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北へ

翌朝、湊はフェルナンドに呼ばれた。


通されたのは評議の間ではなく、王宮の下層にある小さな作業室だった。窓はなく、壁に埋め込まれた魔石灯が白い机を照らしている。


机の中央には黒い布が敷かれ、その上に指先ほどの金属片が置かれていた。表面は黒く焼けている。それでも割れた内側には、細い溝と幾重もの輪が残っていた。


新月の夜に爆ぜた、あの魔道具の破片だった。


部屋には国王、フェルナンド、レーア、リーネ、それから妖精族の長がいる。エルフの術師が二人、机を挟んで立っていた。湊の肩にはクロ。シロとアカは客室で待っている。


「大部分は爆発で失われています」


術師の一人が細い道具で破片を示した。


「これは内側にあった制御部品でしょう。溜めた魔力を支え、起動した瞬間に一気に崩すための溝が残っています」


クロが《魔力崩壊核》と仮に呼んだもの。


湊は黒い破片を見た。


「どこで作られたかは分かりますか」


「そこまでは。ただ――」


術師が言葉を切る前に、リーネが机へ身を寄せた。指では触れず、刻まれた線を目で追う。


「ドワーフの手っぽいね」


フェルナンドが視線を上げる。


「この加工ですか」


「うん。これだけ細い部品に魔力を通して、歪ませない。エルフなら術式で補うし、人間の工房ならもう少し大きく作る」


リーネは焼けた金属を横から見る。


「こういう面倒なのを、小さく押し込むのはあいつらが得意」


クロの尾が湊の背へ垂れた。


「ドワーフの手が入っているとしても、分かるのはそこまでだ。あの男どもが、どこから手に入れたかは別の話だ」


フェルナンドが頷いた。


「なら、部品の流れを追います」


術師の一人がクロへ目を向けた。


「しかし……一目でそこまで分かるものなのですね」


クロの耳が動く。


「長く生きていれば、要らぬ知識も増える」


術師の視線が少し長く残った。


国王が静かに口を開く。


「そこまでにしておけ」


術師が頭を下げた。


国王はクロを一度見たが、それ以上は何も聞かなかった。


「この国は、お前の知識に助けられた。詮索して返すことではない」


クロの尾が一度だけ揺れる。


「……そうか」


小さく答え、湊の首元へ体を寄せた。



フェルナンドが別の記録板を開いた。


オウルの証言を書き留めたものだった。正式な聞き取りの途中で、本人にも繋がらないまま残っていた感覚がいくつかある。


熱い鉄の匂い。


肌へ張りつく熱気。


黒い箱。


金床にも、山にも見えた荷印。


フェルナンドは交易台帳を隣へ置いた。


「似た荷を、過去の記録から拾いました」


黒い金属箱。精密魔道具部品。似た形の荷印。


いくつかの商会を経由してエルフ国へ入った荷の中に、同じ特徴を持つものがあった。送り元は北方、ドワーフ王国の鉱山都市に付属する工房区。


術師が破片を拡大鏡の下へ置く。


「この刻印も、そこの出荷品に使われるものと形が近いです」


フェルナンドの指が台帳の一行を押さえた。


「記録では、あくまで制御部品として出荷されています。ここから先は、工房で流れを追うしかありません」


湊は焼けた破片を見る。


工房で何が作られ、どこへ流れたのか。


そこなら追える。


「行ってみます」


国王が短く頷いた。



机へ地図が広げられた。


世界樹の森から北へ、灰色の山脈が連なっている。ドラウグ山脈。その内部と周辺に、ドワーフ王国の都市が点在していた。


一方、南方諸島は遠い。


大陸を南へ下り、さらに海を越えた先。地図には大小の島がいくつも描かれているが、十二人が送られるはずだった場所までは記録にない。


湊の目は南へ向いた。


半年以上前に消えた獣人たちも、あの海のどこかにいるかもしれない。


北へ向かえば、そこから離れる。


「南へ行く方が早くないか」


口にすると、クロが地図を見下ろした。


「海へ出てから、どこを探す」


湊は答えられなかった。


港も分からない。船も、航路も、島の名さえない。


リーネが北方の鉱山都市へ指を置く。


「こういう部品は、一度送って終わりじゃないよ。交換も修理もある。工房なら、どこへ何を出したか知ってる奴がいるかもしれない」


「記録が消されてても、人までは全部消せない」


湊が言うと、リーネが頷いた。


