声
森は深かった。
城の裏手から続く獣道を、湊は子猫の後を追って歩いた。月明かりが木々の隙間から差し込み、足元に白い斑を落としている。根を踏み、枝を避け、苔むした岩を越えるたび、何日もまともに動いていなかった足が重くなった。
子猫は時折振り返った。湊が遅れると立ち止まり、追いつくのを待ってから、また歩き出す。
どこへ向かっているのかはわからない。子猫に聞いても答えは返ってこない。ただ、迷いのない足取りだけを頼りに、湊は後を追った。
どれくらい歩いただろう。空が白み始めた頃、とうとう足が止まった。
膝が笑っていた。木の幹に手をつき、そのまま根元へ座り込む。息が荒い。視界まで揺れていた。
子猫が戻ってきて、湊の膝に前足を乗せた。金色の目がじっと顔を覗き込む。
「……大丈夫。少し休む」
口ではそう言ったが、体はもう限界だった。地下牢で何日も過ごし、ろくに食べないまま夜通し歩いたのだ。
湊は木の根元に背を預け、目を閉じた。
朝の森には、地下牢になかった音が満ちていた。遠くの鳥の声。葉を撫でる風。枝の擦れる音。
子猫が腹の上に乗ってきた。小さな体が丸くなる。
その重みと温もりを感じながら、湊は意識を手放した。
目を覚ましたのは、陽が傾き始めた頃だった。
木漏れ日が赤みを帯びている。かなり長く眠っていたらしい。体はまだ重かったが、少しだけ楽になっていた。
腹の上に子猫はいない。
湊は周囲を見回した。またどこかへ行ったのだろう。地下牢でもそうだった。いなくなっても、いつの間にか戻ってきた。
腹が鳴った。
足元を見ると、木の実が三つ並んでいた。地下牢で子猫が持ってきたものと同じだ。
湊は一つを拾い、殻を噛み割った。中の白い実を口に入れる。
甘い。
あの暗闇で初めて食べた時と、同じ味だった。
三つとも食べ終え、立ち上がろうとした時だった。
森の奥で、枝が折れた。
重い音だった。
続けて、地面が微かに揺れる。
湊は木の幹に手をついたまま、音の方を見た。
木々の間から、それが現れた。
熊に似ている。だが、熊ではない。体高は湊の倍以上あり、灰色の毛皮には赤黒い筋が走っていた。
目が四つある。
その全てが、湊を見ていた。
大きな口が開く。人間の腕ほどもある牙が、唾液に濡れて光った。
——魔物。
頭に浮かんだのは、その言葉だった。
巨体が一歩踏み出す。
地面が揺れた。
逃げろ、と頭ではわかっているのに、足が動かなかった。
魔物が前足を振り上げる。
木を薙ぎ倒せそうな腕が、湊へ振り下ろされた。
——死ぬ。
その瞬間。
「伏せろ」
声が飛んだ。
少女のようにも聞こえる。それでいて、妙な重みのある声だった。
湊は反射的に地面へ伏せた。
頭上を風圧が通り抜ける。髪が強く引かれ、すぐ後ろで木の幹が砕けた。
顔を上げる。
湊と魔物の間に、子猫が立っていた。
小さな黒猫。片耳の折れた、痩せた体。
金色の目が、巨大な魔物をまっすぐ見上げている。
魔物の動きが止まった。
四つの目が子猫へ向く。
次の瞬間、巨体が震えた。
子猫は何もしない。ただそこに立っている。
それなのに、魔物は一歩退いた。
もう一歩。
そして踵を返すと、地面を揺らしながら森の奥へ逃げていった。
静けさが戻った。
子猫が振り返る。
「……怪我は」
また声がした。
今度は間違えようがなかった。子猫の口元から、確かに耳へ届いている。
湊は地面に手をつき、体を起こした。
「……お前、喋れたのか」
子猫は目を逸らした。尻尾の先が、小さく揺れる。
「……喋れぬわけではない。喋る必要がなかっただけだ」
さっきの鋭い声とは違い、どこか気まずそうだった。
湊は子猫を見つめた。
「お前、何者だ」
耳がぴくりと動いた。金色の目が一度だけ湊を見て、また逸れる。
「……ただの猫だ」
「猫は喋らない」
「この世界の猫は喋る」
「嘘だろ」
子猫は黙った。
尻尾だけが、不機嫌そうに揺れている。
森の中で、鳥の声がした。
やがて子猫が小さく息を吐いた。
「……昔は、もう少し大きかった」
湊は瞬いた。
それ以上は言わず、子猫はまっすぐ湊を見る。
