古竜の痕
《従魔覚醒》から、三日が過ぎた。
北へ進むほど、道から緑が減っていった。柔らかな土は小石混じりに変わり、草の間から灰色の岩が突き出している。
朝は吐く息が白い。
遠くに霞んでいたドラウグ山脈も、もう空の一部には見えなかった。連なる岩壁。雲の中へ消える峰。昼になっても白く残る雪。
見上げるたび、山が近づいていた。
シロは大きな姿で街道を歩いている。背は湊の胸ほどまであり、大きな足が乾いた地面を踏むたび、小石が鳴った。
――きょうは、のせないの?
「今日は歩く」
――つかれてない。
「知ってる。だから慣らすんだよ」
耳が少し下がる。
隣を歩くリーネが銀毛へ手を伸ばした。首元を撫でられた途端、下がっていた尾が揺れる。
――リーネ、もっと。
「もっと撫でてほしいって」
湊が伝えると、リーネが笑った。
「はいはい」
指が耳の後ろへ移る。
――きもちいい。
「現金だな」
シロの尾がさらに大きく揺れた。
上空では、アカが冷たい風に揺られていた。
覚醒してから翼は強くなった。それでも北の風は気に入らないらしい。高度を下げ、何度も湊の頭上を回っている。
――みなと。さむい。
「炎を纏ってるだろ」
――かぜ、つめたい。
赤い体がふっと降りてきた。
嫌な予感がして横へ避ける。
アカの爪は湊の肩を外し、そのままシロの背へ着地した。
シロの四肢が少し沈む。
――おもい。
――アカ、おもくない。
――おもい。
「喧嘩するな」
――してない。
二匹からほとんど同時に返ってきた。
クロが湊の肩で欠伸をする。
「言葉が増えても、中身は大して変わらんな」
シロの青い目が上を向いた。
――クロ、ちいさい。
クロの耳が伏せる。
「聞こえているぞ」
湊は笑いそうになって前を向いた。
冷たい風が頬を撫でる。
山は、もうすぐだった。
*
昼を過ぎた頃、街道が細くなった。
右手は岩壁。左手は浅い谷になっていて、風が止むと下を流れる水の音が聞こえる。
曲がり角の先で、道が塞がれていた。
崩れた岩が積み上がっている。
割れた面はまだ白く、ところどころ湿った土が張りついていた。足元には細かな石が散り、上の岩肌からも、時折ひと粒ずつ落ちてくる。
湊は《マッピング》を開いた。
崩落した道の形と、岩壁の張り出しが頭の中に浮かぶ。大きく道の奥まで崩れているわけではない。だが、見上げた先には新しい割れ目が残っていた。
「下だけ動かそう」
リーネも上を見る。
「上は触らない方がよさそうだね」
後ろから車輪の音が近づいてきた。
二頭立ての荷馬車が、坂をゆっくり上ってくる。御者の男は崩落を見るなり、深く息を吐いた。
「ここまで来てか……」
荷台には木箱がいくつも積まれていた。
シロが崩れた岩へ鼻を近づける。
――どける?
「大きいのはリーネさんに任せよう。シロは隙間の砂だけ飛ばせるか」
――できる。
銀色の前足の周りへ、弱い風が集まった。
轟音はしない。
岩の隙間に溜まった砂と小石だけが、さらさらと谷側へ流れていく。
支えを失った小さな岩が転がった。
リーネがその横から、人の胴ほどある岩へ両手をかける。
持ち上げた。
「そこ、空くよ」
「いつ見ても軽そうにやるな」
「軽いからね」
道端へ置く。
御者の男が目を丸くしていた。
湊は時々上を見た。白い割れ目から小石が落ちれば手を止める。
シロが砂を払い、リーネが岩を移す。
アカも一度炎を集めかけたが、湊が首を振ると渋々消した。代わりに、谷へ落ちかけていた枝を嘴で咥えて運んでいる。
やがて、荷馬車一台が通れる幅が開いた。
「助かったよ」
御者は何度も頭を下げた。
「山門都市まで行くんだろ? 荷台は詰まってるが、兄ちゃんと姉ちゃんくらいなら御者台に乗れる。よかったら乗ってくかい?」
湊はシロとアカを見る。
大きなシロは当然として、アカまで含めれば荷馬車と歩調を合わせる方がかえって窮屈そうだった。
「ありがとうございます。でも、俺たちは歩いていきます」
「そうか。じゃあ、あと半日もない。日が落ちる前には着けるはずだ」
「助かります」
御者はもう一度手を上げ、荷馬車を進めた。
車輪がゆっくり岩の間を抜けていく。乾いた音が、谷へ何度も反響した。
*
夕方までには着かなかった。
山から吹き下ろす風が思ったより強くなり、湊たちは岩壁の窪みで野営を決めた。
奥行きは浅いが、風は避けられる。
アカが入口近くで小さく炎を灯した。前なら焚き火が必要だった広さが、それだけでじんわり温まっていく。
――これくらい?
