白銀の剣聖
三週間が経った。
朝は図書室へ行き、リーネに文字を教わる。昼から依頼を受け、夕方には宿へ戻る。リーネが隣にいる時間が増え、夜になればクロと二匹だけになる。
そんな日々が、いつの間にか形になっていた。
《受奪》は引かなかった。右手の甲には毎朝紋様が浮かんだが、今ある力を使いこなす方が先だと思った。それに、毎日リーネの前で新しい力が増えていけば、さすがに目立つ。
文字もだいぶ読めるようになった。
全部ではない。それでも依頼書の大まかな内容はわかる。看板も、値札も、地図の地名も、以前ほどただの模様には見えなくなった。
「違う」
図書室の朝。リーネの白い指が、湊の書いた文字の横を叩く。
「そこ、線を一本飛ばしてる」
湊は自分の字を見直した。
「……本当だ」
「今気づいたなら、次は大丈夫」
リーネはすぐに答えを直してくれない。規則だけを教えて、あとは湊が自分で気づくまで待つ。そのやり方は、妙に頭へ残った。
「ミナトは教え甲斐があるね」
そう言って、いつも少し楽しそうに笑った。
戦い方も変わった。
三週間で、ゴブリンの群れを三度。森狼を二度。丘陵の大蜥蜴を一度。リーネは毎回、少し離れた場所から見ていた。
手は出さない。
帰り道に、一つだけ言う。
「右に避けた時、軸足が浮いてたよ」
別の日には、
「最後の一匹、焦ったでしょう。息が浅くなってた」
また別の日には、
「音は、もう少し遠くへ置いてもいい。あいつらなら聞こえるから」
それだけだった。
次の依頼で試すと、確かに違った。
湊が一歩を変えるたび、リーネは何も言わず見ている。うまくいけば笑う。失敗すれば、その帰りにまた一言だけ落とした。
三週間で、冒険者証の星も一つ増えた。
銅二つ星。
受付の眼鏡の女性は、証を渡しながら何度も湊の顔を見た。
「三週間で二つ星……。本当に早いわね、ミナトくん」
「リーネのおかげだ」
「リーネ様の……。ええ、そうね」
その名前を口にした時だけ、女性の声が少し変わった。
湊は理由を聞かなかった。
リーネが強いことだけは、もう十分にわかっていた。
三週間と一日目の朝。
一階へ降りると、いつもより声が多かった。
依頼板の前に冒険者が集まり、紙を指さして話している。酒の匂いが残る空気の中に、朝から妙な熱があった。
「今日、三つ星の昇格試験だってよ」
「午後から訓練場だろ」
「審査官、ギルドマスター本人らしいぞ」
湊も掲示板を見る。
読める。
三週間前には形しかわからなかった文字が、今は意味を持って並んでいた。
——銅三つ星昇格試験。本日午後。訓練場にて実施。
——審査担当、ギルドマスター。
「ミナトくん」
カウンターから呼ばれた。
眼鏡の女性が手招きしている。
「あなたも受験資格が出てるわ」
「俺も?」
「討伐実績が基準を超えたの。登録から一か月も経ってない人に出るのは、あたしも初めて見るけど」
湊はもう一度、掲示板を見た。
「試験は?」
「訓練場での実戦審査よ。技術と判断、それから状況への対応を見る。審査はギルドマスターがするわ」
「対戦相手は?」
「当日まで非公開。ギルドマスターがその場で指定することになってる」
湊は頷いた。
「受ける」
図書室へ上がると、リーネはいつもの窓際にいた。
銀色の髪に朝の光が透けている。
扉を開けただけで、こちらを見た。
「おはよう、ミナト。なんか顔が違うね」
「午後、ランクアップ試験がある」
「ふうん」
分厚い本が閉じられる。
「受けるの?」
「ああ」
「じゃあ、今日は文字はやめよう」
リーネが椅子から降りた。
「見に行く」
「来るのか」
「当たり前でしょ。あたしが育てたんだから」
湊は少しだけ眉を上げた。
「育てた?」
「三週間も見てたんだよ?」
言って、リーネは笑った。
肩の上で、クロの爪が革を掴んだ。
午後。
ギルド裏手の訓練場には、思ったより人が集まっていた。
石畳の広場を木柵が囲み、その向こうに冒険者たちが並んでいる。汗と革、防具に染みついた油の匂い。あちこちから低い話し声が聞こえた。
湊は広場の端で短剣を確かめた。
クロは肩の上。
リーネは柵の外で壁に背を預け、腕を組んでいる。
反対側から、大柄な男が歩いてきた。
禿頭に顎髭。厚い胸板。革鎧の上には、ギルドの紋章を刻んだ外套を羽織っている。
周囲の声が少し下がった。
