覚醒
湊は歩きながら、右手に浮かんだ紋様を見た。
淡い光へ意識を向けると、使い方が自然に頭へ入ってくる。
《従魔覚醒》。
契約した従魔の力を、一段階だけ引き上げる。一度きりで、使った時にそばにいる従魔へまとめて作用するらしい。
「何が出た」
左肩からクロが覗き込む。
「《従魔覚醒》」
クロの耳が立った。足元のシロも顔を上げ、アカは右手の光へ嘴を寄せてくる。
「ぴ?」
「待て」
手を引くと、アカが不満そうに羽根を膨らませた。
リーネが横から三匹を見る。
「その名前、シロたちに使うやつ?」
「ああ。一回だけみたいだ」
クロの尾が、湊の背でゆっくり揺れる。
「なら、もう少し森から離れてから試せ。どれほど魔力が動くか分からん」
振り返れば、まだ木々の間に妖精たちの光が見えた。
「そうする」
湊は右手を握った。
紋様の光が、掌の中へ沈んだ。
*
昼前には、世界樹の甘い匂いがほとんど消えていた。
木々も途切れ、北へ続く丘陵が広がっている。乾いた風が草を伏せ、その向こうには雲と見分けにくい灰色の山影があった。
ドラウグ山脈。
湊たちは街道を外れ、人の気配がない岩場へ入った。平たい石が重なり、中央には古い倒木が一本横たわっている。
《マッピング》にも、近くに光点はない。
「ここならいいか」
荷物を下ろす。
シロが子犬ほどの姿から本来の大きさへ戻った。アカも肩を離れ、倒木の上へ降りる。クロだけはいつもの場所に残った。
湊は三匹へ目を向ける。
シロが尾を振った。
――やる?
「ああ」
アカも翼を開く。
「ぴぃ!」
クロの爪が、肩の布を軽く掴んだ。
「やれ」
湊は目を閉じた。
三匹との繋がりを意識する。
最初に浮かんだのは、暗い地下牢だった。
痩せた黒猫。硬いパンを分けた夜。金色の目。
次に、街道脇の草原。
置いた肉。距離を取ったまま待った三日間。最後に、自分から差し出された銀色の頭。
赤い卵が割れた時の熱も戻ってくる。
掌の中で生まれた小さな鳥。迷うことなく顔へ飛びついてきた温もり。
胸の奥で、三つの繋がりが重なった。
契約だけではない。
ここまで一緒に歩いてきた三匹だった。
湊は右手を開く。
白い光が立ち上がり、細い糸のように三方向へ伸びた。
クロへ。
シロへ。
アカへ。
光が触れた瞬間、岩場を風が駆け抜けた。
*
シロの銀毛が大きく波打った。
足元で砂が跳ねる。四肢が太くなり、背が持ち上がっていく。骨格が一回り大きくなっただけなのに、立っているだけで岩場が狭く見えた。
青白い光が、銀毛の奥を細く走る。
「シロ」
大きな頭が下がった。
青い目が湊を映す。
――みなと。
届いた念話が、以前よりはっきりしていた。
――ちゃんと、ことば、できる。
湊は目を瞬く。
「ああ。聞こえる」
シロの尾が勢いよく振られた。風圧で外套が膨らむ。
――シロ、おおきくなった。つよくなった。
「それも分かるのか」
――わかる。
得意げに胸を張る。
リーネには念話までは聞こえない。それでも様子で分かったらしい。
「すごく嬉しそうだね」
その声に重なるように、倒木の上で赤い炎が膨らんだ。
アカの輪郭が炎の中で大きくなる。
翼が広がる。
熱い風が頬を撫でた。
炎がほどけた時、そこにいたのは鷹よりも大きな赤い鳥だった。広げた翼は湊の背丈を越え、深紅の羽根の後ろで長い金色の尾羽が揺れている。
「ピィィッ!」
澄んだ声が丘へ響いた。
直後、別の声が胸へ飛び込んでくる。
――みなと!
湊は動きを止めた。
感情だけではない。
幼いけれど、はっきりした言葉だった。
――みなと。すき!
赤い体が真正面から飛び込んでくる。
「待て、アカ」
間に合わなかった。
胸へ頭を押しつけられ、湊は二歩よろける。アカは気にもせず、大きな頬を何度も擦りつけてきた。
――すき。みなと、すき!
