三十年前の英雄
宿に戻ったのは、夕暮れだった。
部屋の扉を閉め、鍵をかける。窓から入る赤い光が寝台の端まで伸びていた。
湊が腰を下ろすと、クロは肩から枕へ移った。震えは止まっている。それでも黒い毛はまだ少し逆立っていた。
「クロ」
「……なに」
声が小さい。
「白銀の剣聖。知ってるのか」
クロは答えなかった。金色の目だけが、窓の外へ向いている。
「勇者パーティー。魔王討伐。三十年前。冒険者たちが言ってた」
湊は少し間を置いた。
「俺は、この世界の歴史を知らない。教えてくれないか」
枕の上で、クロの尻尾がゆっくり揺れた。
長い沈黙のあと、低い声が落ちた。
「——三十年前、この世界に魔王が現れた」
湊は黙って聞いた。
「強大な力を持つ魔王は、大陸中の種族を脅かした。人間も、エルフも、ドワーフも、獣人もだ」
いつもの辛辣さがない。
クロは窓の外を見たまま、淡々と続けた。
「そこで創造神が、異世界から一人の人間を召喚した。勇者だ」
「召喚……」
胸の奥が、わずかに縮んだ。
知らない世界へ、突然連れてこられる。
その部分だけは、湊にもわかった。
「勇者は力を授けられ、仲間を集めた。魔王へ挑むためにな」
「勇者パーティー」
「ああ。大陸でも名のある者たちが集まった。その中に——」
クロの声が一度止まった。
枕へ置かれた前足の爪が、布へ沈む。
「白銀のリーネがいた。ハイエルフの剣士。大陸最強と呼ばれた剣の使い手だ」
湊の中に、朝の図書室が浮かんだ。
文字を指した白い指。間違いに気づくまで待っていた顔。戦いを見終えたあと、短い言葉だけを残して笑う少女。
あれが、大陸最強。
「勇者たちは魔王を倒した。三十年前のことだ」
クロの金色の目が、夕暮れの空を映している。
「大陸は救われた。だが勇者は、その後に姿を消した」
「行方不明?」
「ああ。誰も行方を知らない。仲間たちは今も探し続けている——そう聞いている」
そこで話が途切れた。
部屋が静かになる。
外では、遠くを走る荷車の音がした。
湊はクロを見た。
「クロ」
「……なに」
「お前は、なんでリーネを怖がる」
小さな体が、ほんの少し強張った。
「……強いからだ」
「それだけか」
「それだけだ」
湊は黙った。
森の魔物を前にしても、クロはあんなふうには震えなかった。リーネの名を聞いた時だけ、爪が痛いほど肩へ食い込む。
それ以上は聞かなかった。
「わかった」
寝台へ横になる。
するとクロが枕から歩いてきて、湊の胸の上へ乗った。小さな重みが服越しに沈み、体温がじわりと伝わってくる。
「湊」
「なんだ」
「あの女には、気をつけろ」
「ああ」
「あれは、お前が思っているより遥かに——」
クロは口を閉じた。
胸の上で、前足が一度動く。
「……強い」
それだけ言って、目を閉じた。
湊は天井を見た。
白銀の剣聖。勇者パーティー。魔王討伐。三十年前。
ずっと遠い昔の話だと思っていた言葉の中に、今日まで隣を歩いていた少女がいた。
胸の上のクロは、まだ少し硬かった。
翌朝。
ギルド二階の図書室には、いつもと同じ朝の光が差していた。
リーネは窓際の椅子に座り、分厚い本を開いている。銀色の髪も、足をぶらぶらさせる仕草も昨日までと変わらない。
扉を開けると、すぐ顔を上げた。
「おはよう、ミナト」
「……おはよう」
「どうしたの? 顔が硬いよ」
「昨日のこと、少し聞いた」
「ああ」
リーネが本を閉じる。
「白銀の剣聖?」
自分の称号なのに、他人の名前でも口にするような軽さだった。
「昔の話だよ」
「三十年前だろ」
「うん。あたしには、ちょっと前」
リーネは窓の外を見る。
朝日が銀の髪を透かして、輪郭を白く光らせた。
「ねえ、ミナト」
「なんだ」
「あたしのこと、怖くなった?」
「いや」
考えるより先に答えていた。
リーネがこちらを見る。
薄い紫の目が、少しだけ大きくなる。
「……ふうん」
それから笑った。
