帰還
岩の窪地へ戻ると、治療担当が一斉に立ち上がった。
中央には黒い魔法袋が置かれ、その前をシロが塞いでいる。銀毛を逆立て、近づく者を一人ずつ確かめていた。袋の隣にいたアカは湊を見つけると、小さく鳴いて胸へ飛び込んでくる。
「無事だ」
片手で受け止めると、アカは何度も頬へ頭を擦りつけた。
その間に、リーネはオウルを寝台へ寝かせていた。治療師が外套を開き、胸と首筋を確認する。黒い筋は消えていない。皮膚の奥へ薄く沈み、動きを止めていた。
クロが寝台へ飛び乗る。
「黒い術式には触れるな。今は静まっているだけだ」
治療師の手が一瞬止まったが、すぐにオウルの脈と呼吸へ戻る。
「魔力回路は?」
「かなり傷んでいる。強い回復魔法は流すな。水分と体温を保って、魔力は最低限にしろ」
疲れの滲んだ声だった。それでもクロの金色の目は、オウルの首筋から離れない。
オウルの瞼がわずかに動いた。
「……袋」
湊が近づく。
「ここにあります」
顔だけを動かし、黒い袋を見つける。オウルは起き上がろうとしたが、腕に力が入らなかった。
リーネが肩を支える。
「寝てなよ」
「戻さないと」
「その体で?」
オウルは袋へ右手を伸ばした。指が細かく震えている。
「十二人は、まだ僕が《物品化》したままです」
湊の視線が袋へ落ちる。
獣人国でヨークが使っていたのと同じ名前だった。人を一時的に物として扱い、魔法袋へ入れて運ぶ能力。
「解除します。一人ずつ」
クロが首筋の黒い筋を見た。
「動きが出たら止めろ」
「……分かってる」
*
地面へ厚い布が敷かれ、治療担当が十二人分の場所を空けた。
湊は袋を運び、オウルの手が届く位置へ置く。黒い革は冷たく、中に十二人がいるとは思えないほど軽かった。
オウルが袋へ触れて目を閉じる。
紫の光が表面を流れ、空気がわずかに歪んだ。
次の瞬間、布の上へ一人の女性が現れた。
手首と足首には、秘匿牢で見た魔力封じの拘束具が嵌まっている。治療師がすぐに駆け寄り、呼吸と脈を確認した。
「呼吸あり。脈もあります」
拘束具が外される。女性の唇がかすかに動いたが、声にはならない。
それでも、生きていた。
湊は袋と、戻ってきた女性を交互に見た。
「次を」
オウルの額には、もう汗が浮いている。
再び紫の光が走り、二人目の男が布の上へ戻った。現れた途端に苦しそうに咳き込み、治療師が体を横へ向けて背を支える。
三人目。四人目。
人が戻るたび、湿った土の匂いに薬と汗の匂いが混じっていった。呻き声、荒い呼吸、毛布の擦れる音。静かだった窪地へ、少しずつ命の気配が増えていく。
六人目を戻したところで、オウルの腕が落ちた。
「休んで」
リーネが背を支える。
「まだ半分いる」
「だから休むんだよ」
オウルは唇を噛み、袋を見た。
その横ではシロが伏せ、戻された者たちを青い目で追っている。
――よわい。
――ああ。
――でも、いきてる。
――生きてる。
シロの尾が、地面を一度叩いた。
オウルがその音に目を向ける。
「全員……生きていたんだね」
「牢には薬も水もありました」
湊が言う。
「エイラさんが世話をしてた」
オウルは目を伏せた。
「生かしていたんじゃない」
声は小さい。
「運ぶまで、死なせなかっただけだ」
誰も否定しなかった。
リーネの手だけが、背中から離れなかった。
少し呼吸を整えてから、オウルはもう一度袋へ手を伸ばした。
*
七人目、八人目、九人目。
戻すたびに、オウルの肩が沈んでいく。クロは首筋に残る黒い筋を見続けていた。
十人目が戻った直後、その筋がわずかに脈打った。
「止めろ」
クロの声が低くなる。
オウルの右手が止まった。
「あと二人」
「術式が動いた。続ければ、また暴れるぞ」
荒い呼吸が夜気へ白く混じる。
湊は袋へ手を置いた。中には、まだ二人いる。
「少し休んでください。今は安全です」
オウルが湊を見る。
「僕が意識を失ったら、解除できない」
自分の能力だからこそ、その言葉には迷いがなかった。
「二人を、ここに残したくない」
クロは黒い筋を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「脈が落ち着くまで待て」
オウルは目を閉じる。
数度、浅い呼吸を繰り返した。
やがてクロの尾が一度動く。
「一人だけだ。戻したらまた止まれ」
「……ありがとう」
紫の光が弱く走る。
十一人目は年若い男だった。現れた体は冷え切っていて、治療担当がすぐに毛布で包み、細い回復魔法を流す。
その横で、オウルの上半身が傾いた。
リーネが抱き止める。
「もうやめな」
「まだ……」
最後の一人。
湊が秘匿牢で見た、呼吸の浅かった男が残っている。
オウルの右手はもう上がらなかった。
クロが胸元へ前足を当て、首筋を見る。
「まだ静まっている。だが、次に動けば止めるぞ」
オウルは左手で自分の右手首を持ち上げた。
袋へ触れる。
「戻れ」
紫の光が弱く瞬き、袋が大きく歪んだ。
最後の男が布の上へ現れる。
胸が動いていない。
治療師が駆け寄り、首へ指を当てた。
「脈はあります。呼吸補助を」
二人が左右へつき、男の顎を上げる。細い光が胸へ流れ込み、一度、二度と胸が持ち上がった。
男が咳き込んだ。
浅い息を吸う。
「戻りました」
治療師の声と一緒に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
湊は十二人を見渡す。
「全員?」
一人ずつ確かめた治療師が、最後に頷いた。
「全員、生きています」
オウルの瞼が閉じた。
体から力が抜け、リーネの腕へ沈む。
「オウル兄さま」
返事はない。
クロが首元へ前足を当てた。
「気を失っただけだ。黒い術式も静まっている」
リーネはしばらくオウルの顔を見ていたが、やがて治療担当へ体を預けた。
立ち上がり、地面に置いていた剣を拾う。
「どこへ?」
湊が聞く。
リーネは爆発のあった方角を見る。
「あの二人を迎えに行く」
声は静かだった。
「置いて帰れないから」
湊は頷いた。
リーネが夜の森へ戻っていく。
窪地には、十二人の呼吸があった。弱く、ばらばらで、それでも確かに続いていた。




