旅立ちの朝
朝。図書室へ入ると、リーネがいなかった。
窓際の椅子が空いている。いつも開かれていた分厚い本も、今日は閉じたまま机に置かれていた。三週間と少し、湊が来る前には必ずそこにいたのに、一度も欠かしたことはなかった。
湊は椅子の前で足を止めた。肩の上で、クロの耳が小さく動く。
「……いないな」
「そうだな」
クロの声に、いつもの棘はなかった。
一階へ降りると、眼鏡の受付嬢がカウンターの向こうにいた。湊の顔を見るなり、少し困ったように眉を下げる。
「ミナトくん。——リーネ様を探してる?」
「ああ」
「今朝、緊急の指名依頼が入ったの。北方のドラウグ山脈で古竜種が目撃されて、周辺の村ではもう避難が始まってる。ギルドマスターが直接、リーネ様に受けてもらったわ」
「古竜……」
「対処できる人が、大陸でも数人しかいないの」
受付嬢はカウンターの下から、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。
「今朝早くに出発されたわ。ミナトくんに伝言を預かってる」
受け取った紙を開く。丁寧で、少しだけ癖のある文字だった。三週間前なら一文字も読めなかったはずなのに、今は自分で追える。
——ミナト。急な仕事が入った。古竜の相手は暇つぶしにはならないけど、放っておくと村が消える。行ってくるね。
——数字の続き、自分でやっておいて。教本の七十三頁から。
——ミナトは、もうどこへ行っても大丈夫。
最後の一行だけ、少し文字が乱れていた。書き直した跡も残っている。
湊はしばらくそこを見てから、紙を折り畳んで懐へしまった。
「……いつ戻る」
「わからないわ。早くても数週間。長引けば数か月になるかもしれない」
「そうか」
それだけ答えて、湊はギルドを出た。
宿へ戻ると、窓から街の音が流れ込んでいた。荷馬車の車輪、子供の声、遠くの鍛冶屋から響く槌音。
湊は寝台へ腰を下ろした。クロが肩から膝へ降り、そこで丸くなる。尻尾が湊の手首へ触れた。
「湊」
「なんだ」
「あの女がいなくなって、寂しいか」
湊は少し考えた。
「……わからない」
「わからない、か」
「嘘をついても仕方ない」
クロは目を細めた。
「そうだな。お前はそういう奴だ」
しばらく、どちらも喋らなかった。膝の上の小さな体は温かく、外では槌の音が一定の間隔で響いている。
やがて湊は窓の外へ目を向けた。空が広い。雲が東へ流れている。
「クロ。三つ星になって、遠方の依頼も受けられるようになった」
「ああ」
「この街の外に出てみたい」
クロが顔を上げた。
「……どこへ行く」
「わからない。ただ、この世界のことをもっと知りたい」
口にすると、自分でも少し驚いた。文字を覚えた。依頼を受けて、戦い方も覚えた。それでも知っているのは、エルダとその周辺だけだ。
「何があるのか、見てみたい」
今度は迷わなかった。
クロの金色の瞳が、じっと湊を見る。やがて小さな前足が、湊の指へ触れた。
「……お前がそう言うなら、私が案内してやる。この世界の全てを」
その声は、いつもより柔らかかった。
湊がクロの頭を撫でると、目が細くなり、喉が低く鳴る。
「あの女がいなくなって、ようやくお前と二人だ」
少しだけ早口だった。
湊は何も言わず、もう一度頭を撫でた。
翌朝。
右手の甲に紋様が浮かんでいた。
三つ星になってから初めて引く《受奪》だった。リーネの前で新しい力を増やし続けるのを避けていた日々も、昨日で終わった。
湊が紋様を握ると、光が弾けた。掌に残ったのは、片手分の黒い革手袋。左手用で、手首には銀の留め金がついている。
触れた瞬間、意味が流れ込んだ。
——従魔の手。テイムの媒介。心を通わせる者の手。
「クロ」
「見えてる」
クロは手袋へ鼻先を寄せ、金色の目を細めた。
「テイムの触媒か。お前の能力は、本当に気前がいいな」
湊は左手へはめた。革はまだ冷たく、少し硬い。それでも指を曲げると、不思議なくらい手に馴染んだ。
「使い方は」
「対象に触れて、心を通わせる。それだけだ。ただし、誰にでも使えると思うな。一定以上の力を持つ相手にしか反応せんし、相手が心を開かなければ何度触れても無駄だ」
「お前の時は?」
「私は特別だ」
クロが胸を張る。
「お前が私の心を開いたんじゃない。私がお前に心を開いてやったんだ。——勘違いするな」
湊の口元が、わずかに緩んだ。
ギルドでは、遠方の依頼を見せてもらった。
三つ星以上。エルダの外へ出る仕事。
「東のレイヴン街道沿いで、最近魔物の出没が増えてるの。街道の安全確保ね。目的地はグラーツ。徒歩で六日くらい」
「受ける」
返事をすると、受付嬢が少し寂しそうに笑った。
「行っちゃうのね。リーネ様がいない間に」
「ああ」
「戻ってきてミナトくんがいなかったら、怒るかもしれないわよ」
「怒らない」
自分でも不思議なくらい、そう思えた。
懐には、昨日の紙が入っている。
——ミナトは、もうどこへ行っても大丈夫。
送り出すための言葉だった。だから、最後の一行だけ少し乱れていたのかもしれない。
「伝言を頼めるか」
「ええ」
「——ありがとう、と」
受付嬢が一瞬目を丸くした。それから、柔らかく笑った。
「伝えておくわ」
東門を抜けると、朝の光が街道を照らしていた。石畳はやがて土の道へ変わり、遠くの丘の向こうまで続いている。
肩にはクロ。腰には短剣。左手には、まだ硬い黒革の手袋。
湊は振り返らなかった。
「クロ。東には何がある」
「まずはグラーツだ。交易と鍛冶の街で、ギルドの支部もある」
「海」
「見たことないだろう。——この世界の海は、お前の世界のものとは少し違う」
「どう違う」
「行けばわかる」
クロの声が弾んだ。尻尾も、肩の後ろでゆっくり揺れている。
湊は歩いた。朝の風が頬に触れ、草と土の匂いが混じる。遠くで鳥が鳴いていた。
一歩ごとに、エルダが遠くなる。
一歩ごとに、知らない世界が近づく。
肩の上で、クロが小さく伸びをした。
「ようやくだ」
「何が」
「旅だ。——お前と私の、旅だ」
湊は何も言わなかった。
ただ、歩いた。
空が広かった。




