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暇つぶしの相手

五日目の朝。


寝台の上で目を覚ました。背中が痛くない。石の床でも、ギルドの椅子でもない。それだけで、朝の感じが違った。


薄い毛布には、まだ昨日の温もりが残っている。枕元ではクロが丸くなり、湊が起き上がると片耳だけを動かした。


右手の甲に、淡い紋様が浮かんでいる。


今日も引ける。


湊は迷わず手を握った。


光が脈打ち、腕を上ってくる。すぐに意味が流れ込んだ。


——回復薬。使い捨て。


掌に、小さな硝子瓶が現れた。薄い緑色の液体が、朝の光を受けて揺れている。


飲めば傷が塞がる。骨は繋がらない。毒も消えない。裂傷や打撲、出血に効く。


「……回復薬か」


クロが目を開けた。


「見せろ」


瓶へ鼻先を寄せ、匂いを確かめるように一度動かす。


「中級程度だな。悪くない」


「どのくらいする」


「市場なら銀貨五枚ほどだ」


湊は手を止めた。


「俺の全財産より高いな」


「だから無駄遣いするな」


瓶を革袋へしまった。


昨日の傷程度なら使わなかった。もっと必要な時が来るかもしれない。


靴を履く。


「行くぞ」


クロの耳が伏せた。


「……図書室か」


「ああ」


「文字なら私が教える」


「いつまでもクロに読んでもらうわけにもいかない」


返事はなかった。


宿を出ると、朝の風が頬に冷たかった。通りにはまだ人が少なく、店先から掃除の箒が石を擦る音が聞こえている。


肩の上のクロは、ギルドが近づくほど静かになった。



二階の廊下は薄暗かった。


突き当たりの扉を開ける。


リーネがいた。


昨日と同じ窓際の椅子。同じ分厚い本。銀色の髪が朝日に透け、白く光っている。


けれど昨日とは違って、扉が開くとすぐ顔を上げた。


「おはよう、ミナト」


「……おはよう」


「今日は十三番目からだね」


覚えていた。


湊は棚から教本を取り、昨日と同じ席へ座った。クロは肩から降りず、気配まで薄くしている。


リーネが教本を覗き込んだ。


「十三番目から十八番目。これは歯を使う音。真ん中に横線が入ってるでしょう?」


「これが印か」


「そう。昨日の六つと比べてみて」


指で文字をなぞる。


十三。十四。十五。


窓の外で鳥が鳴いた。紙をめくる音が小さく響く。


リーネは答えを先に言わなかった。湊が線の形を追い、音を探すのを待っている。


「……これか」


「うん。正解」


十六。十七。十八。


「早いね」


リーネが頬杖をついた。


「規則を一つ教えると、次から自分で探すんだ」


「規則があるなら、その方が早い」


「それを頭がいいって言うんだよ」


少し笑う。


湊は教本へ目を戻した。


「ねえ、ミナト」


「なんだ」


「今日の依頼は?」


「まだ受けてない。これから下に行く」


「ふうん」


リーネが本を閉じた。


椅子から降りる。


「あたしも行く」


湊は顔を上げた。


「どこに」


「下。受付」


「暇なのか」


「暇」


迷いのない返事だった。


「この街、三回目なんだ。行くところもないし、本もだいたい読んだ。ミナトと話してる方が面白い」


先に扉へ向かう。


開けてから振り返った。


「来ないの?」


湊は肩のクロを見た。


目は閉じたまま。


けれど、小さな爪が革越しに食い込んでいた。


昨日の言葉を思い出す。


近づくな。


理由は言えない。


湊は立ち上がった。


教本を棚へ戻す。


リーネが、少し嬉しそうに笑った。



一階は朝から人が多かった。


依頼板の前に冒険者が集まり、紙を剥がす音や話し声が重なっている。


リーネが横を歩くと、いくつもの視線がこちらへ向いた。


カウンターの眼鏡の女性も、二人を見て目を瞬いた。


「おはよう、ミナトくん。——あら」


その顔が変わる。


「リーネ様……」


様。


湊は横を見る。


リーネは気にした様子もなく、軽く手を振った。


「堅いのはいいよ。ねえ、この子に合う依頼ある?」


「ミナトくんに、ですか?」


「うん。昨日は穴鼠だったんでしょう? もう少し上でもいいと思う」


