傷痕
事件から、五日が過ぎた。
十二人は全員、生きていた。まだ治療棟を出られない者もいるが、長く眠ったままの者も、少しずつ食事を取れるようになった者もいる。家族の声に、涙だけを流した者もいた。
回復の速さは違う。それでも、命が失われる危険は越えたと、治療担当は話した。
湊は治療棟の扉の前で、それを聞いた。中には入らなかった。開いた扉の向こうから、低い話し声と、ときどき押し殺した泣き声が聞こえてくる。
シロが足元から扉を見上げた。
――あわない?
「ああ。今は家族がいるから」
シロの耳が動く。しばらく扉を見てから、尾を一度振った。
――よかった。
「そうだな」
アカが肩の上で小さく鳴き、頬を首元へ擦りつける。反対側の肩では、クロが目を閉じたまま鼻を鳴らした。
湊は扉の奥へもう一度耳を澄ませてから、その場を離れた。
*
世界樹の北西の根にも、変化が出ていた。
腐食は止まっている。黒く変色していた表面の縁には、薄い緑が戻り始めていた。
だが、ニーズヘッグが食い込んでいた場所には、大きな窪みが残っている。近づくと、湿った土に混じって、薬草に似た苦い匂いが鼻に残った。
妖精族の長が傷へ光を流している。周囲では何匹もの妖精が根へ小さな手を当て、淡い光を重ねていた。
「腐りは止まった。時間はかかるが、この根はまだ生きておる」
長は傷を見上げる。
「新しい根が覆っても、傷そのものが消えるわけではない」
完全封鎖結界の反動も、森のあちこちに残っていた。以前より風が深く入り込み、遠くでは外の鳥の声まで聞こえる。
妖精族の長の光も弱い。飛ぶ高さは低く、羽ばたくたびに少し体が沈んだ。
「我らもしばらくは休まねばならぬ者が増えるだろう」
湊は頭上を見上げた。色を失った葉が、風に押されて一枚落ちる。
長は根へ手を置いたまま、その葉を見送った。
「森は、人より長く傷を持つ」
*
王宮へ戻る途中、リーネはほとんど話さなかった。
銀髪が風に揺れる。何度か口を開きかけたが、そのたびに閉じた。
やがて、前を見たまま言う。
「このあと、オウル兄さまのところへ行く」
「うん」
「レーア姉さまも兄上も、毎日顔を出してる。父上も夜には来てるみたい」
声に疲れが滲んでいた。
少し先で、リーネが足を止める。露出した世界樹の根へ手を置き、しばらく黙った。
「何を言えばいいのか、分かんなくなるね」
湊はすぐには答えなかった。
言葉が役に立たない時はある。それでも、黙って隣にいることで呼吸が戻った夜もあった。
「無理に言わなくてもいいんじゃないか」
リーネが根へ置いた手を見る。
「……そっか」
小さく息を吐き、また歩き始めた。
*
オウルの治療室には、世界樹の細い根が伸びていた。
妖精族の長が魔力回路を支え、クロが日に一度、首筋に残る術式を見ている。黒い筋は少しずつ薄くなっていたが、まだ皮膚の奥に残っていた。
クロが胸元へ前足を当てる。黒い筋が、その下でかすかに脈打った。
「まだ深いな。無理に剥がせば、お前の回路まで傷つく」
しばらく様子を見てから、クロは前足を離した。
「焦るな。まだ時間はかかる」
オウルが目を開ける。顔色は、数日前より戻っていた。
「……そうですか」
「数か月で済むか、それ以上か。完全に消せるところまで戻るかは、まだ見通せん。回路が戻るのを待て」
オウルは静かに頷いた。
手首には、《物品化》を封じる術式が残っている。指先が、その印をなぞった。
レーアが寝台の横へ座り、今日の治療記録を閉じる。
「十二人は、今日も落ち着いています。食事を取れた方も増えました」
オウルの肩から、わずかに力が抜けた。
「そうですか」
窓の外へ目を向ける。世界樹の枝には、封鎖の反動で色を失った葉がまだ混じっていた。
しばらくして、唇が動く。
「エイラとダリウスは……まだ、王宮に?」
「ええ」
二人の体は、調査が終わるまで安置されたままだった。爆発の痕跡だけでなく、体に残った術式も調べられている。
オウルは目を伏せた。
「僕が、あの場所へ連れていった」
レーアは何も言わない。
「二人の忠誠を利用した。僕のためなら何でもすることを知っていた。それを使って、十二人を攫った」
声は静かだった。
レーアの手が伸びる。
オウルは避けなかった。重ねられた手を見つめ、指先をわずかに曲げる。
長い沈黙のあと、オウルが小さく息を吐いた。
「……すみません」
レーアの手は離れなかった。
*
夕刻。
客室へ戻ると、シロが先に寝台へ飛び乗った。子犬ほどの体で毛布を掘り、できた窪みへアカが座り込む。
クロは窓枠へ上がった。
湊は椅子へ腰を下ろしたが、しばらく外套を脱がなかった。
「静かすぎたな」
クロが窓の外を見たまま言う。
「ああ」
それ以上は続かなかった。
治療室で見たオウルの顔が、妙に残っていた。十二人の無事を聞いても、エイラとダリウスの話をしても、声の波がほとんど変わらなかった。
窓の外が暗くなる。細い月が、世界樹の枝の間に浮かんでいた。
湊は外套を脱ぎ、寝台の脇へ置く。
傷ついた世界樹の葉が、夜風の中で擦れ合っていた。




