金色の目
それから、何日か経った。
子猫は毎日いた。湊が眠っている間にどこかへ行くこともあったが、目を覚ますと必ず足元にいる。小さな体を丸め、湊の脛に背中を押しつけて眠っていた。
パンは一日に一度、鉄格子の隙間から投げ込まれた。看守の姿は見えない。パンが石床を転がる音だけがして、足音が遠ざかっていく。
湊はパンを半分に割った。一つを自分の前に、もう一つを子猫の前に置く。
子猫は、湊が先に食べるまで口をつけなかった。毎回そうだった。湊が一口噛むのを見届けてから、ようやく自分の分を齧り始める。
「……変な猫」
耳がぴくりと動いた。それだけで、子猫は食べ続けた。
暗闇の中でパンを分ける。それだけのことが、いつの間にか湊の一日に輪郭を作っていた。
パンが来る。分ける。食べる。子猫が眠る。湊も眠る。
前は、何もない暗闇の中で時間が溶けていた。今は子猫がいない時だけ、足元が冷たいと感じるようになっていた。
ある時、子猫が何かを咥えて戻ってきた。
鉄格子の隙間をすり抜け、湊の膝の前に落とす。小さな、干からびた木の実だった。
「……なんだこれ」
子猫は得意げに胸を張った。少なくとも、そう見えた。金色の瞳を細め、尻尾をぴんと立てている。
湊は木の実を指で転がした。硬い。食べられるのかもわからない。
子猫が前足で湊の指を叩いた。爪は出していない。それから木の実を見て、湊を見て、また木の実を見る。
「食えってことか」
みぃ、と鳴いた。
湊は木の実を噛んだ。歯が立たない。もう一度、力を込めると殻が割れ、中から小さな白い実が出てきた。
口に入れる。ほのかに甘かった。
パンしか食べていなかった舌には、その甘さが鮮烈だった。
子猫が湊の顔をじっと見上げている。
「……うまい」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
子猫は目を細め、喉の奥で小さく鳴らした。
ゴロゴロ。
湊は白い実の欠片を子猫の前に置いた。子猫は遠慮なく舐め取った。
その夜——夜かどうかはわからないが、湊が眠ろうとした時だった。
子猫が膝の上に乗ってきた。足元ではない。小さな体を丸め、湊の腹に背中を預ける。
薄い服越しに体温が伝わった。小さな心臓が、とくとくと速く打っている。
手を伸ばしたのは、考えてのことではなかった。
指先が子猫の頭に触れた。小さくて、温かい。折れた耳の根元に指が引っかかると、子猫が顔を上げた。
金色の目が、すぐ近くから湊を見ていた。
その目の中に何があるのか、湊には読み取れない。それでも、暗闇の中で自分を映しているものがあることが、奇妙に思えた。
子猫は湊の指に頬を擦りつけた。喉の音が少し大きくなる。
湊は耳の後ろを掻いてやった。子猫は目を閉じた。
——温かい。
それだけだった。
それだけのことが、湊の胸の奥で、錆びた何かを軋ませた。
翌日、子猫はまた出かけていった。鉄格子の隙間をするりと抜け、通路の闇へ消える。
湊は壁に背を預けて待った。
今度は、自分が待っていることを知っていた。
しばらくして、通路の奥から足音が聞こえた。子猫ではない。重い、人間の足音。複数だった。
湊の体が強張る。
松明の光が通路を照らした。久しぶりの明るさに目が痛み、思わず細める。
鉄格子の向こうに二人の兵士が立った。甲冑の胸には、召喚の時に見た紋章がある。
「こいつか」
「ああ。まだ生きてたのか。処分の命が下った。明朝、連れ出す」
兵士たちは湊を見なかった。正確には、見ていたが、見ていなかった。荷物でも確認するような目だった。
やがて足音が遠ざかり、松明の光も消えた。
処分。
湊はその言葉を、驚くほど静かに受け止めた。怖くはない。悲しくもない。
ただ、足元が冷たかった。
——あいつ、戻ってくるかな。
その思考が浮かんだ。
死ぬことは怖くない。でも、あの子猫がここへ戻ってきた時、自分がいなかったら。