受付の女性が困ったように眉を寄せる。


「ただ、ミナトくんはまだ登録五日目で——」


「あたしが一緒に行く」


湊より先に、リーネが言った。


「見てるから」


受付の女性の肩から、目に見えて力が抜けた。


「でしたら……」


何枚かの依頼書を探し、一枚を抜く。


「街道沿いの森で、ゴブリンの目撃があります。三体から五体の群れ。昨日、旅商人が襲われかけたそうです」


「ゴブリン」


聞き覚えのある名前だった。


元の世界の物語では、何度も出てきた。


「小型の亜人系魔物よ。知能は高くないけど、群れで動くの。一体ずつなら弱い。でも囲まれると危ない。新人が最初に苦労しやすい相手ね」


「報酬は」


「一体につき銅貨五枚」


リーネが下から顔を覗き込んでくる。


「どうする?」


肩でクロの爪が僅かに震えた。


「受ける」


「よし。じゃあ行こう」


リーネが先に歩き出した。



朝の街を並んで歩く。


リーネの方がずっと小柄だ。歩幅も短い。


それでも遅れない。


急ぐ様子もないまま、湊の速度へぴたりと合わせてくる。


「ねえ、ミナト」


「なんだ」


「その猫、今日は静かだね」


肩の上でクロが固まった。


「……寝てる」


「ふうん。昨日は書き順がどうとか言ってたのに」


声は軽い。


薄い紫の瞳だけが、クロへ向いていた。


湊は前を見る。


「ゴブリンは、どう戦えばいい」


リーネの視線が戻った。


「ミナトはどうするつもり?」


「隠密で近づく。一体ずつ仕留める」


「うん。それでいい。群れ相手に正面から囲まれに行く必要はないからね」


「リーネは?」


「あたし?」


少し考えるような顔をしてから笑う。


「見てるだけ。ミナトが死にそうなら助ける」


「それだけか」


「それだけ。あたしが全部倒したら、ミナトの仕事じゃなくなるでしょ」


東門を抜ける。


街道を北へ進むと、やがて東側に森が見えてきた。



森へ近づいたところで、リーネが足を止めた。


湊も止まる。


木々の奥から、枝を踏む音。


一つではない。


クロの耳が立った。


「五……いや、六だ」


息のような小声だった。


湊は森を見た。


「いるな」


リーネがこちらを見る。


「聞こえた?」


「ああ」


「耳いいね」


そのまま森へ入ろうとすると、袖を引かれた。


小さな手だった。


「待って。ひとつだけ」


「なんだ」


「ゴブリンは鼻がいい。気配や音を消しても、匂いは残るよ。風向きだけ見て」


昨日の穴鼠を思い出す。


鼻を動かした直後、こちらを見た。


湊は頬に当たる風を確かめた。


西から東。


「西側から入る」


「うん」


リーネが手を離した。


「行っておいで」


少し離れた木へ背を預け、腕を組む。


本当に見ているだけらしい。



湊は森の西側へ回った。


《隠密》。


気配が沈む。


《音操》。


足音と衣擦れが消えた。


森の中へ入る。


下草を踏んでも音がしない。枝を避け、木陰から木陰へ移る。


腐った肉のような匂いが鼻についた。


近い。


木の陰から覗く。


小さな空き地。


消えかけた焚き火を囲んで、灰色の体が蠢いていた。


六体。


子供ほどの背丈。長い腕。短い脚。黄色い目。


手には棍棒や、石を削った刃物。


三体が焚き火の周り。


二体は木の根元で眠っている。


一体だけが空き地の端に立っていた。


見張り。


湊は木の陰を伝って背後へ回る。


三歩。


二歩。


一歩。


短剣を抜く。


首の後ろへ突き立てた。


声が出る前に、体から力が抜けた。


湊は倒れる体を支え、静かに地面へ寝かせる。


一体。


次は眠っている二体。


一体目の喉を切る。


もう一体が身じろぎした。


目を開く前に、刃を入れた。


三体。


その時。


焚き火の周りにいた一体が鼻を動かした。


血の匂い。


黄色い目が周囲を探る。


残る三体が立ち上がった。


湊は《音操》を使う。


空き地の反対側。


枝が折れる音。


ぱきり。


三体が一斉にそちらを向いた。


背中が並ぶ。


湊は走った。