「詳しい話は、いずれする。今はここを離れるぞ。あの程度の魔物は脅威ではないが、血の匂いに寄ってくる別の連中がいる」
「血の匂い?」
「お前の腕だ」
言われて左腕を見る。
さっき地面へ伏せた時に枝で切ったらしい。薄い傷から血が滲んでいた。
子猫が歩き出した。二、三歩進んでから振り返る。
「歩けるか」
「……ああ」
湊は立ち上がり、その後を追った。
子猫が喋ったことへの驚きは、思ったより早く薄れていった。
考えてみれば、ただの猫らしくないところはいくらでもあった。兵士の巡回を避け、木の実を運び、湊がパンを食べるまで自分も口をつけなかった。
ただの猫でも、そうでなくても。
暗闇の中で、ずっと足元にいてくれた。
それで十分だった。
「なあ」
子猫が耳だけを後ろへ向ける。
「名前、あるのか」
足が一瞬止まった。
「……ない。もう、ない」
すぐに歩き出したが、その声には小さな引っかかりがあった。
湊には、その意味まではわからない。
ただ、「もう」という言葉だけが残った。
小さな黒い背中を見る。片耳が折れ、古い傷がいくつもある。
「クロ」
子猫が立ち止まった。
振り返った金色の目が、大きく見開かれている。
「……なんだ、それは」
「名前。黒いから、クロ」
子猫は——クロは、しばらく湊を見つめていた。
「……安直すぎる」
「嫌か」
クロは答えなかった。
前を向いて、歩き出す。
けれど尻尾はぴんと立っていた。
喉の奥から、小さなゴロゴロという音も聞こえる。
その時、湊の右手の甲が光った。
二度目の光だった。
けれど、前とは違う。
温かい。
手の甲に刻まれた紋様が淡く輝き、一本の光が伸びる。光は空中を走り、クロの首元へ触れて消えた。
クロが足を止め、自分の体を見下ろす。
「……テイム、か」
声は静かだった。
「お前の能力か。心を通わせた者を従える力」
「従える?」
「……いや」
クロは湊を振り返った。金色の目が、地下牢で初めて会った時と同じように、まっすぐ湊へ向いている。
「従えるのとは、少し違うな。繋がった。お前と、私が」
湊は手の甲を見る。
紋様はもう消えていた。それでも掌の奥に、かすかな温もりが残っている。クロの体温に似た、小さな温もりだった。
「……嫌じゃないのか」
「何がだ」
「繋がれるのが」
クロは目を細めた。
「お前は、私にパンを分けただろう」
「……ああ」
「私が食べるまで待っていただろう」
「お前が先に食べなかったからだ」
「木の実を、うまいと言っただろう」
湊は黙った。
クロは前を向いた。尻尾が緩やかに揺れている。
「嫌ではない」
それだけ言って、また歩き出した。
湊はその小さな背中を追った。
森の中を、一人と一匹で歩く。夕暮れの光が木々の間から差し込み、クロの黒い毛を赤く染めていた。
「なあ、クロ」
「なんだ」
「この森の先には何がある」
クロの耳がぴくりと動いた。
「人の街がある。エルダという交易街だ。ここからまだ歩くが、様々な種族が行き交う。あの城からも遠い」
「種族?」
「人間だけではない。エルフ、ドワーフ、獣人。この世界には多くの種族がいる」
湊は空を見上げた。
知らない色の夕焼けだった。
「……俺は、この世界のこと、何も知らない」
「知らぬのは当然だ。お前はこの世界の者ではない」
クロが立ち止まり、湊を見上げる。
「私が教えてやる。この世界のことは、大抵知っている」
少しだけ得意げな声だった。
地下牢で木の実を持ってきた時の、胸を張った姿を思い出す。
「……頼む」
クロは目を細めた。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、また歩き出す。
湊はその隣を歩いた。
暗闇の底で出会った小さな温もりに、今日、名前がついた。
声がついた。
そして、見えない糸で繋がった。
この世界のことも、クロのことも、これから自分がどうなるのかも、まだ何も知らない。
でも、隣に声があった。
それだけで、次の一歩を踏み出す理由には十分だった。