「うん。先にこっちを辿った方が、南へ着いてから迷わずに済む」


南方の海と、北方の山。


湊は二つを見比べた。


「ドワーフ国へ行きます」


フェルナンドが交易台帳を閉じる。


「写しを用意します。破片は国で保管しますが、刻印と寸法は術師に写させます」


「ありがとうございます」


リーネが地図から手を離した。


「あ。ドワーフ国なら、会っておいた方がいい奴がいる」


「知り合い?」


「三十年前の仲間」


湊はリーネを見る。


「勇者パーティーの?」


「うん」


紫の瞳が少し懐かしそうに細くなった。


「今も昔みたいに頑固なら、たぶん話は聞いてくれる」


クロの片耳が伏せる。


リーネがそれを見逃さなかった。


「クロは会いたくない?」


「別に」


「耳がそう言ってないけど」


「うるさい」


声に怯えはなかった。


ただ、尾の先だけが落ち着かず揺れていた。



話がまとまると、術師たちは破片と記録を持って退出した。


扉が閉じる。


残ったのは、国王、フェルナンド、レーア、リーネ、妖精族の長。それから湊とクロだけだった。


フェルナンドも立ち上がりかける。


「待て」


クロが言った。


全員の目が黒猫へ向く。


さっきまで机の破片を見ていた金色の目が、今度は国王を見た。


「先ほど、詮索はしないと言ったな」


「ああ」


「なら、私から話す」


湊の肩で、クロの爪がわずかに布へ沈んだ。


リーネが息を止める。


クロは一度だけ彼女を見た。


それから妖精族の長へ目を向ける。


「世界樹の守り手にも、黙ったまま去る気はない」


透き通った翅の動きが止まった。


クロは机へ飛び降りた。


小さな黒い体で、王たちと向き合う。


「三十年前」


声は静かだった。


「この世界に、ヴァルナハートと呼ばれた魔王がいた」


フェルナンドの指が椅子の背で止まる。


レーアの顔から表情が消えた。


国王も動かなかった。


クロは目を逸らさない。


「それが私だ」


魔石灯の小さな音だけが聞こえた。


長い沈黙のあと、国王の視線がリーネへ向く。


リーネは小さく頷いた。


「知ってた。旅の途中で、クロ本人から聞いた」


フェルナンドが息を吐く。


机へ置いた指に力が入っていた。


「三十年前、世界樹へ攻め込んだ魔王軍は」


「私の軍勢だ」


クロが答える。


「私自身も、この森へ来た」


言い訳を探すような間はなかった。


「ここでニーズヘッグを止めたことも、オウルを助けようとしたことも、それとは別だ。三十年前に私がこの森へ刃を向けたことは変わらん」


レーアが唇を結ぶ。


妖精族の長は、じっとクロを見ていた。


「勇者に討たれたはずだ」


国王の声は低かった。


「ああ。力も身体も失った」


クロが自分の前足を見る。


「それでも死に切れず、気づけばこの姿だった。今はクロと名乗っている」


それ以上は語らなかった。


《魔王》が何だったのか。


どうして黒猫になったのか。


三十年前の最後に何があったのか。


この場で並べる話ではなかった。


フェルナンドが目を閉じ、ゆっくり開く。


「今すぐ、何か答えられる気はしません」


「それでいい」


クロの返事は短かった。


妖精族の長が根を思わせる細い杖へ手を置く。


「世界樹は覚えている」


クロの耳が動く。


「三十年前、この森へ来た魔王を。焼けた根を。失われたものを」


長の翠の目は逸れなかった。


「そして今、同じ根の傷へ手を当てた黒猫も見ている」


朝の作業室に、かすかな葉擦れの音が届いた。


「どちらも忘れぬ」


クロはしばらく黙っていた。


やがて、頭を一度だけ下げた。


国王が机の上の黒猫を見る。


「この話は、ここにいる者の中で止める」


フェルナンドもレーアも異を唱えなかった。


クロは湊の方へ戻ってくる。


机から肩へ飛び移ると、いつもより深く首元へ体を寄せた。


湊は何も言わず、その背へ指を置いた。



出発は翌朝に決まった。


その日の夕方、湊たちは王宮の奥にある庭へ招かれた。


王妃が待っていた。レーアと、四人の王女たちもいる。


名前を聞く間もなく、シロが囲まれた。


小さな姿のまま、何本もの手に背と頭を撫でられる。


――みなと。


助けを求める感情が流れてきた。


――いやか?


