新月
翌日の夕刻。
空に月はなかった。
完全封鎖結界が発動する前に、湊たちは南西の非常避難路より先へ出ていた。分かっているのは、オウルたちが新月の夜にこの道を使うことだけだ。その先で誰と、どこで接触するのかまでは分からない。
出口から少し離れた岩の窪地には、治療担当と少数の兵が身を伏せている。覆いをかけた小さな魔石灯も置かれ、湊が《影渡り》で戻れるだけの濃い影を作っていた。
シロは元の大きさへ戻り、窪地の入口を塞ぐように伏せている。アカはその背に乗り、赤い炎が外から見えないよう岩陰へ身を寄せていた。
――みなと、いく?
――ああ。
――きをつけて。
――シロもな。
シロの耳が前を向いた。アカも湊へ飛ぼうと羽根を広げたが、シロの背へ爪を立てたまま踏みとどまる。
「終わったら戻る」
肩のクロが鼻を鳴らした。
「無茶はするなよ」
「うん」
クロは肩から降り、少し離れたリーネの足元まで歩いた。リーネは銀髪を外套の中へ隠し、剣にも布を巻いている。
「私は術式を見る。お前は向こうが持ち出すものを確保しろ」
「ああ」
未承認の通行許可にあったのは、オウル本人、護衛二人、そして携行物だった。十二人をそのまま連れて通る登録ではない。何を使うにせよ、三人が持ち出すものを先に奪う。それが湊の役目だった。
少数の兵は出口から距離を取り、森の外縁へ散っている。オウルたちが外へ出たら、湊が先行して追い、リーネたちがさらに後ろからつく。
リーネが森へ視線を向けた。
「始まるよ」
*
地面の奥から、低い振動が響いた。
靴の裏から足へ伝わり、骨の内側まで震わせる。森の木々が一斉に葉を鳴らし、世界樹の方角から淡い光が根から根、枝から枝へ走っていった。
やがて森全体を囲うように薄い光の壁が立ち上がる。湿った土と葉の匂いが一瞬だけ濃くなり、結界の外に立つ湊の頬を冷たい空気が撫でた。
エルフ国完全封鎖結界。
天然結界へ一夜限りの封鎖を重ねた光は、しばらくすると目では追いにくいほど薄くなった。それでも森の向こうが一枚遠ざかったような感覚が、肌に残っている。
クロが目を細める。
「傷ついた世界樹で、ここまで張るか」
「長たちが三日かけたからね」
リーネは森を見たまま答えた。
湊は《マッピング》を開く。オウル、エイラ、ダリウス。三つの名前付きピンは、まだ王宮の中にあった。
*
日が沈んだ。
虫も鳥もほとんど鳴かない。岩の冷たさが服を通して背中へ染み込み、森まで息を潜めているようだった。
湊たちは待った。クロは隣で丸くなっている。眠っているように見えて、耳だけが時折動く。リーネは木へ背を預け、森の暗がりから目を逸らさなかった。
やがて、《マッピング》の中で一つのピンが動いた。
「来た」
オウルが、あの壁の奥へ入っていく。エイラが続き、廊下に残っていたダリウスも少し遅れて同じ場所へ入った。
三つのピンが重なったまま、長く動かない。
湊は膝の上で手を組み直した。あの奥には十二人がいる。そして三人が外へ出るための許可には、「携行物」が登録されていた。
時間が過ぎる。想定していたより長い。
クロが体を起こした。
「遅いな」
「十二人いるからな」
妖精族の長から異常を知らせる合図はない。牢の周囲を流れる水とマナにも、大きな乱れは起きていないはずだった。
さらに待つ。やがて重なっていた三つのピンが離れ、王宮の外へ動き始めた。
南西。非常避難路へ向かっている。
湊は立ち上がった。
「行く」
リーネが頷く。
「こっちは少し遅れてつく」
クロもその足元へ残った。
「袋を見失うな」
「ああ」
*
湊は非常避難路の出口近くまで先回りし、太い根が落とす影へ沈んだ。外の音も景色も消え、《マッピング》だけが残る。
三つのピンが節点で止まる。
しばらくして、根を伝う低い震えが足元へ届いた。オウル、エイラ、ダリウスのピンが、閉じた森の境界を越えてくる。
周囲にほかの光点がないことを確かめ、湊は《隠密》《音操》《認識阻害》を重ねて全身を影の外へ戻した。
夜の冷気と、湿った土の匂いが戻ってきた。少し先をダリウスが歩き、剣と盾を持って何度も左右へ視線を送っている。その後ろのオウルは顔が白く、足取りも危うい。肩には黒い魔法袋が掛けられ、エイラが片腕を支えていた。
「オウル様。少し休まれては」
「時間がない」
掠れた声だった。
「この状態を、長く保てない」
エイラの視線が黒い袋へ落ちる。
「あと少しです」
オウルは答えず、肩紐を握り締めた。指先が細かく震えている。
湊の視線も袋へ吸い寄せられた。秘匿牢にいた十二人。登録されていた「携行物」。そして今、限界に近いオウルが抱えている一つの袋。
胸の奥が冷える。今すぐ奪いたかったが、三人がどこへ向かうのか、誰が待っているのかはまだ分からない。
湊は再び影へ沈んだ。
――出た。黒い袋を持ってる。追う。
クロへ念話を送る。
――分かった。こちらも動く。
オウルたちの少し先にある影へ渡り、距離を保って追った。
三人は街道へは出なかった。森の外縁に沿う細い獣道を進み、やがて低い岩場へ向きを変える。
《マッピング》の外縁に、六つの光点が入ってきた。
反対側から近づいてくる。
六つは迷わず進み、オウルたちの三つのピンへ向かって距離を縮めていった。
湊は影の中で動きを追う。
三つと六つ。
やがて全ての光点が、浅い岩窪の中で止まった。
ここだ。
湊は少し離れた根の影まで渡った。《マッピング》には後方から近づくリーネたちの位置も見えている。
周囲を確認し、三重隠密を重ねて全身を影の外へ戻した。
六人とも顔を隠していた。紋章はない。中央の男を挟んで前に二人、後ろに二人の魔術師。最後の一人は歩きながら何度も背後を確かめている。
先頭の二人が左右へ分かれ、魔術師が杖を握った。
中央の男が懐から黒い木札を取り出した。半分に割られた通行標だった。オウルも外套の内側から同じ形の札を出し、二つを重ねる。切断面がぴたりと合い、淡い紫色の光が表面を走った。
男が短い言葉を口にし、オウルが応じる。中央の男は頷いて手を差し出した。
「荷を」
オウルが魔法袋の肩紐へ手をかける。
湊は無銘の柄を握った。ここまで待った。
腰を落とし、分身を一体作る。《並列思考》を重ねると、意識の中にもう一つの視点が開いた。一つは正面へ出る分身。もう一つは、袋を奪う本体。長くは要らない。
木陰のリーネが、こちらへ見えるよう指をわずかに動かした。
合図だった。