音のないまま最後尾へ追いつき、背中から短剣を刺す。


四体。


残る二体が振り返った。


甲高い叫び声。


棍棒を持った一体が踏み込んでくる。


振り下ろされた腕を横へ避け、伸びた喉へ刃を入れる。


五体。


最後の一体が石の刃を持って飛びかかってきた。


速い。


腕を引いたが、間に合わなかった。


革の上から刃が掠め、前腕に熱が走る。


浅い。


湊はそのまま懐へ入り、腹へ短剣を突き上げた。


六体目が崩れた。


静かになった。


《隠密》と《音操》を解く。


途端に自分の呼吸が耳へ戻った。


腕を見る。


革が少し裂け、その下から血が滲んでいる。


回復薬へ手を伸ばしかける。


止めた。


これくらいなら、使う必要はない。


「六体を一人でか」


クロがようやく声を出した。


「悪くない」


森の外から、拍手が聞こえた。


ぱん。


ぱん。


ぱん。


ゆっくり三回。


リーネが木に背を預けたまま、手を叩いている。


「すごいね、ミナト」



森の縁まで戻ると、リーネが湊の腕を見た。


「怪我してる」


「浅い」


「見せて」


腕を取られる。


指先が傷の周りへ触れた。


少し冷たい。


「うん。これなら大丈夫」


すぐに手を離した。


「ねえ、ミナト」


「なんだ」


「五日目で、ゴブリン六体を一人で倒す新人、あたし初めて見た」


「風向きを教えてもらった」


「それだけじゃないよ」


薄い紫の瞳が、さっきまで戦っていた森を見る。


「音を別の場所に出したよね」


湊は少しだけ間を置いた。


「……音を動かせる。少しだけ」


「ふうん」


瞳が細くなる。


嫌な感じではなかった。


ただ、退屈そうだった顔から何かが消えていた。


「面白いね、ミナト」


声にもそれが出ていた。


「本当に面白い」



帰り道。


街道を二人と一匹で歩く。


「ねえ、明日も依頼行くんでしょう?」


「ああ」


「あたしも行っていい?」


「……なぜだ」


「暇だから」


即答だった。


それから、少し笑う。


「それに、ミナトを見てるの面白いから」


肩の上でクロの爪が、また革へ食い込んだ。


「……好きにしろ」


「やった」


リーネが小さく跳ねた。


子供みたいな仕草だった。



ギルドへ戻り、ゴブリン六体を報告した。


受付の女性が目を見開く。


「六体!? 報告では三体から五体だったのに……」


「全部ミナトがやったよ。あたしは見てただけ」


「一人で……」


カウンターに銀貨三枚が置かれた。


「このペースなら、すぐランクが上がりそうね」


湊は銀貨を受け取った。


その横で、リーネが満足そうに頷いていた。



宿へ戻る。


部屋へ入って鍵をかけた途端、クロが肩から飛び降りた。


寝台の上に座る。


金色の目が、まっすぐ湊を見た。


「湊」


「わかってる」


「わかっていない。あの女は——」


「危険なんだろ」


クロが口を閉じた。


湊は短剣を腰から外し、机へ置いた。


「でも、文字を教えてくれた。今日も風向きを教えてくれた。戦いには手を出さなかった」


「今は、だ」


「ああ」


湊はクロを見る。


「あの人が何者なのか、俺は知らない。クロが何を知ってるのかも」


クロの耳が伏せる。


「だから気をつける。でも、理由を言わないなら、最後は俺が見る」


しばらく沈黙が続いた。


窓から入る夕方の光が、寝台の端を赤く染めている。


やがて、クロが目を逸らした。


「……わかった」


小さな声だった。


「だが、あの女の前で私は喋らない。それだけは譲らん」


「ああ」


クロが毛布の上で丸くなる。


尻尾が鼻先まで回った。


湊は窓辺へ立った。


受付はリーネに「様」をつけた。


六体の戦いを見ても、驚きもしなかった。


小さな体で、ただ隣を歩く。


暇だから。


面白いから。


それだけ言って。


湊は寝台へ横になった。


クロの小さな体温が、すぐ隣にある。


明日も図書室へ行く。


目を閉じた。


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