知らない街で
何日歩いただろう。
森を抜け、荒れ地を越え、また森に入った。クロが先を歩き、湊がその後を追う。夜は木の根元で眠り、朝になると足元に木の実が並んでいた。
何日目かの昼過ぎ、最後の森を抜けると土の道が現れた。人の足跡と、荷車の轍が続いている。
その先に、煙が上がっていた。
「あれがエルダの街だ」
クロが足を止め、湊の肩へ飛び乗った。小さな体が肩の上で揺れる。
「肩に乗るのか」
「街中を歩くと踏まれる。私は小さい」
少し不機嫌そうだった。
湊は何も言わず、道の先へ歩き出した。
エルダの街は、想像していたより賑やかだった。
石造りの建物が並び、赤や青、緑の屋根が通りを彩っている。軒先では看板が揺れ、人の声と荷車の車輪の音が重なっていた。
看板に並ぶ文字を見て、湊は足を止める。
「文字が読めない」
「当然だ。この世界の共通語だ。召喚された者は言葉を理解できるが、読み書きまで身につくわけではない」
「話せるのか、俺」
「今、私と話しているだろう」
言われて初めて気づいた。
クロと話す時も、さっき通りですれ違った人の声も、意味を考えずに理解していた。
通りへ目を向ける。
人間だけではなかった。
長い耳を持つ細身の男が、露店に果物を並べている。元の世界で見た物語の姿が頭に浮かんだ。
「エルフ?」
「ああ。森の民だ」
その隣では、湊の腰ほどの背丈の男が金属を叩いていた。太い腕と豊かな髭。槌が振り下ろされるたび、甲高い音が通りへ響く。
「ドワーフか」
「よく知っているな」
「……なんとなく」
犬のような耳を持つ女性が荷車を引き、猫耳の子供がその横を駆け抜けていく。
物語の中でしか見たことのない姿が、ここでは当たり前に歩いていた。
肩の上で、クロの耳が動く。
「あの店は薬草屋だ」
視線の先には、乾燥した葉や色の違う小瓶が並んでいる。
「冒険者が怪我をした時に使う薬も売っている」
「冒険者?」
「魔物の討伐や素材の採取で稼ぐ者たちだ。この街にもギルドがある」
「ギルド」
「依頼を受けて、報酬を得る。身分がなくても登録できる。今のお前には都合がいい」
湊は足を止めた。
身分もない。金もない。住む場所もない。
地下牢を出て、ここまで歩いてきた。その先のことは、何も考えていなかった。
腹が鳴る。
肉の焼ける匂い。パンの匂い。甘い果物の匂い。
木の実だけで歩いてきた腹には、どれもひどく近く感じた。
「……金がない」
「知っている」
クロが肩の上で欠伸をする。
「だからギルドへ行けと言っている」
「俺に何ができる」
「さあな。だが、何もしなければ飯にはありつけん」
その時、右手の甲が脈打った。
湊は手を見る。
地下牢で一度だけ感じた、あの感覚だった。
「……来る」
紋様へ意識を向ける。
光が弾けた。
掌に重みが落ちる。
短剣だった。
刃渡りは前腕ほど。銀色の刃には細い青の紋様が走り、鞘はない。握りは驚くほど自然に掌へ収まった。
触れた瞬間、意味が流れ込んでくる。
——名は未だ無し。心を通わせよ。さすれば真の力が目覚める。
それだけだった。
「……剣か」
クロが肩から身を乗り出し、金色の目を細める。
「悪くない。いや、かなり良い」
「わかるのか」
「私を誰だと思っている。この世界の武具は大抵見てきた。その短剣には魔力が通っている。並の鍛冶では作れん」
湊は刃を見る。
「心を通わせろ、と言ってきた。真の力が目覚めるらしい」
「意志を持つ武具か」
クロの耳がぴくりと動いた。
「珍しいな。持ち主を認めるまで、本来の力を貸さない類だろう」
「認めさせるには?」
「知らん。相手次第だ」
クロは青い紋様をしばらく見つめたあと、小さく鼻を鳴らした。
「まあ、お前はそういうのが得意そうだがな」
湊は短剣を握り直した。
構え方がわかる。
刃先をどこへ向け、どう腕を動かせばいいのか。刃物など握ったこともないのに、体が知っていた。
「……振れる」
「受奪から与えられた物だからだろう。最低限の扱い方も一緒に入ったらしいな」
湊は短剣を下ろした。
何人かがこちらを見ていた。