少し間がある。


――いっぱい。でも、きもちいい。


湊は放っておくことにした。


アカは最初から得意げだった。王女たちの間を飛び回り、翼を広げるたび赤い炎が揺れる。


「ぴぃ!」


声が上がると、さらに胸を張った。


「完全に調子に乗ってるね」


リーネが呟く。


「いつもどおりだ」


クロは少し離れた椅子の上に座り、尾を前足へ巻きつけていた。


王妃が手を伸ばす。


「あなたは来ないの?」


「私は見世物ではない」


「そう」


王妃は無理に触れず、手を膝へ戻した。


クロはしばらくその手を見ていた。


やがて椅子から降り、小さな足で近づく。裾へ鼻を寄せると、王妃が今度はゆっくり手を下ろした。


指が頭へ触れる。


耳の後ろを一度撫でられ、クロの金色の目が細くなった。


喉から小さな音が漏れる。


「鳴いてるよ」


リーネが言った。


「鳴いていない」


「鳴ってるね」


「気のせいだ」


クロは王妃の隣から動かなかった。


庭に、久しぶりに柔らかな笑い声が流れた。


オウルはいない。


空いた場所は消えない。


それでも王妃は娘の手を取り、リーネもそこに座っていた。


「また行くのね」


「うん」


「今度は、もう少し早く帰っておいで」


リーネの表情が止まる。


森を出た昔。


門まで見送ったレーアも、同じことを言った。


リーネは王妃の手を握り返す。


「うん。今度は早く帰る」


湊は少し離れた場所から、その光景を見ていた。


撫でられて困りながら尾を振るシロ。王女たちの間で得意げに鳴くアカ。王妃の隣で喉の音をごまかしているクロ。


旅を始めた頃、自分に家族と呼べるものが増えるとは思っていなかった。


アカが飛んできて、肩へ降りる。


クロも王妃のそばを離れ、反対側の肩へ戻った。


「何をぼんやりしている」


「別に」


「なら、シロを回収しろ。撫で潰されるぞ」


――まだ、だいじょうぶ。


「大丈夫らしい」


クロが呆れたように息を吐いた。



翌朝。


湊たちはすぐには森の出口へ向かわず、世界樹の根元へ向かった。リーネの家族も一緒だった。


朝の森には薄い霧が残っている。草の先に溜まった露が、歩くたび靴を濡らした。


白銀の幹が見えてくる。


傷ついた北西の根はここから見えない。それでも、以前より幹を流れる光は弱く、枝の間を飛ぶ妖精たちの輝きもまだ小さかった。


湊たちが近づくと、一匹、二匹と光が集まってくる。


やがて数え切れないほどの妖精が根元を舞った。羽音が重なり、小さな鈴をいくつも鳴らしたように響く。


シロが鼻を上げた。


――いっぱい。


――ああ。


――みおくり?


「たぶんね」


リーネの声が少し掠れた。


世界樹の根の上には、妖精族の長が立っていた。


人間の子供ほどの体。透き通った翅。以前より纏う金色の光は弱い。それでも深い翠色の目は変わらなかった。


「行くのか」


「はい」


湊は頭を下げる。


「お世話になりました」


「世話を受けたのは、我らだ」


長は世界樹の幹を見上げた。


「傷は残る。だが、流れは戻った」


妖精たちの光が揺れる。


「お前たちが戻したものもある」


湊は根へ目を落とした。


ここへ来てから失ったものも、同時に浮かんだ。


長の視線がクロへ移る。


「黒き古き者よ」


クロの耳が動く。


「何だ」


「世界樹は、戻ったものも失われたものも忘れぬ」


昨夜と同じ言葉ではなかった。


それでもクロは意味を受け取ったように、尾を体へ巻きつける。


長はシロとアカを見る。


「白き子も、赤き子も、また来るがよい」


――くる。


シロが即座に答えた。


アカも高く鳴く。


「ぴぃ!」


長の口元が、わずかに緩んだ。


最後にリーネを見る。


「また去るのだな」


「うん」


リーネは根へ手を置いた。


「でも、今度は帰ってくるよ」


「森は道を忘れぬ」


リーネの指の下で、世界樹の根が淡く光る。


風が吹いた。


遥か上で葉が鳴り、森全体が息をしたような音が降りてくる。


湊は白銀の幹を見上げた。


「また来ます」


返事はない。


一枚の葉が舞い落ち、湊の前を通って根へ降りた。



森の入口まで、家族が見送った。


国王とフェルナンド。王妃。レーアと四人の王女。


妖精族の長は世界樹へ残ったが、小さな光が何匹も木々の間をついてきている。


湊は荷物を背負う。


シロは小さな姿で足元にいる。アカは右肩、クロは左肩。


リーネが家族へ向き直った。


「行ってきます」


レーアが頷く。


「行ってらっしゃい」


王妃も、ほかの姉たちも同じ言葉を返した。


国王は娘へ一度だけ頷く。


フェルナンドは湊へ、交易記録の写しを収めた筒を差し出した。


「北方の山道は通れます。森へ戻る道はこちらで警備を増やしておきます」


「ありがとうございます」


「妹を頼みます」


湊が返事をする前に、リーネが眉を上げた。


「逆じゃない?」


フェルナンドの口元が、ほんの少し動く。


「では、互いに」


「それならいいよ」


湊は筒を受け取った。


「行ってきます」


森の外へ歩き出す。


木々の隙間から朝の光が差し、背後で妖精たちの羽音が遠ざかっていく。世界樹の甘い匂いも、少しずつ薄くなった。


しばらく進んだところで、湊の右手が温かくなる。


足を止めた。


手の甲に、淡い紋様が浮かんでいる。


久しぶりに見る光だった。


世界樹。


十二人。


オウル。


その間、思い出すことすらなかった。


失った日の分は戻らない。


今、手の中にある一回だけだった。


クロが肩から覗き込む。


「どうした」


「忘れてた」


クロもしばらく紋様を見る。


「なら、今から使えばいい」


湊は頷いた。


北方。


ドラウグ山脈と、鉄の国へ続く道。


その先で、南方へ届く手掛かりを探す。


湊は右手を握った。


淡い光が、指の隙間から漏れた。


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