「ギルドマスターのバルガスだ」
男は湊の前で止まった。
見上げるほど大きい。
「お前がミナトか」
「はい」
「登録一か月未満で三つ星試験。話は聞いてる」
バルガスの視線が、柵の外へ向いた。
「リーネ殿が毎日ついて回ってるともな」
リーネが軽く手を振る。
バルガスは小さく鼻を鳴らし、外套を脱いだ。
「試験は実戦形式だ。武器は自前。能力も好きに使え。降参するか、俺が止めるまで続ける」
「相手は」
「俺だ」
湊は目を瞬いた。
柵の外がざわめく。
「ギルドマスター本人が?」
「三つ星だぞ?」
バルガスは腰から幅広の剣を抜いた。片手で軽く構える。
隙が見えない。
「来い、小僧」
低い声が広場に響く。
「お前の三週間を見せてみろ」
湊も短剣を抜いた。
正面からは無理だ。
体格も、剣の長さも、力も違う。
《隠密》。
自分の気配を沈める。
続けて《音操》。足音と衣擦れが消えた。
バルガスの目が細くなる。
「ほう」
湊は横へ回る。
足音はない。気配も消えている。
背後へ入った。
短剣を突き出す。
金属音が鳴った。
バルガスは振り向いていない。それでも幅広の剣だけが後ろへ回り、短剣を弾いていた。
衝撃が腕まで抜ける。
湊はすぐに距離を取った。
「気配はない。音もない」
バルガスが振り返る。
「だが、お前が動けば風も動く」
剣先がゆっくり湊へ向く。
「そこまでは消えん」
隠密だけでは届かない。
湊は呼吸を整えた。
左へ足音を置く。
同時に、自分は右へ回る。
バルガスの目が左へ動いた。
一瞬。
湊は踏み込んだ。
短剣が脇腹へ届く寸前、手首を掴まれた。
「一度目なら悪くない」
景色が回った。
「だが、二度は食わん」
背中から石畳へ落ちた。
肺から息が抜ける。口の中に鉄の味が広がった。
湊は転がって立つ。
バルガスは追ってこない。
剣を下げたまま、こちらを待っていた。
「もう一度来い」
隠密は見抜かれた。
音も、一度使った。
力では勝てない。
なら。
湊は正面から走った。
バルガスが剣を構える。
三歩手前。
《音操》。
足元へ、叩きつけるような轟音を置いた。
どん、と石畳が割れたような音が響く。
実際には何も起きていない。
それでもバルガスの視線が、一瞬だけ下がった。
湊はその懐へ入った。
短剣を喉へ。
肩を掴まれた。
体が止まる。
それでも刃先は、バルガスの喉元へ触れていた。
広場が静かになった。
バルガスは短剣を見て、それから湊を見る。
「……合格だ」
肩から手が離れる。
湊も短剣を下ろした。
「技術はまだ荒い。体力も足りん」
幅広の剣が鞘へ戻る。
「だが、通じないと分かった後に、手持ちのものを組み直した。三つ星なら十分だ」
柵の向こうから、ざわめきが戻った。
「受かったぞ」
「ギルドマスターの喉まで届かせた……」
バルガスは歩きかけ、ふと足を止めた。
「リーネ殿」
「ん?」
「あんたが見込んだだけはある。いい弟子だ」
リーネは壁に寄りかかったまま笑う。
「弟子じゃないよ。暇つぶしの相手」
「白銀の剣聖の暇つぶしに付き合える新人か」
バルガスが鼻を鳴らした。
「大したもんだ」
白銀の剣聖。
その言葉だけが、湊の耳に残った。
柵の外で、冒険者たちの顔が変わる。
「白銀の剣聖……?」
「あの子が?」
「白銀のリーネだよ。三十年前の勇者パーティーの——」
「大陸最強の剣士だぞ」
声が広がっていく。
湊はリーネを見た。
いつもの銀髪。いつもの薄い紫の瞳。
本人だけが、何も変わっていない。
「ばれちゃったね」
軽い声だった。
リーネはいつものように笑った。
三週間の朝が浮かんだ。
文字を指す白い指。戦いの後に落ちた短い助言。六体のゴブリンを見ても驚かなかった顔。受付の「様」。バルガスの「リーネ殿」。
勇者パーティー。
魔王討伐。
三十年前。
湊には、その重さがまだわからない。
ただ、周囲が彼女を見る目だけは、三週間前とはまるで違っていた。
肩が痛んだ。
クロの爪が、革越しに食い込んでいる。
見ると、小さな黒い体が震えていた。毛が逆立ち、金色の瞳はリーネだけを見ている。
まただ。
あの図書室を出た時と同じ震え。
「ねえ、ミナト」
「……なんだ」
「三つ星、おめでとう」
リーネが笑う。
子供みたいな、いつもの顔だった。
湊は肩へ手を上げた。
クロの背に、指先が触れる。
震えは止まらなかった。




