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新月

翌日の夕刻。


空に月はなかった。


完全封鎖結界が発動する前に、湊たちは南西の非常避難路より先へ出ていた。分かっているのは、オウルたちが新月の夜にこの道を使うことだけだ。その先で誰と、どこで接触するのかまでは分からない。


出口から少し離れた岩の窪地には、治療担当と少数の兵が身を伏せている。覆いをかけた小さな魔石灯も置かれ、湊が《影渡り》で戻れるだけの濃い影を作っていた。


シロは元の大きさへ戻り、窪地の入口を塞ぐように伏せている。アカはその背に乗り、赤い炎が外から見えないよう岩陰へ身を寄せていた。


――みなと、いく?


――ああ。


――きをつけて。


――シロもな。


シロの耳が前を向いた。アカも湊へ飛ぼうと羽根を広げたが、シロの背へ爪を立てたまま踏みとどまる。


「終わったら戻る」


肩のクロが鼻を鳴らした。


「無茶はするなよ」


「うん」


クロは肩から降り、少し離れたリーネの足元まで歩いた。リーネは銀髪を外套の中へ隠し、剣にも布を巻いている。


「私は術式を見る。お前は向こうが持ち出すものを確保しろ」


「ああ」


未承認の通行許可にあったのは、オウル本人、護衛二人、そして携行物だった。十二人をそのまま連れて通る登録ではない。何を使うにせよ、三人が持ち出すものを先に奪う。それが湊の役目だった。


少数の兵は出口から距離を取り、森の外縁へ散っている。オウルたちが外へ出たら、湊が先行して追い、リーネたちがさらに後ろからつく。


リーネが森へ視線を向けた。


「始まるよ」



地面の奥から、低い振動が響いた。


靴の裏から足へ伝わり、骨の内側まで震わせる。森の木々が一斉に葉を鳴らし、世界樹の方角から淡い光が根から根、枝から枝へ走っていった。


やがて森全体を囲うように薄い光の壁が立ち上がる。湿った土と葉の匂いが一瞬だけ濃くなり、結界の外に立つ湊の頬を冷たい空気が撫でた。


エルフ国完全封鎖結界。


天然結界へ一夜限りの封鎖を重ねた光は、しばらくすると目では追いにくいほど薄くなった。それでも森の向こうが一枚遠ざかったような感覚が、肌に残っている。


クロが目を細める。


「傷ついた世界樹で、ここまで張るか」


「長たちが三日かけたからね」


リーネは森を見たまま答えた。


湊は《マッピング》を開く。オウル、エイラ、ダリウス。三つの名前付きピンは、まだ王宮の中にあった。



日が沈んだ。


虫も鳥もほとんど鳴かない。岩の冷たさが服を通して背中へ染み込み、森まで息を潜めているようだった。


湊たちは待った。クロは隣で丸くなっている。眠っているように見えて、耳だけが時折動く。リーネは木へ背を預け、森の暗がりから目を逸らさなかった。


やがて、《マッピング》の中で一つのピンが動いた。


「来た」


オウルが、あの壁の奥へ入っていく。エイラが続き、廊下に残っていたダリウスも少し遅れて同じ場所へ入った。


三つのピンが重なったまま、長く動かない。


湊は膝の上で手を組み直した。あの奥には十二人がいる。そして三人が外へ出るための許可には、「携行物」が登録されていた。


時間が過ぎる。想定していたより長い。


クロが体を起こした。


「遅いな」


「十二人いるからな」


妖精族の長から異常を知らせる合図はない。牢の周囲を流れる水とマナにも、大きな乱れは起きていないはずだった。


さらに待つ。やがて重なっていた三つのピンが離れ、王宮の外へ動き始めた。


南西。非常避難路へ向かっている。


湊は立ち上がった。


「行く」


リーネが頷く。


「こっちは少し遅れてつく」


クロもその足元へ残った。


「袋を見失うな」


「ああ」



湊は非常避難路の出口近くまで先回りし、太い根が落とす影へ沈んだ。外の音も景色も消え、《マッピング》だけが残る。


三つのピンが節点で止まる。


しばらくして、根を伝う低い震えが足元へ届いた。オウル、エイラ、ダリウスのピンが、閉じた森の境界を越えてくる。


周囲にほかの光点がないことを確かめ、湊は《隠密》《音操》《認識阻害》を重ねて全身を影の外へ戻した。


夜の冷気と、湿った土の匂いが戻ってきた。少し先をダリウスが歩き、剣と盾を持って何度も左右へ視線を送っている。その後ろのオウルは顔が白く、足取りも危うい。肩には黒い魔法袋が掛けられ、エイラが片腕を支えていた。


「オウル様。少し休まれては」


「時間がない」


掠れた声だった。


「この状態を、長く保てない」


エイラの視線が黒い袋へ落ちる。


「あと少しです」


オウルは答えず、肩紐を握り締めた。指先が細かく震えている。


湊の視線も袋へ吸い寄せられた。秘匿牢にいた十二人。登録されていた「携行物」。そして今、限界に近いオウルが抱えている一つの袋。


胸の奥が冷える。今すぐ奪いたかったが、三人がどこへ向かうのか、誰が待っているのかはまだ分からない。


湊は再び影へ沈んだ。


――出た。黒い袋を持ってる。追う。


クロへ念話を送る。


――分かった。こちらも動く。


オウルたちの少し先にある影へ渡り、距離を保って追った。


三人は街道へは出なかった。森の外縁に沿う細い獣道を進み、やがて低い岩場へ向きを変える。


《マッピング》の外縁に、六つの光点が入ってきた。


反対側から近づいてくる。


六つは迷わず進み、オウルたちの三つのピンへ向かって距離を縮めていった。


湊は影の中で動きを追う。


三つと六つ。


やがて全ての光点が、浅い岩窪の中で止まった。


ここだ。


湊は少し離れた根の影まで渡った。《マッピング》には後方から近づくリーネたちの位置も見えている。


周囲を確認し、三重隠密を重ねて全身を影の外へ戻した。


六人とも顔を隠していた。紋章はない。中央の男を挟んで前に二人、後ろに二人の魔術師。最後の一人は歩きながら何度も背後を確かめている。


先頭の二人が左右へ分かれ、魔術師が杖を握った。


中央の男が懐から黒い木札を取り出した。半分に割られた通行標だった。オウルも外套の内側から同じ形の札を出し、二つを重ねる。切断面がぴたりと合い、淡い紫色の光が表面を走った。


男が短い言葉を口にし、オウルが応じる。中央の男は頷いて手を差し出した。


「荷を」


オウルが魔法袋の肩紐へ手をかける。


湊は無銘の柄を握った。ここまで待った。


腰を落とし、分身を一体作る。《並列思考》を重ねると、意識の中にもう一つの視点が開いた。一つは正面へ出る分身。もう一つは、袋を奪う本体。長くは要らない。


木陰のリーネが、こちらへ見えるよう指をわずかに動かした。


合図だった。


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