街道の獣
レイヴン街道。
エルダを出て、二日目の朝だった。
石畳は最初の半日で途切れ、それからは荷馬車の轍が深く刻まれた土の道が続いている。本来なら商人の往来が多い街道らしいが、朝から人影はなかった。湿った土と草の匂いだけが、風に乗って流れてくる。
「最近は魔物が増えている。護衛なしでは通れん」
肩の上でクロが前を見た。
「だから街道の安全確保か」
「そうだ。出てくる魔物を片端から潰せ、ということだな」
湊は歩きながら、左手を開いた。黒い革の手袋はまだ新しく、指を曲げるたびに僅かに革が鳴る。
「クロ。この辺に、テイムできるような魔物はいるか」
「街道荒らしは大抵、群れで動く雑魚だ。ゴブリンの亜種か、野犬の魔物か。お前の手袋には釣り合わん」
「釣り合わない?」
「弱い魔物には反応すらしないと言っただろう。焦るな。この世界は広い。旅を続ければ、嫌でも出会う」
クロの尻尾が、肩の後ろでゆっくり揺れた。
昼過ぎ、街道の脇で壊れた荷馬車を見つけた。
片方の車輪が砕け、荷台は横倒しになっている。破れた布袋、割れた壺、土にまみれた干し肉。近づくほど、乾きかけた血の匂いが鼻についた。
湊は足を止めた。血は荷台の脇から地面へ落ち、街道の北側にある森まで続いている。
「……魔物か」
「ああ。血の量からすれば、馬がやられたな」
クロが鼻を動かす。
「人間の血は混じっていない。御者は逃げたようだ」
湊は荷馬車の傍へしゃがんだ。土に残った爪痕は深く、掌より大きい。
「何の魔物だ」
クロも爪痕を覗き込んだ。
「銀狼だ。森狼の上位種。体が大きく、知能も高い。群れずに単独で狩る」
「前に倒した森狼とは違うのか」
「格が違う。森狼なら三つ星で十分だが、銀狼は銀級の冒険者が相手をする」
湊は自分の冒険者証を思い出した。まだ銅三つ星になったばかりだ。
「俺が正面からやったら?」
「死ぬ」
即答だった。湊は立ち上がり、森へ続く血の跡を見る。
「追うのか」
「依頼は街道の安全確保だ。放っておけば、次は人が死ぬ」
「正面から戦えば死ぬと言ったぞ」
「正面からは戦わない」
しばらくして、クロが小さく鼻を鳴らした。
「……お前らしいな」
森へ入る。《隠密》で気配を沈め、《音操》で足音と衣擦れを消した。血の跡は薄暗い木々の間へ続いている。湿った葉が靴の下で潰れても、その音だけが不自然に抜け落ちた。
「百歩ほど先。左だ。岩の陰」
クロの囁きに、湊は足を止めて木々の隙間を覗く。
銀色の獣がいた。
森狼の倍はある。肩の高さは湊の腰近くまであり、厚い銀の毛皮が木漏れ日を鈍く弾いている。岩陰には馬の脚が転がり、銀狼は骨ごと肉を噛み砕いていた。
「弱点は」
「首の後ろ。頭蓋と背骨の継ぎ目だ。そこへ入れば一撃で終わる。ただし、反応は森狼とは比べものにならん。背後を取っても安心するな」
「鼻もいいんだろ」
「ああ。風向きを見ろ」
北から南へ風が流れている。湊は風下にいた。
「今なら匂いは届かない」
「だが森の風は回る。食事を終える前にやれ。巣へ戻られたら厄介だ」
湊は動いた。木の幹を盾にし、呼吸を整えながら距離を詰める。八十歩。六十歩。四十歩。銀狼が骨を砕く硬い音だけが、森の中へ響いていた。
三十歩まで来たところで、頬を撫でていた風が揺らぐ。湊は止まった。まだ匂いは届いていないが、このまま回れば危ない。二十歩。ここから先は木の遮蔽がない。
短剣を抜いて十五歩まで詰めると、銀狼の耳がぴくりと後ろへ向いた。食事は止めていない。それでも、何かを探るように耳だけが動いている。