昨日までより、少しだけ嬉しそうに見えた。
「変な子。普通は怖がるのに」
「俺は普通じゃないからな」
「それは知ってる」
リーネは椅子から降り、棚から教本を取った。
「さ、続き。今日は数字ね。数字が読めないと、報酬を誤魔化されるよ」
「誤魔化されてたのか」
「されてないよ。あの受付の子は真面目だから」
教本が目の前へ置かれる。
「でも、他の街では気をつけてね」
他の街。
その言葉だけが少し残った。
リーネは、湊がいつかここを出ることを当たり前のように話している。
湊は教本を開いた。
白い指が、一つ目の数字を指す。
紙をめくる音。
窓の外の鳥の声。
昨日までと同じ時間だった。
肩の上で、クロだけが一度、小さく爪を立てた。
昼。
一階へ降りると、リーネもついてきた。
もう隣にいることへ、いちいち驚かなくなっている。
今日の依頼は森狼二体の討伐だった。
「リーネ様もご一緒ですか?」
受付の女性が尋ねる。
「うん。見てるだけだけどね」
それだけで、女性の表情が少し緩んだ。
東門を出る。
街道を歩きながら、リーネが横から湊を見上げた。
「昨日の試験、すごかったよ。バルガスの喉まで届いた」
「止められた」
「当たり前でしょ。あの人、元銀級冒険者だよ。銅三つ星の試験で本気を出すわけないし」
湊は足を止めかけた。
「……手加減されてたのか」
「うん」
リーネが笑う。
「でも、手加減してるバルガスに刃を届かせたのは本当にすごい。あの爆発音、あたしも一瞬そっち見たもん」
「次は見ないだろ」
「そういうところ」
楽しそうに言う。
「ミナトは、力で押すより考えて戦う方が向いてる。あたし、そういう戦い方好きだよ」
湊が横を見る。
「あ、戦い方の話ね」
リーネが少し早口になった。
森が近づいてくる。
湊は短剣へ手をかけた。
リーネは木に背を預け、いつものように腕を組む。
「行っておいで」
風は森の奥から吹いていた。
湊は風下を避けて回り込み、《隠密》で気配を沈める。《音操》で足音と衣擦れを消した。
二体の森狼を見つけた。
灰色の毛。低い姿勢。鼻先が忙しく動いている。
一体の背後へ音を置く。
枝が折れる音。
ぱきり。
片方だけが振り向いた。
もう一体は動かない。
湊はそちらを先に狙った。
背後へ回り、首筋へ短剣を入れる。
血の匂いが広がった。
残った一体が咆哮し、一直線に飛び込んでくる。
正面では受けない。
横へ抜ける。
灰色の体が脇を通り過ぎる瞬間、腹へ刃を走らせた。
森狼が地面へ転がる。
立とうとしたところへ近づき、首筋へもう一度刃を入れた。
静かになった。
呼吸を整えて森を出る。
リーネが二度だけ手を叩いた。
「きれい」
「何が」
「動き。三週間前より、ずっと無駄が減った」
並んで街道へ戻る。
しばらく歩いてから、リーネが口を開いた。
「ねえ、ミナト」
「なんだ」
「ミナトは、どこから来たの?」
足が一瞬だけ遅れた。
「……遠くから」
「遠く、ね」
薄い紫の目が湊を見上げる。
「……あたしね。昔、遠くから来た人を知ってたの」
湊は前を向いたまま聞いた。
「その人も、ミナトみたいだった。この世界のことを何も知らなくて、文字も読めなくて。でも、すごく——」
声が途切れる。
リーネは視線を前へ戻した。
「……ごめん。なんでもない」
湊は聞かなかった。
三十年前。
異世界から召喚された勇者。
その人のことだろう。
自分の何かが、リーネにその人を思い出させているらしい。
肩の上で、クロの爪が深く食い込んだ。
痛い。
それでも、湊は何も言わなかった。
夕方の街道に、二人と一匹の影が長く伸びていく。
しばらくして、リーネがぽつりと言った。
「ミナト」
「なんだ」
「あたしがついてきて、迷惑?」
「いや」
「……そう」
小さく笑う。
白銀の剣聖と呼ばれた時より、ずっと普通の少女に見えた。
その横顔を見ていると、なぜか胸の奥が少し痛んだ。




