青い目
街道へ戻る頃には、日がほとんど沈んでいた。
道脇に残る崩れかけた石壁へ荷物を置く。昔の見張り台の跡らしい。火は使わなかった。煙を上げれば、銀狼にこちらの居場所を教えることになる。
湊は壁へ背を預け、干し肉を噛んだ。肩から膝へ降りたクロが、金色の目で見上げてくる。
「湊。あの銀狼を、どうやって手懐けるつもりだ」
「クロは、俺をどうやってテイムした」
「逆だ。お前が私をテイムしたんだ」
「じゃあ、俺はお前をどうやってテイムした」
クロが黙った。尻尾の先だけが、石の上を一度叩く。
「……パンを、半分くれた」
「そうだ」
「あれはテイムではない。ただの——」
「ただの、なんだ」
金色の目が細くなる。しばらくして、クロは顔を背けた。
「……ただの、優しさだ」
「それでいい」
湊は革袋の干し肉へ目を落とした。
「あいつは腹が減ってた。傷もある。明日、肉を持っていく」
「殺しかけた相手に飯を持っていくのか」
「腹が減ってる時は、殺し合うより飯の方が大事だろ」
「お前の理屈は、時々わからん」
「わからなくていい」
クロは溜息をつき、湊の膝へ前足を置いた。
「……だが、嫌いではない」
翌朝、街道沿いに仕掛けた括り罠へ野兎が二羽かかっていた。リーネに教わった罠だった。一羽は湊とクロの朝食にし、もう一羽は血を抜いただけで持っていく。
森へ入っても、《隠密》は使わなかった。《音操》も使わない。枝を踏めば音が鳴り、乾いた葉が靴の下で砕けた。
肩の上で、クロの耳が伏せる。
「正気か。傷を負った獣へ、居場所を知らせながら近づく気か」
「隠れて近づいたら、敵だ」
「隠れずに近づけば馬鹿だ」
「かもしれない」
湊は足を止めなかった。
昨日の岩場には、馬の骨だけが残っていた。そこから続く血の跡を辿ると、森は次第に深くなり、湿った土と古い葉の匂いが濃くなる。
やがてクロの体が強張った。
「前方六十歩。岩穴の中だ」
重なった岩の隙間に、暗い穴が見えた。風に血と獣の匂いが混じっている。
湊は入口から三十歩ほど離れた地面へ野兎を置き、さらに二十歩下がった。太い木の根元へ腰を下ろす。
「……何をしている」
「待つ」
「どれくらい」
「出てくるまで」
肉の匂いは届く。湊の姿も見える。武器には触れず、ただそこにいる。それで今日は十分だった。
クロはしばらく黙っていた。
「……私にも、そうしたな」
「何を」
「地下牢で。パンを置いて、何もせずにいた」
「待ってない。動く気がなかっただけだ」
「同じことだ」
クロの声が、最後だけ少しかすれた。
時間が過ぎた。木々の隙間を動く光が細くなり、森の冷気が足元へ溜まり始める。
岩穴の奥で、爪が石を擦った。
銀狼が顔を出す。肩の傷には黒く血が固まり、昨日より動きが鈍い。それでも、青い目だけはまっすぐ湊を捉えていた。
低い唸り声が森に落ちる。
湊は動かなかった。
銀狼の鼻先が動く。湊から、地面の野兎へ。もう一度こちらを見てから、一歩ずつ穴を出た。
前足を少し引きずっている。野兎まで来ると匂いを嗅ぎ、また湊を見た。
湊は目を逸らさなかった。ただ、睨み返しもしなかった。
やがて銀狼は野兎を咥え、そのまま岩穴へ戻った。
湊は立ち上がった。
「帰るぞ」
クロが小さく頷く。
「……食べたな」
「ああ」
「明日も来るのか」
「ああ」
首に巻きついた黒い尻尾が、いつもより少し強かった。
三日目。
同じ場所へ野兎を置き、同じ木の根元で待った。
銀狼は三十分もしないうちに姿を見せた。傷はまだ残っているが、歩き方は昨日より軽い。野兎を食べ終えても穴へ戻らず、その場に座って湊を見ていた。
青い目だった。
湊も見ていた。風が枝を揺らし、葉の擦れる音だけがその間を通り抜けていく。
やがて銀狼が立ち上がり、一歩だけ近づいた。
クロの爪が肩へ触れる。