湊は息を整えた。焦ると呼吸が浅くなる。リーネに何度も指摘された癖だ。余計な力を抜くと、やがて銀狼の耳が前へ戻った。
十歩。湊は地面を蹴り、音を消したまま一気に距離を詰める。銀狼が振り向く。速い。それでも、もう横まで入っていた。
短剣を振り上げ、首の後ろを狙う。銀狼が身を捻った。刃が肩へ食い込む。浅い。
咆哮が至近距離で炸裂した。空気ごと胸を叩かれ、耳の奥が痺れる。続けて振るわれた前脚を後ろへ跳んで避けると、爪が服の胸元を裂いた。皮膚までは届いていない。
五歩ほど距離が開いた。銀狼が低く身を沈め、湊を見据える。
青い目だった。
深く、澄んだ青。怒りに濁っているのに、ただ獲物を見る目とは違った。湊を見定めるような光がある。肩の上で、クロの体が僅かに強張った。
「湊。退け。深追いするな」
声が鋭い。
銀狼が地を蹴る気配を見せる。湊は《音操》で、その真後ろへ枝の折れる音を置いた。
ぱきり。
銀狼の耳が後ろを向く。振り向きはしない。それでも意識が一瞬だけ割れた。湊は横へ走って木の幹の陰へ入り、同時に《隠密》で気配を沈め直す。
次の瞬間、銀狼の巨体がさっきまで湊のいた場所を通り抜けた。爪が土を深く抉る。
着地した銀狼は周囲を見回し、鼻を動かす。風は東へ流れていた。湊は風下にいる。
やがて銀狼は低く、長く唸ると、肩から血を流したまま森の奥へ走り去った。足音が遠ざかっていく。
湊は木へ背を預けた。息が荒い。握った短剣の柄が、掌の汗で滑りそうだった。
「……逃げたか」
「ああ。傷を負った銀狼は無理に戦わん。巣へ戻って傷を癒す」
クロの前足が、湊の頬をぺし、と叩いた。
「馬鹿。死ぬところだったぞ」
「死んでない」
「死んでいないのは結果だ。急所を外した時点で退け」
湊は刃についた血を見る。
「……ああ。次はそうする」
「本当に分かっているのか、お前は」
クロが息を吐いたところで、湊の左手に熱が走った。
「……クロ」
黒い手袋が熱い。
銀の留め金が淡く光り、脈を打つように明滅している。さっきまで冷たかった革が、掌を焼くほどの熱を持っていた。
「ああ。見えている」
クロの声が低くなる。
「《従魔の手》が反応した。あの銀狼は、テイムの対象になり得る」
湊は光る留め金を見る。
「こんなに熱くなるものなのか」
返事がすぐには来なかった。
クロは銀狼が消えた森の奥を見ている。
「……いや。妙だ」
「何が」
「銀狼は強い。銀級相当だ。だが、この反応はそれだけでは説明がつかん」
金色の目が細くなる。
「それに、目だ。普通の銀狼は黄色い。あれは青かった」
湊も森の奥へ目を向けた。もう銀色の姿は見えない。
「テイムできるか」
「今は無理だ。触れて心を通わせる必要がある。あれはお前を敵と認識している。次に会えば、まず殺しに来るぞ」
湊は少し考えた。
「なら、次に会った時に教える」
「何をだ」
「俺が敵じゃないって」
クロが、じっと湊を見る。
「……どうやって」
「それは考える」
しばらくして、クロは頭を振った。
「お前は、本当に変な奴だな」
「よく言われる」
「言われてないだろう」
湊の口元がわずかに緩んだ。
クロは肩の上で体を丸め、尻尾を湊の首へ巻きつけた。
「付き合ってやる。だが、無茶はするな」
そこで一度、言葉が切れた。
「……お前が死んだら、私は一人だ」
湊は何も言わなかった。ただ、首に触れる尻尾を指先で一度撫でた。
街道へ戻る頃には、日が傾き始めていた。左手の手袋は、まだ熱を残している。肩の上のクロは目を閉じていたが、眠っているようには見えなかった。
さっきから時折、森の奥を振り返っている。
青い目の獣が消えた方角を。




