湊」


「ミナト、ね。種族は人間。武器は——短剣?」


女性が腰元を見て、少し首を傾げる。


「随分軽装ね。まあいいわ。登録料は銀貨一枚」


湊は黙った。


銀貨どころか、銅貨一枚持っていない。


「……金がない」


「あら」


女性が困ったように笑った。


「それだと登録はできないわね。でも、登録なしで受けられる仕事もあるわ。報酬は安いけど」


「構わない」


「じゃあ、あの壁の一番下。白い紙が登録不要の依頼よ」


湊は壁へ向かった。


白い紙が何枚も並んでいる。


読めない。


「……クロ」


肩の黒猫へ小声で呼びかける。


「読んでくれ」


「仕方ないな」


クロが紙へ目を向けた。


「薬草採取。東の草原で青い花の薬草を十本。銅貨五枚」


次の紙へ視線が移る。


「荷運び。南門から倉庫まで木箱を運んで銅貨三枚。魔物素材の仕分けは銅貨四枚」


「どれがいい」


「薬草だな。外へ出れば、その短剣も試せる」


クロは少し間を置いた。


「それに、薬草くらいは覚えておけ。金がなくても役に立つ」


湊は白い紙を一枚剥がし、カウンターへ持っていった。


「これを」


「薬草採取ね」


女性が頷く。


「東門を出た草原に、青い花が生えてるわ。茎ごと十本。日没までに戻ってきて」


そこで女性の視線が、湊の全身をもう一度なぞった。


肩から下げる袋もない。水筒もない。


「……ちょっと待って」


カウンターの下から、使い古された革の肩掛け袋と小さな水筒、薄い革袋が三枚出てきた。


「貸し出し装備。採取袋と水筒、それから素材用の袋。ちゃんと返せば報酬から銅貨一枚引くだけ。壊したり無くしたりしたら弁償ね」


「……いいのか」


「手ぶらで出て失敗されたら、依頼主も困るもの」


女性が人差し指を立てた。


「ただし、返却は今日中。日没までに戻らなかったら弁償扱いだから気をつけて」


湊は道具を受け取った。


採取袋を肩へ掛け、水筒を腰帯へ通す。革袋は採取袋の中へ入れた。


それだけで、少しだけ格好が変わった。


「ありがとう」


「頑張ってね、ミナトくん」


女性が手を振った。


湊はギルドを出た。



東門へ向かう途中、クロが耳元で言った。


「銅貨五枚では宿は取れん。飯も一食がやっとだ」


「一食食べられるなら十分だ」


クロが黙った。


少しして、小さく息を吐く。


「……お前は、本当に欲がないな」


「木の実よりうまいものが食えるなら、それでいい」


クロの喉が微かに鳴った。



東門を抜けた。


風が頬を撫でる。


森とは違う、どこまでも開けた風だった。草の匂いと土の匂いがする。遠くに山が見え、その上には広い空があった。


湊は立ち止まった。


青い空だった。


地下牢には空がなかった。森では木々が視界を覆っていた。


元の世界と同じ色なのに、雲の形だけが少し違って見える。


「綺麗だな」


独り言だった。


肩の上で、クロが空を見る。


「……ああ」


声は少しだけ柔らかかった。


湊は草原へ足を踏み入れた。


知らない世界の、知らない街で、知らない仕事を始める。


金もない。身分もない。この世界の文字すら読めない。


それでも、短剣が一本ある。


肩には、クロがいる。


今は、それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