「分かった。分かったから」
羽根に埋もれながら押し返す。
――やだ。
「大きくなっても変わんないね」
リーネが笑っていた。
*
ようやくアカを離し、湊は肩を見る。
クロはそこにいた。
黒い子猫のまま。
折れた耳も、金色の目も、前足の大きさも変わっていない。
けれど、光が届かなかったわけではなかった。
発動した一瞬、いつもより深いところでクロの存在に触れた感覚が残っている。
「クロは……」
「届いている」
クロは自分の前足を見て、爪を出した。すぐ引っ込める。
「私にも分かる。見た目はこのままだな」
それだけ言って、湊を見る。
「別に困らん」
「そっか」
「何だ、その顔は」
クロの前足が頬へ伸びた。肉球が軽く触れる。
「私はここにいる。それで十分だろう」
湊は小さく息を吐いた。
「ああ」
シロの念話が割り込む。
――クロ、ちいさい。
クロの耳が横へ倒れた。
「……覚醒して最初に私へ言うことがそれか」
アカも首を伸ばした。
――クロ、ちいさい。かわいい。
「お前まで乗るな」
――かわいい。
クロの尾が膨らむ。
リーネが三匹を見比べた。
「何か言われた?」
「聞かない方がいい」
クロが先に答えた。
湊は笑いを堪えながら、黒い背を一度撫でる。
クロは手を払わなかった。
*
少し休んでから、新しく開いた力を試した。
まずはシロだった。
岩場の端へ移動し、倒木へ向き直る。銀毛の間を抜ける風が、さっきまでとは違う音を立てていた。
――やる。
「小さくな」
――わかった。
前足が振られる。
空気が鋭く鳴った。
少し離れた倒木の枝が落ちる。
湊は切断面を見る。刃物を入れたように滑らかだった。
「風か」
リーネが枝を拾う。
「使いやすそうだね」
――もっと、できる。
シロの牙の間で、青白い光が瞬いた。
嫌な予感がした。
「シロ、待――」
雷鳴が弾けた。
倒木の幹が爆ぜ、焦げた木片が岩へ降り注ぐ。
耳の奥が痺れた。
「シロ!」
湊が駆け寄る。
銀の巨体がふらついた。呼吸が荒く、毛の間に走っていた青白い光も消えている。
――つかれた。
「そりゃ疲れるだろ」
首元へ手を当てる。体温はいつもより高い。
クロも岩からシロを見上げた。
「威力に体が追いついていない。続けて使うものではなさそうだ」
――わかった。
シロの耳が伏せる。
――ごめんなさい。
「次から気をつければいい」
湊が首を撫でると、大きな頭が押しつけられた。
重い。
以前より、ずっと。
*
シロを休ませている間に、アカが空へ上がった。
一度翼を打つだけで、高く舞い上がる。
赤い尾が青空へ長く伸びた。
――みなと、みて!
嘴の前に炎が集まる。
「岩へ。草には撃つなよ」
――わかった!
火球が飛んだ。
拳より大きな炎が離れた岩へ当たり、赤い火の粉が散る。岩肌が黒く焦げた。
アカの尾羽が大きく揺れた。
――できた!
「できたな」
喜んだ次の瞬間、また嘴が開く。
今度は火球ではない。
長い炎が岩場を横へ走った。
「アカ!」
炎の先が草へ近づく。
銀色の光が横切った。
リーネの剣が生んだ風圧で、炎が空へ逸れる。熱気だけが頭上を抜けていった。
アカは空中で固まった。
ゆっくり地面へ降りる。
――ごめんなさい。
「今のは危ない」
――うん。
翼がしょんぼりと下がる。
クロが近くの岩へ飛び乗った。
「まずは火球だけにしておけ。広く吐く炎は、周りを見てからだ」
アカはクロを見る。
――クロ、ちいさいのに、えらそう。
金色の目が細くなった。
「湊。この鳥を焼き鳥にしてよいか」
「駄目だ」
「冗談だ」
アカが湊の背後へ回る。
体が大きすぎて、ほとんど隠れていなかった。
リーネが眉を上げる。
「今度は何?」
「たぶん知らない方がいい」
*
昼を過ぎるまで、岩場で休んだ。
シロの呼吸が落ち着く頃には、風も少し冷たくなっていた。
移動を再開する前に、シロが地面へ伏せる。
広くなった背中を見て、リーネが手を置いた。
「これなら二人でも余裕ありそう」
――のれる。ふたり、だいじょうぶ。
「大丈夫だって」
湊が伝える。
先に背へ乗り、リーネも後ろへ続いた。アカは空へ上がり、クロはいつもの左肩に戻る。
シロが立ち上がった。
視線が一気に高くなる。
「行けるか」
――いける。
銀色の体が走り出す。
最初の一歩で、景色が後ろへ流れた。
草を蹴る音。
頬を叩く風。
頭上ではアカの赤い翼が陽光を弾いている。
丘をいくつも越え、北の山影が少しずつ濃くなっていった。
一刻ほど経った頃、シロの速度が落ちた。
呼吸は乱れていない。
それでも、足の運びが重い。
「シロ、止まろう」
――まだ、はしれる。
「今日は初めてだ」
――でも。
「休もう。急ぐ旅じゃない」
耳は不満そうに伏せたが、シロは素直に速度を落とした。
木陰へ入る。
湊とリーネが降りると、銀色の巨体が草へ伏せた。二人を乗せて長く走るには、途中で休ませた方がよさそうだった。
水を出すと、シロが大きな舌で飲む。
アカも地面へ降り、翼を畳んだ。
クロは湊の膝へ移り、いつもの大きさのまま丸くなる。
「便利になったね」
リーネがシロの背を撫でた。
「ああ。でも、無理はさせない」
クロが目を閉じる。
「それでいい」
湊はシロの銀毛へ背を預けた。
温かい。
反対側から、アカも体を寄せてくる。以前より大きな炎は、触れる場所だけ柔らかく温度を落としていた。
――みなと。
アカの声が届く。
――いっしょ、うれしい。
シロも顔を寄せてくる。
――シロも。ずっと、いっしょ。
膝の上で、クロの尾が一度だけ動いた。
「……騒がしい」
そう言いながら、丸くなった体は離れなかった。
湊は三匹へ手を伸ばす。
姿が変わった。
力も増えた。
言葉も少し増えた。
それでも、手に触れる温度は同じだった。
風の向こうには、ドラウグ山脈がある。
湊たちはしばらく木陰で休み、それからまた北へ進んだ。