「……目立つな」
「通りの真ん中で武器を出す馬鹿がどこにいる」
クロの声が冷たい。
湊は短剣を腰帯へ差し込んだ。薄汚れた服には、ひどく不釣り合いだった。
「あそこだ」
クロが通りの先を見る。
入口の上に、剣と盾を交差させた紋章が掲げられている。
「冒険者ギルド」
湊はそちらへ歩いた。
扉を開けると、酒と汗の匂いがした。
広い室内にはいくつものテーブルが並び、武装した男や杖を持つ女、革鎧姿の獣人たちが思い思いに過ごしている。奥には長いカウンター。その横の壁には、紙がびっしりと貼られていた。
湊が入ると、いくつかの視線が向いた。
薄汚れた服。腰の短剣。肩の黒猫。
だが、すぐに興味を失ったらしく、それぞれの会話へ戻っていく。
湊はカウンターへ向かった。
眼鏡をかけた若い女性が座っていた。栗色の髪を後ろで束ねている。
「いらっしゃい。登録?」
「……ああ」
「名前は?」
「湊」
「ミナト、ね。種族は人間。武器は——短剣?」
女性が腰元を見て、少し首を傾げる。
「随分軽装ね。まあいいわ。登録料は銀貨一枚」
湊は黙った。
銀貨どころか、銅貨一枚持っていない。
「……金がない」
「あら」
女性が困ったように笑った。
「それだと登録はできないわね。でも、登録なしで受けられる仕事もあるわ。報酬は安いけど」
「構わない」
「じゃあ、あの壁の一番下。白い紙が登録不要の依頼よ」
湊は壁へ向かった。
白い紙が何枚も並んでいる。
読めない。
「……クロ」
肩の黒猫へ小声で呼びかける。
「読んでくれ」
「仕方ないな」
クロが紙へ目を向けた。
「薬草採取。東の草原で青い花の薬草を十本。銅貨五枚」
次の紙へ視線が移る。
「荷運び。南門から倉庫まで木箱を運んで銅貨三枚。魔物素材の仕分けは銅貨四枚」
「どれがいい」
「薬草だな。外へ出れば、その短剣も試せる」
クロは少し間を置いた。
「それに、薬草くらいは覚えておけ。金がなくても役に立つ」
湊は白い紙を一枚剥がし、カウンターへ持っていった。
「これを」
「薬草採取ね」
女性が頷く。
「東門を出た草原に、青い花が生えてるわ。茎ごと十本。日没までに戻ってきて」
そこで女性の視線が、湊の全身をもう一度なぞった。
肩から下げる袋もない。水筒もない。
「……ちょっと待って」
カウンターの下から、使い古された革の肩掛け袋と小さな水筒、薄い革袋が三枚出てきた。
「貸し出し装備。採取袋と水筒、それから素材用の袋。ちゃんと返せば報酬から銅貨一枚引くだけ。壊したり無くしたりしたら弁償ね」
「……いいのか」
「手ぶらで出て失敗されたら、依頼主も困るもの」
女性が人差し指を立てた。
「ただし、返却は今日中。日没までに戻らなかったら弁償扱いだから気をつけて」
湊は道具を受け取った。
採取袋を肩へ掛け、水筒を腰帯へ通す。革袋は採取袋の中へ入れた。
それだけで、少しだけ格好が変わった。
「ありがとう」
「頑張ってね、ミナトくん」
女性が手を振った。
湊はギルドを出た。
東門へ向かう途中、クロが耳元で言った。
「銅貨五枚では宿は取れん。飯も一食がやっとだ」
「一食食べられるなら十分だ」
クロが黙った。
少しして、小さく息を吐く。
「……お前は、本当に欲がないな」
「木の実よりうまいものが食えるなら、それでいい」
クロの喉が微かに鳴った。
東門を抜けた。
風が頬を撫でる。
森とは違う、どこまでも開けた風だった。草の匂いと土の匂いがする。遠くに山が見え、その上には広い空があった。
湊は立ち止まった。
青い空だった。
地下牢には空がなかった。森では木々が視界を覆っていた。
元の世界と同じ色なのに、雲の形だけが少し違って見える。
「綺麗だな」
独り言だった。
肩の上で、クロが空を見る。
「……ああ」
声は少しだけ柔らかかった。
湊は草原へ足を踏み入れた。
知らない世界の、知らない街で、知らない仕事を始める。
金もない。身分もない。この世界の文字すら読めない。
それでも、短剣が一本ある。
肩には、クロがいる。
今は、それで十分だった。