「ちょうどいい」
――じょうず?
「ああ」
尾羽が嬉しそうに揺れた。
シロは窪みの入口へ伏せ、大きな体で風を遮っている。クロは湊の膝へ丸まり、干し肉と豆を煮たスープの匂いだけに鼻を動かした。
リーネは椀を両手で持ち、湯気の向こうに山を見ていた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「前にも、この辺まで来たことあるんだ」
湊は顔を上げた。
「湊と別れたあと。北側の谷で、古竜が暴れてるって依頼が出てね」
エルダの図書室が浮かんだ。
空になった窓際の椅子。
受付で渡された短い手紙。
リーネが北へ向かったことだけは、あの時に聞いている。
「あたしが着いた頃には、もういなかったけど」
スープを一口飲む。
「谷は凍ってた。崖も何か所か崩れてて、最初は人里を襲った古竜の仕業だって言われてた」
風が窪みの外を鳴らす。
リーネの紫の目が、その暗がりへ向いた。
「でも、変だったんだよね。村へ向けて力を使った跡がなかった。家も畑も狙われてない。凍った場所も、崩れた場所も、ばらばら」
湊は黙って聞いた。
「大きな爪痕と、青い鱗が一枚だけ残ってた」
リーネの指が椀の縁をなぞる。
「本気で人を襲う古竜なら、もっと酷いことになってたと思う。だから、誰かを襲ったっていうより……何かに苦しんで、周りが見えなくなってたみたいに見えた」
クロが膝の上で目を開いた。
「古竜なら、力の扱いを知らん歳でもあるまい」
「でしょ?」
「なら、理由はあったのだろうな」
それだけだった。
リーネは小さく頷く。
「見つけたかったんだけど、気配は北へ消えてた。村へ戻る様子もなかったから、依頼はそこで終わった」
椀から湯気が上がる。
「あの竜、今どうしてるんだろ」
返事はなかった。
風の向こうで、遠くの岩が鳴った。
*
翌朝。
街道はさらに急な上り坂になった。
山肌を削った道を進んでいると、冷たい空気へ別の匂いが混じり始めた。
煤。
焼けた鉄。
油。
シロが鼻を上げる。
――におい、いっぱい。
アカも煙を見つけ、翼を広げた。
前方の山腹から、何本もの煙が上がっている。
さらに進むと、岩壁の間に巨大な門が現れた。
山そのものを削って作った石門。
両脇には、盾と槌を持つ像が立っている。
門の奥から、金属を打つ音が聞こえた。
低く。
重く。
同じ間隔で、山の中へ響いていく。
リーネが足を止める。
懐かしそうに石門を見上げた。
「ここから先に、会わせたい奴がいる」
三十年前の仲間。
「どんな人なんだ」
リーネは少しだけ考えた。
「あたしより頑固」
肩のクロが片耳を動かす。
「それは相当だな」
「失礼だね」
リーネが笑った。
その時。
門の上で、警鐘が一度鳴った。
笑みが消える。
石壁の上に人影が並び始めた。
視線は、湊たち――いや、大きなシロと、赤い翼のアカへ集まっていた。