あの金色の目が、空っぽの牢を見たら。
それは——嫌だ、と思った。
胸の奥で、錆びた何かが音を立てて動いた。
その瞬間だった。
湊の右手の甲が、淡く光った。
暗闇の中で、その光は眩しかった。白い光が手の甲に紋様を描き、脈打つように明滅する。
そして——頭の中に、意味が流れ込んできた。
声ではない。文字でもない。誰かが語りかけているわけでもない。ただ、その力が何なのかを直接理解させられる、不思議な感覚だった。
——受奪。付与能力。1日1回、力を授ける。
意味はわかった。一日に一度、何かが与えられる。今が、その最初の一回。
紋様が一瞬強く光って消えた。同時に、掌の中へ何かが現れる。
小さな硝子玉のようなものだった。透明で、中に霧がかかっている。握ると、指先からじわりと温もりが伝わってきた。
今度は、その硝子玉から意味が流れ込む。
——存在消去。一度きり。握り潰せば、出会った全ての者の記憶から、お前という存在が消える。
誰にも教わっていないのに、使い方までわかった。
湊は硝子玉を握りしめたまま、暗闇の中に座っていた。
通路の奥から、小さな足音が聞こえた。
爪が石を引っ掻く、聞き慣れた音。
子猫が戻ってきた。鉄格子をすり抜け、そのまま湊の膝へ飛び乗る。口には、また木の実を咥えていた。
膝の上に木の実を落とし、子猫は湊を見上げた。金色の目が、手の中の硝子玉へ移る。
みぃ、と鳴いた。
いつもと同じ声だった。
湊は子猫を見る。
「……出るぞ」
子猫は首を傾げた。
湊は硝子玉を握り潰した。
光が弾けた。
音も、熱もない。ただ白い光が湊の体を包み、すぐに消えた。
何かが変わった。
世界の側が、湊という存在を手放したような、奇妙な軽さがあった。
けれど、膝の上の子猫は変わらず湊を見ている。金色の目には、ちゃんと自分が映っていた。
——効いてない。
それでも、不快ではなかった。
この暗闇の中で、自分を見ている目が一つだけ残った。そのことに、かすかな安堵を覚えた。
子猫が膝から飛び降り、鉄格子へ向かう。隙間をすり抜けてから、通路の向こうで振り返った。
金色の目が暗闇に浮かんでいる。
ついてこい、と言っているように見えた。
湊は立ち上がった。何日もまともに動いていなかった足が痺れている。壁に手をつきながら鉄格子まで進んだ。
錆びた鉄に手をかけると、思ったより簡単に軋んだ。少し広がった隙間へ体を横にして抜ける。
こんなに痩せていたのかと、他人事のように思った。
通路へ出ると、子猫が先を歩き始めた。角を曲がり、階段を上り、また角を曲がる。迷いがない。
しばらく進んだところで、角の向こうから重い足音が聞こえた。
兵士だ。
子猫が立ち止まり、湊の足を前足で叩いた。それから横の小部屋へ、すっと体を滑り込ませる。
湊も影へ身を寄せた。
見つかるわけにはいかない。一度きりの力は、もう使えない。
足音が近づく。松明の光が壁を舐めた。
息を殺す。
光が通り過ぎ、足音が遠ざかっていった。
子猫が小部屋から顔を出し、左右を確認する。それから湊を見た。
大丈夫、と言っているようだった。
何度も止まり、隠れ、兵士をやり過ごした。子猫は巡回を知っているかのように、迷わず湊を導いていく。
長い通路を抜け、階段を上り、また通路を抜けた。
そして——風が吹いた。
冷たくて、広くて、湿った石の匂いがしない風だった。
湊は目を細めた。
月明かり。雲の切れ間から差す、青白い光。
何日ぶりの空だろう。
城の裏手に出ていた。高い壁の隙間から、森の輪郭と星が見える。
子猫が湊の足元に座った。
みぃ、と鳴く。
湊は空を見上げた。知らない星座だった。知らない月だった。知らない世界だった。
でも、風は風だった。
冷たくて、広くて、生きている匂いがした。
足元には、小さな温もりがある。
湊は歩き出した。
子猫が隣を歩いた。
暗闇の底から、二人は出た。