銀狼はそこで止まり、鼻を鳴らした。それから背を向け、森の奥へ歩いていく。岩穴には戻らなかった。
「巣を変えたな。傷もだいぶ塞がっている。明日には走れるだろう」
「なら、明日が最後か」
「あれがここへ来る理由はもうない。銀狼は狩場を移す。追うつもりか」
湊は、銀色の背が消えた木々の奥を見る。
「いや。同じ場所に肉を置く」
「来なければ?」
「それで終わりだ。来るかどうかは、あいつが決める」
クロは返事をしなかった。だが、銀狼が消えた方角をしばらく見つめていた。
「……妙だな」
「何が」
「銀狼は人間を警戒する。ましてお前とは一度殺し合っている。三日でここまで近づくのは早すぎる」
「俺の匂いが変なのかもしれない」
クロの鼻がひくりと動いた。
「それは否定せん。初めて会った時から、お前はこの世界の人間と少し違う匂いがした。獣なら、なおさら分かるだろう」
「異世界人だから?」
「かもしれんな」
湊は自分の袖を鼻へ寄せた。汗と革の匂いしかしない。
「……わからない」
「自分の匂いを自分で嗅いで分かるか、馬鹿」
クロは鼻を鳴らした。それでも、視線だけは森の奥に残っていた。
四日目。
野兎を置いて、一時間待った。二時間経っても、銀狼は来なかった。
日が傾き始める。湊は膝についた土を払い、立ち上がろうとした。
その時、森の奥から足音が聞こえた。隠す気のない、重い足音だった。
銀狼が歩いてくる。肩の傷は塞がり、銀の毛皮が夕日を弾いている。昨日までの弱った歩き方ではない。野兎には目も向けず、まっすぐ湊へ近づいてきた。
十歩。五歩。三歩。
目の前で止まった。青い目が、湊を見上げている。温かい息が顔へかかり、血とは違う獣の匂いがした。
左手が熱くなる。黒い手袋の銀具が脈打ち、掌が焼けるほど熱を持っていた。
湊はゆっくり左手を上げた。
銀狼は動かない。
指先が額へ触れた。銀の毛は硬い。その下には確かな体温があり、速い鼓動が手のひらへ伝わってきた。
手袋が淡く光る。
声でも、言葉でもないものが流れ込んだ。
孤独。飢え。警戒。
その奥に、小さな信頼。
銀狼の青い目が細くなった。張りつめていた体から力が抜け、額が湊の掌へ押しつけられる。
クロが小さく息を呑んだ。
「……成立した」
光が消える。湊は銀狼の額を撫でた。大きな体が、ほんの少しこちらへ寄る。
「クロ」
「なんだ」
「名前」
「……嫌な予感がする」
湊は銀の毛皮を見る。
「シロ」
クロが目を閉じた。
「やはりか」
「クロがいるから、シロだ」
「安直すぎる」
「いい名前だろ」
銀狼——シロが、低く柔らかく鳴いた。
その瞬間、頭の奥へ何かが触れる。
——あたたかい。
湊は目を見開いた。
「……今の」
クロの耳が立つ。
「届いたか」
「温かい、って」
「契約でパスが通った。言葉そのものではない。感情や意思が、意味に近い形で流れる」
「クロとも?」
「当然だ。今まで気づかなかったお前が鈍い」
湊はシロを見る。青い目がこちらを見返し、首が少し傾いた。
——だれ。なまえ。くれた。
幼い。言葉というより、掴んだ意味を並べているようだった。
「シロ。お前の名前だ」
大きな尻尾が地面を叩く。
——シロ。シロ。
嬉しさまで一緒に流れてきた。
クロが深く息を吐く。
「……まあ、いい。よろしく、シロ」
シロはクロへ鼻先を近づけた。黒い尻尾がぴんと立つ。
——ちいさい。くろい。おなじ、なかま?
クロが固まった。
「……小さいは余計だ」
湊は少しだけ笑った。
シロが足元へ座り、大きな体を脚へ預けてくる。湊は銀の首筋へ手を沈めた。
——あたたかい。
同じ意味が、もう一度届いた。
ふと見ると、クロはシロではなく、光の消えた左手の銀具を見ていた。それから青い目へ視線を移し、何も言わずに尻尾を揺らす。
夕日が森を赤く染めていた。
三人になった。




